2000年07月10日:鬱憤とか 2000年07月11日:死臭について、再び 2000年07月12日:「南總里見八犬傳」 2000年07月13日:夏オフ仕込み開始 2000年07月14日:聖レイ、2冊追加 2000年07月15日:三半規管とは 2000年07月16日:皆既月蝕目次へ戻る 先週へ 次週へ
非常にイヤな夢を見た。
自分が出願したパテントの実施例(プログラム)にバグを発見した、という夢である。イニシャライズ忘れが一箇所あり、条件次第では、正しく動作しないのだ。「請求範囲」は、あとから修正出来るのだが、実施例の修正は、確か出来ないはずである。誤記訂正は可能だが、実施例の動作の根幹に関わる箇所だし.. このパテント、通るんだろうか? ..などという夢を、どうして見なくちゃならんのだ。
大体、この夢の中で、このバグの存在を(面白そうに)指摘したのは、出願当時の私の上司であって、このパテント自体、彼が基本的なアイデアを出したものを、私が実施例を含めて明細書にまとめ上げたのである。人ごとじゃないだろ、笑ってないで、あんたも対策考えろよっ!!
..これがこの夢のメインテーマだったらしい。[;^J^]
目次へ戻る私は、幸か不幸か“死臭”というものを嗅いだことがない。それを形容する言葉は、いろいろ知っているが、実感としては判っていない。(葬儀に出席したことは何度もあるが、巧妙に防臭されていたのである。)
とにかく、非常に“嫌な”臭いであるらしい。それはそうだろう。理屈の上からも、そうあるべきだ。なぜなら、死体の近くにいると(いわゆる“同じ空気を吸っていると”..死体は普通は呼吸をしないが [;^J^])、疫病に罹患する恐れがある。毒素も出ているだろう。だから、その近くにいることが耐えられないような臭い(等)を発するのは、良くできた自然の仕組みなのである。
なんにせよ、それがどんな臭いであるのかは、私は知らないのだが..小説や漫画を読んでいて、時々、不思議に思うことがある。それは、登場人物たちが、その“嫌な”臭いが“死臭”である、と、ただちに判断できていないシーンが、珍しくないことである。
今すぐ思い出せる実例として、漫画から2点挙げる。
まず、「鉄人28号」(横山光輝)の「ブラック博士の巻」。ある男が密かに地下室で殺され(、というか地下室に転落死させられ、)その死体が地下室に放置された結果、日に日に悪臭が酷くなる。そして“行方不明”になった、その男の仲間たちが、あまりの悪臭に耐えかねて捜索した挙げ句、その地下室と男の死体を発見するのだが..
その悪臭が気になりだした初期の段階では、「おい、へんなにおいがしないか」「やっと気づいたな。おれはきのうから気づいてた。まったくいやなにおいだぜ」「なんのにおいだろう」..そして夜になって、「おい、においはだんだんひどくなるぜ」..そしてついに死体を発見して、「においは辰五郎の死体のくさったにおいなんだ」。殺された辰五郎も、この男たちも、実は悪人であり、従って、死臭を嗅ぎ慣れているはずなのだが、それが“死臭”であることに、死体を発見するまで、気が付かないのである。
もう一例。「墨攻」(酒見賢一/森秀樹)。これも全く同様で、城壁の外で、「なんだ、この酷いにおいは!?」、と、何人もが臭いの元を探って荒野を走った挙げ句、腐敗ガスでパンパンに膨れ上がった溺死体を発見したのである。
彼らは兵士であって、長期間に渡って(凄惨な)戦場にいるのだから、それが“死臭”だと判らない方が、どうかしている。
「鉄人28号」の方はともかくとしても、「墨攻」の例は、どうにも納得が行かないのである。結局、作者(原作者か作画家)が、「死臭」に対する「なんだ、この臭いは!?」、というワンパターンのリアクションに、囚われているのではなかろうか。あるいは実は“死臭”とは、実にバリエーション豊かなものであって、ひとつやふたつの死臭を知っているからと言って、他の死臭もそれが死臭であると直ちに認識できるようなものではない、とか?
