1999年01月25日:「復活の日」 1999年01月26日:少しは静養したいけど.. 1999年01月27日:少しは静養したいけど..その二 1999年01月28日:少しは静養したいけど..その三 1999年01月29日:不細工Mac 1999年01月30日:「人間ども集まれ!(完全版)」「うる星やつら」 1999年01月31日:「うる星データベース」の追憶目次へ戻る 先週へ 次週へ
ようやく..ようやく、風邪の諸症状が、ほぼ収まった。ここで油断をしてはならないが、一応「快癒した」と判断する。
しかし新聞によれば、かなりの死者数である。老人が多いが、この症状の重さでは、体力が衰えていれば若者でも危ない。読者諸氏もご注意あれ。
正しいSFファンであれば、当然、MM−88(マーシャン・マーダラー)を思い出すべき局面である。「復活の日」(小松左京)である。
角川映画版も、観た。「角川映画」と聞けば、(観もしない前から)デフォルトで鼻で笑う、という人が珍しくないが、「復活の日」は、結構まともな映画だったと記憶する。しかし、原作小説の「スペキュレイティブ」な面白さが、ほとんど再現できていなかったのは、映画というメディアの限界かも知れない。
「“(一見)ただの風邪”で、人類が滅亡してしまうこと」「人類という“種”の寿命から見れば“一瞬”に過ぎない、“僅か半年”で滅亡してしまったこと」「人間を生かしもすれば殺しもする“医学”によって、人類が滅び、人間を殺す以外には全くなんの役にも立たない“中性子爆弾”によって、人類は“復活の日”を迎えた、という皮肉」。特に最後のものが、タイトルに直結する、この作品の“肝(キモ)”なのだが、映画では十分に伝えられていなかった。
もうひとつ、原作小説で私が好きなのは、(マッド入っている)科学者が、MM−88(“風邪”の原因となった病原菌)のメカニズムを説明する、というより「しゃべりまくる」シーンである。高度に科学的(医学的)な説明が、単行本で10数ページ、ほとんど改行無しに続くのである。文庫本なら、30ページ近いのではあるまいか。映画では、これは事実上、まるごとバッサリとカットされていた。確かにどうしようもないよなぁ、映画では。
目次へ戻る仕事の遅れを取り戻さなくてはならない。風邪が治った直後にするべきことでは無いが、今週は、残業強化週間とする。締め切りが目前に迫っているのだ。
今日は、半日出張で講習会に出席する予定だったのだが、パスする。そんな時間は無い。
目次へ戻る仕事をする。仕事以外の記憶が、ほとんど無い。
目次へ戻る仕事をする。仕事以外の記憶が、ほとんど無い。
目次へ戻る職場に、新しいG3マックが届いたが..これって全然、話にならないのでは。本当に、マジメにデザインしたのか? これ。
遊びで使うのなら、諦めもつくが..こんなので仕事をしろというのか。職場の雰囲気が悪くなる。所詮コンピューターは道具にすぎないのだから、妙な自己主張をされると邪魔なのだ。(自分が「文房具」だと主張していたのは、確かマックだったと思ったが。)「遊び心」を、何かとはき違えているのではないか。
iMacが売れた大きな要因のひとつが「デザイン」だったのは、間違いない。しかしそこから、「奇矯なデザインにすれば売れる」という結論を引き出すようでは、論理学の初歩が判っていないとしか思えない。本当にディベートの国の人間なのか? スティーブ・ジョブスは?(「詭弁」としても、幼稚すぎて通用しない。)
私は自部署でコンピューターの資産管理をしているのだが、この新マシンは「不細工G3マック」として登録した。だって仕方が無いじゃないか。これの一世代前の「G3マック」も、この「G3マック」も、共に「Power Macintosh G3」なのだ。修飾しないと、台帳上で区別をつけられない。
