*2000年05月29日:基本が大切
*2000年05月30日:音楽と暗号
*2000年05月31日:本命以外は、続々入荷
*2000年06月01日:長岡鉄男、死す
*2000年06月02日:外見で判断する
*2000年06月03日:普段の言動で判断する
*2000年06月04日:国体を守ろう!
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*2000年05月29日:基本が大切


 先月発売の「レコード芸術」誌5月号に載っていた、とある対談。作曲家の吉松隆と、音楽評論家の片山杜秀である。(149頁より引用。)

吉松「交響曲3番は、最初にマックに全部打ち込んだのね。音はシンセで聴けるんだけど、ご存じのように、オーケストラみたいにそんなに聴ける音じゃない」
片山「そうですね」
吉松「その音で45分聴いて飽きないように一生懸命つくったわけ。すると、ものすごく密度の濃いものができる(笑)」

 ..電子楽器メーカーに勤めている身としては、もうひとつ「(笑)」が引きつる対話なのだが [;^J^]、しかし、「ものすごく密度の濃い」作品を作る一助にはなっているわけで、その意味で、音楽芸術のために、役立っているわけなのである..

 (..なんか、すこし違うぞ。[;^J^])

 ここで吉松隆が述べているのは、かなり一般的(普遍的)な原理である。(いまだ想像上の)作品の、(想像上の)仕上がりの華麗さ・素晴らしさに眩惑されてしまうと、作品の骨格がグズグズに脆くなる。古来、管弦楽曲の作曲家といえども、ピアノを使って(あるいはピアノ曲として)作曲するのが、ごく普通のことであった。あのヴァーグナーですら、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の「ピアノ譜」が完成した段階で、「作曲は終わった」、と、ある人への手紙で報告している。「あとは、半年間の、単調な労働(即ち、オーケストレーション)が残っているだけです」、と。

 美術作品でも、同じことだろう。「下書き」とは少しニュアンスが異なるが、単色のクロッキーで表現されても、圧倒的な感銘を与える「アイデア」と「構図」。文学作品ならば、洒落た会話や気のきいた装飾の一切が無い、シノプシス(梗概、粗筋)か。映画ならば脚本、あるいは絵コンテ。漫画ならばネーム。

 朝礼風に話を進めると、これは、われわれの仕事についても、言えるはずのことなのである。私はメーカーのことしか知らないので、メーカーでの例を引くが、開発中の(その意味では、いまだ“想像上”の)次期新製品の「素晴らしさ」のイメージに酔っていては、駄目なのである。(無論、少しは必要だ。開発チームの志気を高めることができるから。)それよりも、ハードウェアとソフトウェアを、地道に、確実に設計すること。精度の高い日程計画を立てること。営業部門を始めとする、社内外の関係部署(関係者)とのインターフェースを、あやまたないこと..

 ここで話を冒頭に戻すと、電子楽器をツールとして操る作曲家たちに、思わず密度の低い作品を書かせてしまうような、音色それ自体の魅力で彼らの理性を奪い、緻密な設計を放棄させ、ひいては、日本と世界の創作音楽の文化水準を低からしめるのが、我々電子楽器メーカーの“使命”(あるいは“意地”)であろう..

 (..それは、かなり違うぞ。[;^.^])

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*2000年05月30日:音楽と暗号


 昨日からの、電子楽器つながりだが..別に電子楽器に限らず、多くの「ハイテク製品」には、「テストモード」や「隠しモード」に入るための、裏操作がある。(別に「業務上知り得た秘密」でもあるまい。こんにちでは、常識である。)

 そのモードへの「入り方」が、問題なのである。簡単に見破られては、「隠し」モードにならない。なにしろ、必要があって隠しているのだから。

 大抵の場合はソフトウェアで実現しているので、テストモードへの入り方を果てしなく難しく覚えにくく困難にすることは、いともたやすい。しかしそれでは、我々自身が困る。開発者も、市場から不良で戻ってきた、その製品を修理するサービスマンも、その「隠しモード」に、しばしば入らなければならないのだから。