目次へ戻る曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」を、本日、ついに読了した。(恥ずかしながら、これまで未読だったのである。)頁を繰るのに時間がかかる本ではないのだが、何しろ大長編であるのと、まとまった時間を取れない(ために、少しずつ読み進めるので、毎回、記憶を呼び覚ますために、前日(または数日前)に読み終えた箇所から数頁乃至数十頁遡って読み始めることになる)のと、数年前に目録買いした古い岩波文庫版であって、ほとんど崩壊しかかっているので、慎重に取り扱う必要があることから、読み通すのに、かなり長い時間がかかってしまっていたのだった。内容については、ここで述べるまでもあるまい。私はこれまで「八犬伝」と言えば、吾妻ひでお版しか通読していなかったので、犬塚信乃は女だとばっかり、信じ込んでおりました。[;^J^](大威張りの大実話 [;^.^])
この岩波文庫版(「南總里見八犬傳」全10巻)の発行日は、“昭和13年から16年にかけて”である。校訂者・小池藤五郎による最終巻の解説に、面白い一節がある。
「明治維新は大御稜威(おほみいつ)のもと、八犬士さながらの志士の力で完遂された。八犬士は武士道の權化(ごんげ)であるが、微賤の者、傳統的典型的の經路の武士ではない。若くて無名で、惡い傳統に拘束されず、内に國防の充實を高度化し、外に戰争遂行上大膽な方法を採つた。八犬士の電撃的作戰に聯合軍の首腦者の多くが捕虜となり、和睦の議さへ持出せなかつた。關東共榮の目標を知悉してゐた里見家在京の家臣は和睦へのきつかけを作り、和議成立後は少しの怨も残らず、戰争は宿怨を完全に霧消せしめたと言ふ理想的のものであつた。斯うした點は偶然と言へばそれ迄であるが、現下東亞共榮圏の確立に専念する皇國大日本の立場に、餘りにも類似點が多い」
..これが、古書を読む楽しみなのである。
目次へ戻るヤマハ浜松店で、「ショスタコーヴィチ/交響曲第5番」「チャイコフスキー/“くるみ割り人形”組曲」「サン=サーンス/交響曲第3番“オルガン付き”」のスコアを購入し、天狗でざっとチェックする。
そう、今年も夏オフの季節が来たのだ。今年のオーケストラ枠の曲目は、まだ確定していないのだが、選曲担当者の腹案というか、ほぼ最終版のラインナップは発表されている。その中で、シンセが必要になるはずであり、かつ、私の手元にスコア(総譜)が無いものについて、電子鍵盤が何台必要になるか、チェックした、というわけ。
今年は、極端にややこしい曲は無い。例によって、グロッケン、シロフォンといった“鍵盤打楽器”を、本物を用意するかシンセで代奏するか、という問題はあるのだが、(これによって、奏者の数と、同時に必要になる鍵盤の数が影響を受ける、)それを勘案しても、シンセは2台で足りる筈である。鍵盤奏者の最大数を要求するのが、(ついにこれを演奏する日が来たか、と、感慨深い)「交響曲第3番“オルガン付き”」で、これはもともとパイプオルガン奏者1人、ピアノ奏者2人を要求する。そして、足鍵盤のある、本格的な電子パイプオルガンを用意することは出来ないので、足鍵盤パート用にシンセをもう1台用意して、オルガン奏者は計2名。つまり、鍵盤楽器奏者は、合計4人である。まぁこのくらいは、動員できるでしょう。
目次へ戻る聖レイを2冊(「生贄バ−ジン」「ギラギラ少女」(※))、某ページで発見して、即発注。ここしばらくスキャンしていなかったページだが、2日前に登録されたばかりだったようである。グッドタイミングと言うべきか、危うく誰かにかっさらわれるところだった、間一髪、と言うべきか。
こういうことがあるから、最低でも2〜3日に一度の巡回チェックは、欠かせないのだ。これは(大都市圏に住んでいようがいまいが)リアルワールドの古書店群相手では、時間的にも交通費的にも不可能なこと。ネット社会のありがたさが、身にしみる。
※ | こういうタイトルを書き写すときに、いちいち羞恥心を感じないことにするのが、コツである。もっと(生物学的な)とんでもないタイトルがあるんだから。[;^J^] |
国会図書館で、恒例の手塚治虫&吾妻ひでお調査。今日は、酷い目に会いました。まぁ、睡眠時間3時間弱という、ベストでは無いコンディションで臨んだ、私のせいかも知れませんがね..