それにしても「(不細工じゃない)G3マック」は、素晴らしかった。業務の邪魔にならないデザインは言うまでもないが、CD−ROMの他に、ZIPもフロッピーもSCSI端子もシリアル端子もついていた。これら全てを捨てた「不細工G3マック」は“未来志向”かも知れないが、“現時点”では、ただの不便なコンピューターである。職場にはネットワークが張り巡らされているから「さほど不便ではないだろう」というのは、「論点のすりかえ」という、詭弁の初歩。そもそもこれらの「レガシー」なインターフェースのことごとくを捨てたのを「未来志向」的コンセプトとして説明する事自体、詭弁である。これはただのコストダウン。「不細工G3マック」の作りを一瞥するだけで、明らかなことである。
しかし、ニフでマックユーザーが多数派をなしているようなフォーラムや会議室(例えばFELMI(電子楽器)など)を覗くと、マックユーザーたちは、この「不細工G3マック」の「かっこいいデザイン」に夢中である。
もちろん、彼らは嘘をついているのだ。
それは、彼らの発言のスタンスを読みとれば、判る。
「不細工G3マック」の「カッコ良さ」を語る彼らの“言葉”は、読者に向かっていない。
自分自身に向かって、語り聞かせているのである。
必死になって、自己暗示をかけているのだ。
無理もない。もはや選択肢はないのだから。マックユーザーは、もう「まともな」デザインのマックを買うことは、出来ないのだから。
「不細工G3マック」が発表されるやいなや、「不細工でないG3マック」が飛ぶように売れてしまったのが、その証拠である。みんな、こんな不細工なマックは買いたくなかったのだ。
スティーブ・ジョブスによるアップルの経営建て直しの柱のひとつが、「製品ラインの絞り込み」だった。これは王道であり、成果も上げた。彼は(少なくとも前任者たちよりは、遙かに)優秀な経営者である。しかし、ここまでユーザーから選択肢を奪っても良いものだろうか。これでは絞り込みすぎではないのか。マイクロソフトによる市場の独占支配と、それによる弊害のみが喧伝される昨今であるが、「マック市場を独占支配するアップルが、マックユーザーたちにもたらしている被害」にも、たまには目を向けるべきであろう。
目次へ戻る休日出勤の帰りに寄った書店で、「人間ども集まれ!(完全版)」(手塚治虫)を買う。想像以上に分厚い。単行本未収録原稿が、かなり収められている様子。すぐには手をつけられないが、楽しみだ。
一連の初出誌調査で、もちろんこの名作もチェックしたのだが、国会図書館に初出誌(漫画サンデー)は、全ては揃っていなかったのだ。それに起因する不備が、リストに残っている。これを埋められるかどうか。
小学館から、「うる星やつら」の文庫版が第6巻まで出ていたので、これも全て買っておく。(全18巻になるらしい。)無論、実家にはサンデーコミックス版が全巻揃っているのだが、「うる星やつら」や「究極超人あ〜る」は基礎文献であって、いつでも参照出来るように、常時手元に置いておく必要があるのだ。「論語」みたいなものである。
目次へ戻る私の生涯で、最初に「オタク」らしいことをしたのは..それは、「うる星やつら」のキャラクターデータベースを作成したことであった。(漫画を読みふけったりすることなどは、子どもにとって当たり前のことなので、「オタク」的行為とは言えない。)
1984年頃(つまり、就職した頃)までは続けていたことは、確かである。会社の寮で、同僚たちに見せて呆れられた [;^J^] 記憶がある。しかし、いつ頃始めたのかが、はっきりしない。従って今回は、常にもまして曖昧な追憶譚なのであるが..