 だから、「市場で、ちっとやそっとでは発見出来ず」、しかも、「とても簡単で手数が少ない」操作方法で入らなければならない。(このスイッチとそのスイッチを押さえながら電源を入れる、なんて程度のものは、あっと言う間に見破られて、その情報が、瞬時にしてインターネットを駆けめぐる、という、結構な時代なのである。)

 こんにちの製品は、ある程度、この難しい(ほとんど矛盾している)要求を、クリアしている。それがどのようなクリアの仕方か、そして具体的な操作方法にはどのような例があるのか、は、さすがに伏せておく。

 ここまで、前振り。以下、妄想。

 せっかく電子楽器を作っているのだから、その楽器の隠しモードへの入り方が、「演奏」というわけには、いかないものか。特定の曲名。特定の奏者の特定の奏法。それを暗号にするのである。

 例えば、単に「焔に向かって」(スクリャービン)という曲名だけがキーになっていると、これの楽譜は市場で誰でも入手出来るので、安全性に欠けるのだが、それに「ホロヴィッツ」という奏者名をもキーにして組み合わせると、これは、(例え、このふたつの暗号が“洩れた”としても)ちっとやそっとでは解けない暗号となる。なぜなら、ホロヴィッツは、楽譜の通りに演奏しないからである。楽譜の音を適当に間引いて、易しく改変して演奏するのではなく、逆に、楽譜に書かれていない音を追加して、ムタクタに難しい(しかも、素晴らしい演奏効果を持つ)曲にしてしまうからである。

 (問題点は、この暗号を解いてテストモードに入るためには、われわれ開発者自身や現場のサービスマンも、超絶演奏技巧を身につけて、いわば「ヴィルトゥオーゾ・サービスマン」と、ならなければならないことだけである。)

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*2000年05月31日:本命以外は、続々入荷


 先週27日に各種取り混ぜて発注した10冊のうち、ほぼ即日キャンセルされたのが5冊。残り5冊のうち4冊(銀背とサンリオのディック)が、昨日と今日、納本された。素速い。(全部、別々の古書店である。)

 最後に残された1冊が、大本命の「失神エンジェル」(聖レイ)であるが..発注した古書店に在庫が残っているか、全く不明。ワクワクドキドキヤキモキヤキモキ..

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*2000年06月01日:長岡鉄男、死す


 今朝になって知りました。長岡鉄男、29日に逝去。

 私自身は、オーディオマニアじゃない、という理由以前に、そもそも根性が無い、という理由から、氏のオリジナルデザインのスピーカーは、ひとつも自作しなかった。しかし、そんな私でも知っているのが「バックロードホーン」であり、そして何よりも、あの「スワン」である。これほどまでにイマジネーションを刺激する、オーディオ評論家・音楽評論家が、いた(いる)であろうか?

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*2000年06月02日:外見で判断する


 “内容”が確かなら、“見てくれ”や“人当たり”など、どうでもいい、と考えている(ネット社会には驚くべき割合で存在しているらしい)人たちへ。

 礼儀正しく(好感を与えながら)“間違ったこと”を言う人と、だらしない格好で、ガムをくちゃくちゃ噛みながらも“正しいこと”を主張する人。世間では、まず確実に、後者が叩き出されるはずだ。

 インターネットでも、同じことなのである。

 「それは、世間が間違っている!」、と、叫びますか。大いに結構。あるいは君が正しいのかも知れないから、「世間」を直したまえ。

 ..多分、それには一生を費やす必要があり、しかも、一生を費やしたとて、状況はまず間違いなく、全く変わっていないであろう。無論、「正しい努力をすることが肝要であり、結果は、ついて来るだけだ」、という「価値観」(というか「救い」(というか「逃げ」))は有効であるから、私は反対しないが..しかし正直なところ、君はそういう人生を送りたかったのか? 何か出発点(解くべき問題)を見失っていないか..?

 ..話題を戻して..