メインは、「スターログ」誌のチェックであるが、これに割り込ませて(あるいは並行して)複数の初出誌のチェックを行った。そのうちのひとつが、「毎日小学生新聞」である。
そもそもは、「毎日新聞」の1953年の紙面のどこかに、「たみちゃん兄弟(兄妹?)」という作品があるはず、という情報であった。あまりに曖昧なので、このことは数年前から知っていたにも関わらず、1953年の毎日新聞(大阪版)の紙面の総チェックを行ったのが、ちょうど一ヶ月前。その時は、この作品を発見できなかったのである。
もろろん、見落とした可能性は、ある。また、「大阪版」ではなく(例えば)「東京版」に掲載されていたのかも知れない。しかしさらに大きな可能性として、「毎日新聞:1953年」という情報が、そもそもガセだったのかも知れないのだ。
このレベルで疑い始めると(というか、疑い始めざるを得ない状況に追い込まれると)、ほとんど手がかりが無くなってしまう。「毎日新聞」は「読売新聞」の誤植かも知れない。「1953年」は「1963年」の誤植かも知れない..
私が思いついた、最も蓋然性の高い“誤植”が、「実は“毎日新聞”ではなく“毎日小学生新聞”である」、という仮説である。これに期待して、本日、「毎日小学生新聞」の1953年の紙面を、総チェックしたのであるが..マイクロフィルムを3ヶ月分もチェックしないうちに、異様に疲れ始めていた。普通の新聞は、マイクロフィルムに“縦スクロール”する形で焼き込まれているのだが、この「毎日小学生新聞」は、縦横比の関係からか、“横スクロール”するのである。これまで、新聞のマイクロフィルムを、一日で1万ページ以上チェックしたことは、ざらにある。「毎日小学生新聞」の1年分は、高々千数百ページであるから、楽観視していたのだが..
結局、ここでも「たみちゃん兄弟」を発見できず、やれやれ、と、マイクロフィルムのリールを巻き戻して、貸し出し/返却カウンターに持っていこうとしたら..何故か、カウンターが、左前方にある。まっすぐアプローチしているはずなのに、解せないな、と、思っているうちに、カウンターが右前方に移動した。
つまり、カウンターを固定した系で観察すると、私のカウンターへの接近経路が、蛇行しているようなのである。
要するに、完全に目が回っているのだ。(カウンターにマイクロフィルムを返したのち、)辛うじてトイレによろめきこんで、朝食を全部吐き出してしまった..
“横スクロール”がまずかったのだ、としか思えない。私(というか、我々)は、“縦スクロール”には慣れているが、1000ページ以上も“横スクロール”で画面を凝視する機会は、まずない。そして、横方向に目を往復させる動きは、まさに、自動車等の乗り物に“酔う”ときの、目線の動きと同じなのである..
..まぁ、トイレから這いだしてから午前中一杯、ロビーのソファに倒れ込んで、ぜぃぜぃと休養したおかげか、なんとか昼食を食べる食欲も復活し、午後には、いつものペースで作業できた。
..とは言っても、かなり効率は落ちている。午前中の後半、何も出来なかったのもこたえたが、調査誌がまずかった。なにしろ、1980年前後の「スターログ」誌である。無茶苦茶、時間がかかる。
この雑誌ならではの、特殊事情というものがありまして..例によって、手塚治虫の絡んでいる記事をピックアップする“だけ”なのであるが、これが、目次に頼っていてはポロポロ取りこぼしてしまうのである。ある程度まとまった規模の「インタビュー」「座談会」等は問題無いのだが、これら以外の細々とした「コメント」「談話」「選評」等の類は、目次に名前が載っていないことが珍しくないのだ。つまり、全ページ、スキャンしなくてはならないのだが..
..よ、読むな、読むなってば! [;^O^] 書評・映画評・雑誌評・ゴシップ記事。それらに加えて、目を奪うクォリティのSFアートの山! この時代のSF界の面白いこと! 心を鬼にして、各記事の筆者だけをチェックしつつ、内容は素通り..出来るわけが無い [;^.^]。参りました。午前中倒れていたとはいえ、3年分もチェック出来んかった。
並行して「アサヒ芸能」誌、「Apache」誌をチェック。リストから洩れていたエッセイが、ザックザク [^.^]。というか、これらに連載されていたエッセイのうちの一部だけが、全集に収録されているのである。初出誌に当たって、それらが実は連載であった、ということに気が付いたわけ。実に危ない状況ではある。初出誌に「連載第n回」と記されていれば、直ちに事態が判明するのだが(「Apache」誌の映画評)、「アサヒ芸能」誌掲載のエッセイについては、「なんか匂うな」、と、前後の号を見て、発見したのである。
「日本経済新聞:66/01/01」掲載の「あけまして火星」は、“新発見の漫画作品”である。エッセイ・座談会の類や(カットに近い)ヒトコマ漫画等ならばいざ知らず、ある程度まとまった規模の漫画作品が、今ごろになって新たに“発見”されたことに驚く。これは、「まんだらけZENBU」第7号の目録に掲載されていたので、気が付いたのである。全く、あとどれだけの作品が、未発見のまま眠っているのであろうか?