確か最初は、「方眼紙」に書いていたはずである。Y軸(マイナス方向)に「キャラクター」、X軸(プラス方向)に「エピソード」を並べ、交点の各升に、そのキャラクターが、そのエピソードで、「どういう役回り」をしたのかを、記号で記入した。
4段階評価であった。
A:主役級。彼(女)がいないと、このエピソード自体が成立しない。
B:脇役級。上記Aと下記Cの中間。
C:コマかせぎ級。彼(女)がいないと、1ギャグ(または1コマ)抜ける。
D:余白埋め級。モブシーン(群衆シーン)に埋め草として現れるのみ。
このクラス分けは、今でも極めて合理的なものとして評価出来ると思う。微妙なケースは確かに存在するのだが、ほぼ機械的に安定して分類できるのである。
1cm×1cmの升に、それぞれ「◎」「○」「△」「・」という記号を書き込んだような気がする。方眼紙は、Y軸25cm×X軸18cmである。従って、18エピソードを越える度に、横に貼り足さなくてはならない。Y軸(キャラクター列)の伸び型も、半端ではない。たちまち、畳1枚を遙かに越えるマトリックスとなった。
畳1枚の時点では、まだパソコンは導入しなかった。私の記憶が正しければ、当時はまだ、PC−8801の時代だったからである。
このデータベースは、エピソード名はともかく(「第何話」という省略記法は可能なので)、キャラクター名を表現するために、どうしても「漢字入力」が必要であった。PC−8801は、漢字を表示することは可能であったが、入力するのが異常に面倒であった。BASICプログラム中に、16進数の文字列を書かなくてはならないのである。例えば、“&H88AB”(全く不正確な例である)と書くことによって、漢字一文字を表示できるのである。これでは(毎週、数人は増えてゆく)キャラクター名の入力手段としては、使えない。
PC−9801の登場が、状況を一変させた。私が購入したのは、2DD(両面倍密、640Kバイト)フロッピーを1台搭載した、PC−9801Fであったが、この機種に搭載されていたBASICは、「単漢字変換」と「ランダム・アクセス・ファイルの作成」が出来たのである。「うる星データベース」を電算機化せよ、という神の声であった。「単漢字変換」と「ランダムアクセス」は、「十分」ではないにせよ「必要」条件は、満たしていたのである。
キャラクタ別、エピソード別に、それぞれ範囲指定して、表示と以下で説明する“活躍度”の計算結果が、ワンタッチで出せるようになった。そして、極めて興味深い結果を、次々にはじき出すことができた。
私の主眼は、「各キャラクターの“活躍度”の採点と、その採点結果の変遷」であった。“活躍度”は、いうまでもなく、前記の“A”の配点を最も高く、“D”の配点を最も低くして、(登場しないキャラは、無論0点、)算出するのである。
いくつか例を挙げると、初期の時点では「ラム」の“活躍度”は、実はそれほど高くない。最初は「あたる」と「しのぶ」が主役だったのである。そこに食い込んで来るのが「面倒終太郎」であり、「テン」である..そして彼ら主役級はもちろんのこと、「サクラ」や「錯乱坊」ら重要な脇役陣の“活躍度”の変遷..
「方眼紙」時代には、カシオの関数電卓の歴史的名機、fx−15にプログラミングしていたのである。それが全キャラクタについて、ワンタッチで計算出来るようになった。パソコンの偉大さを、つくづく実感したものだ。
しかし、いまいち「モデル」の本質が判っていなかった私は、いまから思えば、噴飯ものというよりむしろ“微笑ましい”ボケを、かましていた。それは“活躍度”の計算方法である。
AからDまでの“加重”の仕方が複雑で、対数計算までしていたのである。
「人間は、自然界や人間界の事象を、対数カーブで認知する」という、教養課程的な取ってつけたような“知識”を取り入れたわけだが、(漫画に登場するキャラの登場頻度曲線が、自然界や人間界の事象であるかどうかはともかく、)その大元の発想は良いとしても、計算式の各項に乗ぜられる“定数”が、不自然であった。つまり、結果として得られる“活躍度”の数字を“それらしく”整えるために、姑息なことをしていたのである。
これが“邪道である”ということは、まだ判っていなかったのだ。モデルは“シンプル”かつ“頑丈”でなければならない、という原則が、まだ身に付いていなかったのだ。
このデータベースについては、20ページを越える、大層なマニュアルまで作成した。(無論、手書きである。単漢字変換に感激していた時代なのであって、廉価なワープロソフトなどは存在していなかったのだ。)プログラムもデータも失われたが、このマニュアルだけは、残っている。(というか、ここまで書いてから、発見した。)(C)1984と記されているから、大学を卒業して就職した年である。25歳にもなって、こういうシステムを大まじめに作っていたこと。これが「オタク中のオタク、倉田わたる」の原点であったのだ。15年前に書いた、このマニュアル、なかなか面白いので、いずれ丸ごと転載するつもりである。乞うご期待。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Feb 4 1999
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