1999年07月12日:ヘルマスに乾杯! 1999年07月13日:遠近法 1999年07月14日:幻想の彼方に 1999年07月15日:暖かい本 1999年07月16日:“「ブレードランナー」異聞”の真相 1999年07月17日:「スプートニク」の真相 1999年07月18日:「こうもり」手配師目次へ戻る 先週へ 次週へ
E.E.スミスの「レンズマン」シリーズ。今の目で読み返せば、それは確かにプリミティブなスペースオペラということになるのかも知れないが、やはり「原・SF」のひとつだと思うのである。特に、その問答無用のスケール感と“のびやかさ”は、洗練された(あるいは屈折した)現代SFからは、得難いものである。
レンズマンシリーズは、「銀河パトロール隊」「グレーレンズマン」「第二段階レンズマン」「レンズの子ら」「ファーストレンズマン」「三惑星連合軍」の六部作。今ふうに言うと、「エピソード3」「エピソード4」「エピソード5」「エピソード6」「エピソード2」「エピソード1」である。この順番に読むのが、一番面白いとされている。
レンズマンが守る「銀河文明」の「敵」は、第一作(エピソード3)「銀河パトロール隊」では、「宇宙海賊・ボスコーン」であるが、エピソード6に向かって、次第にその背後勢力の巨大さが明らかになり、敵は「ボスコニア文明」、そしてついには人類には理解できない上位種族(上位文明)アリシアとエッドールの戦い、という構図が、垣間見えてくるのである。
従って、「銀河パトロール隊」における敵の首魁(宇宙海賊の首領)、ヘルマスは、ほんの下っ端ということになるのだが..しかし私は、このヘルマスこそ、「レンズマンシリーズ」全編を通じて、最強のキャラクターだと信じて疑わない。とにかく、かっこいいのである。彼の指令放送の第一声、「ボスコーンを代弁してヘルマスより」..
ヘルマスは、真っ青な体色のヒューマノイドタイプのエイリアン(ケロニア人)であり、わかりやすく例えれば、「宇宙戦艦ヤマト」の「デスラー」である。(というか、デスラーはヘルマスをモデルにしているのではないか?)アニメ映画「レンズマン」では、不細工なベムにされてしまったが、あれを観た人は、忘れること。
少なくとも、主人公であるキムボール・キニスンよりは、格が上である。「銀河パトロール隊」のラストで、キニスンはヘルマスを一騎討ちで倒すが、この時の状況といえば、ヘルマスの基地の(ヘルマス以外の)全要員を麻薬ガスで眠らせ、外部からは、全く無抵抗の基地に対して銀河パトロール隊の主力艦隊が総攻撃をかけ、通常装備のヘルマスに対して、パワードスーツを装着したキニスンが肉弾戦を挑んだのだから、「こっ、この、卑怯者!!」としか、いいようがないではないか。
ボスコーン(ボスコニア)内部で考えても、実質的に、「格」は低くない。ヘルマス自身は、辺境の下級司令官に過ぎないのだが、ボスコーンの支配階級は、上にいけばいくほど、人間(!?)が小さくなり、のちに、自分達の失敗を、皆、とっくの昔に殺された部下であるヘルマスのせいにしてしまうのだが、ヘルマスは、そんなこと(自分の部下への責任の押しつけ)はしなかった。上司に対しても、正当な抗議したが、やはり責任転化はしなかった。(ボスコニアの最高支配種族であるエッドール人ともなると、さすがにそのへんは判っていて、「ヘルマスは、末端の指揮官として、できる限りのことはしたのだ」、と、評価している。)
そして、(これがとどめ、)レンズマン=銀河文明の守護者である「アリシア人」よりも、「上」ではないか、と思われるところがある。少なくとも、アリシア人との「勝負」に勝っている、と判断できるエピソードがあるのだ。ヘルマスが単身、アリシア人の主星に接近するシーンで、彼は、アリシア人の「門番」と対決(対話)して、あっさり追い返される。(そもそも、「人間」対「神」くらいの、力量差があるのだ。)この時、アリシア人は、ヘルマスの宇宙船の進路を、ヘルマスの基地、絶対にアリシア人が所在を知らないはずの基地の方角に、ねじまげる。ここでヘルマスは文字どおり、震えあがるのだが、この後の態度が凄い。なんと、この件を「棚上げ」にしてしまうのだ。「神にも等しい能力を持つ存在が、敵にまわったことは判った。しかしそれがどうしたというのだ。逆立ちしてもかなわん相手だ。ほうっておけ。俺には俺の仕事がある」..このかっこ良さ! アリシア人が強いのは当たり前。アリシア人は、ただ、神としての能力を、無邪気に披露したに過ぎない。この勝負、ヘルマスの勝ちである。
ヘルマスに乾杯!