吾妻ひでお関係では、「みこすり半劇場」誌、チェック了。結局、未知の作品は発見出来ず。谷山浩子の「ねこの森には帰れない」(新潮文庫)に収録されている、「谷山浩子が行く!」というタイトルの、吾妻ひでおによる解説をチェックし、リストに加えることにする。吾妻ひでおのリストについては、「カット・イラストの類」の他、「文章系」も、一応対象外ではあるのだが、この一文は、谷山浩子との重要なジョイント作品である「輪舞」につながる内容であることと、「谷山さん、一緒にビッグ・メジャーになりましょう」、という結語の、涙無しには読めない味わい深さを勘案した。
渋谷へ。東急ハンズでB4版の投げ込み式ファイルを5つ。(これだけで7千円もする。)まんだらけ。神保町へ。中野書店と高岡書店。秋葉まで歩いて、石丸でひさびさにCDをまとめ買い。アーサー・フィードラー&ボストンポップスのシリーズを10枚全部と、ミュンシュのシリーズが再プレスされていたので、買い忘れていたところを6枚、その他。
結構へとへとになりながら、横浜の実家へ。
目次へ戻る9時24分のバスに乗って、Tさん宅へ。
付録・単行本・書籍類・同人誌類のチェックは、一応、一段落。コレクション中の見落としは色々あることが既に判っているが、それらは個別につぶして行くことにして、今日の調査のメインは、雑誌切り抜き・コピーの類である。これまた、一日で調査しきれる量では無い。
特に大きな成果は、「カンパチ」「夜明け城」「ジャングル大帝(ディズニーランド版)」の初出情報の確定である。また、謎の作品「機動隊が来たら……」(「週刊アンポ」誌掲載)のコピーを閲覧でき、これのタイトルが、正しくは「4月28日はデモへ: 機動隊が来たら……」であることが判明した。但し、このコピーには初出号の情報が欠落しており、確定しきれなかった。従来からの情報では「70/04/28」であり、これは作品のタイトルから考えても、まず間違いは無さそうなのだが..逆に、この作品のタイトルに引きずられた、誤った情報という可能性も、否定しきれないのである。「週刊アンポ」誌は、国会図書館で、この作品が掲載されていると思われる号のみ、欠号。大宅壮一文庫にある「週刊アンポ」は、名前は同じだが、別の雑誌。古書店でもなかなかお目にかかれず、まれに出ていたとしても、大概はセット販売である。(伊勢丹大古本市の目録に3万円で出ていた時は、やむを得ず見送り。三軒茶屋の「喇嘛(らま)舎」のカタログに1万5千円で出ていた時は、数週間迷ってからFAXしたら、既に売れてしまっていた。)
16時に辞去して、浜松に直帰。食事をしてから研究所の駐車場へ。皆既月蝕の観望会なのである。昨日までの天気予報では、どうにも期待できなかったのだが、どうしてどうして、最初から最後まで、見事に晴れた。堪能した。
大小さまざまの望遠鏡や双眼鏡で観測。驚くほど大きく明るく見える望遠鏡を覗いていると、ほとんど、欠けていく影の進行が目に見えるかと思えるほどである。
「あぁ、チコクレーターに地球の影がかかる! あそこにあるアレがアレして、えらい騒ぎに!」「手を振ったら、影が映るんじゃないか?」「暗い部分で、何かがチカチカと!」「影を伝って飛来してくるモノが!」
完全に影に入った月は、地球からの反射で、赤暗く照り輝く。普段の満月はどうしても(明るければ明るいほど)平面的に見えてしまうのだが、この仄かな薄暗さのもとでは、完全に球体に見える。実に素晴らしい。
「実は髑髏模様だったことが、良く判るね」
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