 大概の議論や主張で、主たる問題になる、「(どちらが)正しい/正しくない」なんぞは、実は、世間(実社会)的には、“もっとも大切なこと”では“無い”のである。

 例えば..ネット社会において、私が(非常に)無礼だと考えるのは、文頭にも文末にも署名をしていない発言である。なぜ、無礼だと感じるのかは、かつて「署名しない人々」というタイトルで書いたので、繰り返さないが..最後まで読んで、結局、署名が無かった場合、そこまで多少は感心して読んでいたとしても、私は、全部チャラにする。

 「無駄な時間をつかっちまったか」、と舌打ちしながら、頭の中から追い出す。忘れる。こんな奴と、ほんの少しの時間であっても関わるべきではなかったのだ、と、読まなかったことにする。

 「内容が大事でしょ!」、などと、ほざいてもダメ。人間社会には、「内容よりも大切なこと」が、あるのである。

 そして..百歩(万歩)譲って、(署名を書かない)君の言ってることが正しいとしても..君の口からは聞きたくない。誰か代わりに言ってくれ。そしたら(君の発言としてではなく、彼の発言として)賛成してあげるから..

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*2000年06月03日:普段の言動で判断する


 昨日の補足。

 書き手(の人格)と、その著作物は、独立に評価するべきだ、という奇麗事は、なかなか通用しない。どんなにまっとうな文章でも、「駄目なやつ」(あるいは「あんな奴」)が書いたものとわかれば、評価を下げてしまうものなのである。

 論じ出せば、きりが無いが、本質的には文字情報(文章の情報量)の乏しさに由来することなのであろう。

 その文章単体で、(読者が責任をもって)評価を下すことが出来るほどの文章などは、滅多に存在せず、その著者自身の思想や、その文章が書かれるに至った周辺状況まで勘案しないと、精確に読みとれないことが、珍しくないのだ。そして「著者自身の思想」が簡単には判らない場合、(大概のネット発言者は、自分の思想を述べた著作物を発表したりしていないからね、)その代用として、「著者自身の普段の言動」が、問題にされることになるわけなのである。

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*2000年06月04日:国体を守ろう!


 「神の国」はともかくとして、ここまで来たら、揚げ足取り(というか、ほとんど“差別”)じゃないですか?

 私自身は、森首相は「愚鈍」だと思っているが、側近たちが必死になって主張してやまない、「人の良さ」は、否定出来ないと思う。(一国の総理としては、これ以上不適切な資質を、想像しがたいが..)その彼が、「どうやって日本の国体を守ることができるのか」、と、講演で述べたのだとすると、その真意(善意)は、疑うべくもない。「どうやって、国民体育大会を守ることができるのか!」、と、叫んでいるのである。

 彼は、どう見ても体育会系である。柔道でしょうか? しかも結局、地方区というか、(世界どころか)全国大会では通用しないキャラ。そんな彼の、日本独自のドメスティックなシステム、開催県が必ず総合優勝できる(と聞いた)「半全国・半ローカル」な大会である「国体」に寄せる「まごころ」は、(空想上のものであるとはいえ)胸を打つ。これを疑ったり、ちゃかしたりしたら、人間失格だよ、そこのあなた!

 共産党が民主党と連携したときに、果たして「国民体育大会」の存続が危機にさらされるかどうかはわからないが、(傍目から見て)マジメ一方の、硬派な政党が、こういう水戸黄門的・全国観光地漫遊のごとき大会は、金の無駄だ、と、切り捨てる可能性は、ゼロではあるまい。

 奈良市内の講演会で、思わずその真情を吐露した森首相は、火急の懸案事項が山をなしているこの時代に、(のんきに)スポーツ大会に関する心配事を口走ってしまったことに、内心、忸怩たる想いがあったに違いない。そこで、


「共産党は天皇制を認めないし、自衛隊は解散でしょう。日米安保も容認しないとしている。どうやって日本の国体を守ることができるんだろうか」

 ..と、「国体」の意味を、素速くすり替えたのである。

 なかなか巧妙な、ダブルミーニングではないか。

 こうしてみると、知性が完全に欠如しているとは、必ずしも言い切れないのかも知れない。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 8 2000 
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