目次へ戻る私の眼が、裸眼立体視に関してほとんど「抵抗力」が無いということは、以前、書いたと思う。簡単に「ロック」してしまうのだ。
とにかく、同じパターンのものが並んでいると、即座に「あっちの世界」に行ってしまうのである。ディスプレイの「壁紙」が、もう駄目。キーボードが駄目。寝ぼけまなこで本を読んでいると、縦書きの各行が、すみやかに左右から重なり合う。最近では、ついに、模様のないただの白壁でさえ、“行って”しまうようになった。(ほんの僅かな汚れや染みが..)
だから、私が惚けたような表情をしているときは、惚けているのではなく、ちょっと異界を散歩しているのだ、と、理解していただきたい。
目次へ戻るたしか、都筑道夫が「幻想の明治」(高信太郎)のあとがきに書いたことではなかったか、と記憶しているのだが..「江戸を描く時は、祖父母たちの言葉を写す。つまり、彼らの世代の心の内に生き残っている江戸を使う」..これが妙に心に残っている。
また、19世紀の(古代ギリシア・ローマ等を舞台とする)歴史小説を読むときは、イラストとしては、舞台となっている時代の真性の遺品よりは、19世紀の空想歴史画の方が、よく似合う。同じ「幻想」を共有しているからである。
前者と後者は微妙に異なるが、「歴史(歴史的情景)」を「心の中に探る」という、という点で、共通している。私流に表現すれば、「幻想は事実よりも勝る」のである。
目次へ戻る手元に、「ふるさと富塚」という小冊子がある。3年前、地元の“古老”であるNさんに、島比売神社の縁起(起源)を質問しにいったときに、おみやげ代わりにいただいたものである。
これがなかなか、心地良い本なのである。「富塚町」の歴史を、先史時代にまで遡って、その時々の自然、社会、風俗を記録している。富塚特有の方言や、遊びや、行事など。現代の富塚に残る史跡の写真など。
作りは実に素人っぽい。それもそのはず、地元の主婦たちのグループの、手作りの作品なのだから。しかしそこに暖かさが感じられる。
学生時代(15年乃至20年くらい前?)千葉県は柏市のとある古本屋で見つけ、数年後に紛失してしまった、「笛の本」という小冊子があった。これはさらに輪をかけた素人細工で、(活字も使っていない、ほとんどガリ版レベルの製本だった、)手作りの笛について、さまざまな事柄が記されていた。まず間違いなく、著者は、大学を卒業するだけはしたプータロウである。(当時(1980年代前半)の失職者というか未就職者を取り巻く状況は、現在のそれとは全く異なっていたことに注意。当時の「未就職者」は、「働き口はいくらでもあるのに、それを無視して、わざわざ就職しなかった連中」というニュアンスを帯びていた。)
中でも気に入っていた記事がふたつ。ひとつは、一本の竹からの笛の作り方で、第一日の仕事は「竹を眺めて半日」。それから、やけ火箸で節を抜いたり、指穴を開けたりしていくのであるが、一ヶ月目に、「この笛は失敗作だということが判明したので、割ってしまう」。その翌日に、「竹を眺めて半日」。
もうひとつは、ストロー笛の作り方で、要は鋏で一端を切ってリードとし、マッチで指穴を開けるだけ。「渋谷の(ジャズ)喫茶<ハチ>で、某はこれでコルトレーンと、対等に競演していた」。
いわゆるミニコミ誌ということになると思うが..このジャンル、大半はゴミだと思うが、ツボにはまると数十年も心に残る。こんにちでは、ウェブページが引き継いでいると言えるであろうか?
目次へ戻る先週、「「ブレードランナー」異聞」において報告した、ロイ・バティの最後のセリフ、「人間には信じられないようなものを..」には元ネタがあった!?という、衝撃の事実。
全くの誤報であった。[;^J^]
要は、これと全く同じセリフを含む本(「スプートニク」)と、映画「ブレードランナー」の、どちらが相手を引用(剽窃)したのか、という問題で、ニフのFSF3で「スプートニク」を紹介した人は、「「スプートニク」が剽窃したことは論ずるまでもなく明らか」なので、その点を詳しく書かなったのである。「ブレードランナー」が剽窃した!?と早合点したのは、私の責任。
しかし、なんと美しい早合点であり、誤解であろうか。
私は、私が「誤解した」という事実にすら、感動している。
問題のセリフを(先週の記事とダブるが、あえて)再引用する。
「とてもあんたたちに信じてもらえないようなものを見たのだ。
オリオン座よりもむこうで、炎に包まれた船団を攻撃する。
タンホイザー門の近くの暗がりで、D交戦が眩く輝くのを、おれは見た。
こうしたすべての瞬間は、雨に涙が流されるように、時の中に失われてゆく。
もう死ぬときがやってきた」
「スプートニク」(スプートニク協会+ジョアン・フォンクベルタ著、菅啓次郎訳、筑摩書房)139頁より
「スプートニク」では、これは、一切の記録を抹消されて宇宙で孤独に死んで行く、宇宙飛行士が観た夢なのである。
素晴らしいとは思わないか?
ブレードランナー全編中、もっとも感動的なこのセリフだが、しかし「スプートニク」の文脈においては、それよりも遙かに突き抜けている。この透明感! 私は、「「ブレードランナー」のスタッフが剽窃したとしても、これほど素晴らしいセリフを見つけてきたという功績に免じて、それを許す!」、と、本気で思っていたのである。
よく読めば、おかしいと感じる点は、あったはずなのである。「旧ソ連の秘密裏に葬られた宇宙ミッションの交信記録」が、(あったとしても)漏出するはずなど、無い。これには私も、引っかかっていた。
しかしそういう「理性的な判断」に耳を貸さずに、このあまりにも劇的で感動的な状況に涙を流した(流せた)私の、みずみずしい感性。私の魂は、まだ枯れ果てていない。これこそが、今回の最も感動的な発見であった。
目次へ戻る「スプートニク」の邦訳は、5月に出たばかりなのだから、と、浜松市内のめぼしい書店で探すが、無い。「スプートニクの恋人」(村上春樹)ばっか。結局、BOOK WEBで発注。
ニフのFSF3の会議室に追加情報。そうか。著者:ジョアン・フォンクベルタ、翻訳者:菅啓次郎、版元:筑摩書房という組み合わせは、「秘密の動物誌」と同じだったか。そかそか。「秘密の動物誌」は読んでいたのに、気が付かなかったのは、不覚であった。
「秘密の動物誌」は、偽書というべきか冗談本というべきか。フェイク写真をでっち上げて、この世に存在しない動物たちの観察記録等を記したものである。その「記録(等)」が「発見」された前後の事情も、いかにもそれらしくねつ造されている。「アエロファンテ」(翼のあるゾウ)「ソレノグリファ・ポリポディーダ」(12本脚の蛇)「エレファス・フルゲンス」(光るゾウ)「ケンタウルス・ネアンデルタレンシス」(ケンタウルス)「ヘルマフロタウルス・アウトシタリウス」(偽疑似性両性具有)「ピロファグス・カタラナエ」(火龍)等。
「スプートニク」をBOOK WEBで検索したときに、「おや?」と思ったのは事実である。表紙写真の画像も表示されたのであるが、その帯の推薦文の筆者名が「荒俣宏」と読めたからである。どこにでも顔を出す、博識の筆者ではあるが、宇宙開発秘話のドキュメントとは、微妙にミスマッチである、と、微かに感じてはいたのだ。(ちなみに、荒俣宏は菅啓次郎と共に、「秘密の動物誌」を監訳している。)
われながら心地よい騙されっぷりである。唐沢なをきの「鉄鋼無敵科学大魔號」以来かな。納本されるのが、楽しみだ。
目次へ戻る今年のFCLA「夏オフ」で、オペラ「こうもり」を仕切るのは、先月お伝えしたとおり。その後、オペラ本編のパート譜は手配完了。(入手して、指揮者に転送済み。)挿入バレエ音楽の選定も終わり、(ヨハン・シュトラウス2世の「トリッチ・トラッチ・ポルカ」、)これの手配も済み。「序曲」のパート譜に意外に手こずったが、これもこの週末に目処が立った。
肝心要の歌手陣の立候補が少なくて、一時はどうなることかと気をもんでいたのだが、これも曙光が見えてきた。極めて重要な役であるところの「オルロフスキー」と「アイゼンシュタイン」の歌い手がいなかったのだが、「オルロフスキー」役が、今日になって、ようやく、なんとかなりそうな気配。実際、「ふた役」足りなかった時点では、「第2幕全曲」は無理か..と、半分諦めが入っていたのであるが、「あとひと役」なら、なんとかなりそうだ。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Jul 22 1999
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