*1998年10月26日:へんな癖
*1998年10月27日:ある「医者」の想い出
*1998年10月28日:レイアウト変更大作戦
*1998年10月29日:ある試論
*1998年10月30日:小栗虫太郎が揃う
*1998年10月31日:大道芸in静岡 1998
*1998年11月01日:大道芸の余韻
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*1998年10月26日:へんな癖


 これも、「癖」のうちなのだろうが..書き物をしている最中に割り込みがかかると、私は、「字」を書いている途中で、中断してしまう。部首単位で切るわけではなく、全く唐突に中断するのである。(さすがに“線”を引いている途中でやめることはしないようだが。)

 この点を意識して観察してみると、世の中には、私のように、字を途中で止められる人と、どんな割り込みがかかっても、今書いている字は、必ず最後まで書き終えてから割り込みに反応する人が、いるようである。

 思い出してみると、高校時代の教師にも、途中でやめるタイプがいたが..板書している字を途中でやめられると、(自分のことは棚に上げて)非常にイライラするのであった [;^J^]。それは恐らく、「字(漢字、仮名)」というのは「途中で分離できるものではない」、という、思い込みに依るものだろう。全体でひとつの意味を成しているのであって、分節可能な図形なのではない、という..この「思い込み」が正しいか否かは、説が分かれそうだな。

 まぁ、いまさら私は、この癖を直す意欲もないのであるが。

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*1998年10月27日:ある「医者」の想い出


 「字」の話を書いていて「痔」の話を思い出した。まぁそう嫌な顔をしないでいただきたい。そうでなくとも「痔」は日本の国民病であるし、この日記の読者に占める「座業」系の人の割合は、世間一般におけるそれよりも、遥かに高いはずである。つまり、痔持ちの割合も、相応に高いはずだ。ひとごとのふりをしないように。そこの、あ・な・た [^.^]。

 私は軽度の痔持ち(イボ痔)なのだが、医者で切開をするほどの事態になったのは、記憶が定かならば、過去20年間で3回だけだと思う。その1回目の時の話。

 学生時代であった。深酒をしてコタツで目を覚ました朝。立ち上がることが出来なくなっていた。

 仔細は省くが、これが噂に聞くイボ時だ、と、確信できた。オッケー。寝ていて治るものではない。医者に行こう。しかしこれが容易なことではない。とにかく下半身に力が入った瞬間に、そのポイントに、ズッキーン!(というより、チックー!)と来るのである。なるほど、ここに力が集中しているのだな、ということが良く解ったが、知識が増えて楽しい状況ではない。とにかく医者を探して、そこまで行かなくては。

 下半身に力を入れると痛いのだから、下半身に力を入れなければいいのである。かくして私は、極力下半身を“浮かして”、腕で起き上がり、下宿の玄関まで這いずって、肛門科の医者を電話帳で探した。電車で4駅。住所から判断して、K駅のすぐそばにあるらしい病院が見つかった。(何故か、住所を確認しただけで、電話はしなかったのであった。)

 極力下半身に力を入れず、そっと、そっと、そ〜っと、そ〜っと、長い時間をかけて駅まですり足で歩き、さらに長い、長い時間をかけて、駅の階段を上り、さらにさらに長い、長〜い時間をかけて、ホームへの階段を降り、(上りよりも下りの方が、遥かにつらく苦しく難しい。私は(経験はないが)ロッククライミングで岩壁を降りるときもかくや、という集中力と緊張感を持って、一段、また一段、と、ホームまで降りていったのである、)そして、電車の震動の悪夢の15分間に耐えてK駅に着き、K駅の階段を(中略)その肛門科の病院の前に辿り着いた..

 ..それは、廃屋では、なかった。

 ..しかし、現役の病院の範疇に含まれる建物でも、なかったのである。

 これが日常的なシチュエーションであれば、私のことだから、必ずや愛でて興じて写真すら撮ったかも知れない、古い、古い、蔦と黴の建物。

 冷静な判断力が残っていれば、別の病院を探したに違いない。しかし私のそのポイントの痛みは、そんなものをすべて奪い去っていた。溺れるものは藁をも掴む。遠くの親戚よりも近くの他人(意味不明)。私はその建物に(すり足で)入っていった。

 殺風景な待合室は無人だった。そもそも待合室の様式に則っていなかった。古い形式の洋館の一室を流用しているに過ぎなかったのである。ここは本当に医院だろうか? そのポイントに響くので、大声で看護婦を呼ぶことすら出来ず、座ることも出来ず、呆然と立っていたら..

 ..奥のドアを開けて、ひとりの老人が、ゆっくりと顔を覗かせた。半ば白くなりかかっている、灰色でごわごわのぼうぼう髭は、胸まで伸びている。第一印象としては、仙人(世捨て人)よりはホームレスに近い。その老人が、奥の部屋に手招き入れる。

 ここでしり込みしても、事態は進展しないのである。彼は助手か使用人だよな..と、一縷の望みを抱いて(自分に言い聞かせつつ)、私は「診察室」に入っていった..

 ..その老人が、白衣を着けて現われた時の、私の絶望が理解できるだろうか? 何故なら、その「診察室」は、もう長い間使われた形跡もなく、白っ茶けたシーツが、あちこちの机やテーブルの上にかけられていたからである。メインストリートから奥まった住宅地の中にあるこの「病院」には、道路の騒音は届かない。カーテン越しの、午前11時の白い陽光の中に、静かに浮かんでゆっくり流れる、けぶるような埃。メスや鉗子や注射器の上にも、うっすらと灰色の層..

 ..ベッドに横たわった私は、こういう医者こそ、えてして腕がいいのだ、ほら、ブラック・ジャックの医院だって、このようなありさまではないか..と、懸命に自分に言い聞かせたが..しかし、ブラック・ジャックが、メスを錆つかせるだろうか。その老人の握ったメスの柄は、茶色く染み錆びていたのである..

 ..「少し、痛みます」と呟きながらベッドに近づく老人の声を聞き、少なくとも30年前から壁に貼られているのであろう、薄汚く変色した「人体解剖図」を見て、ガリヴァー・フォイルが「科学人」の小惑星サルガッソで施された手術のシーン、あの、「虎よ、虎よ!」(アルフレッド・ベスター)全編中、屈指の名シーンを思い出した私は、ガリヴァー・フォイルのように気絶することも出来ず、暗澹たる恐怖のうちに、メスが突き刺さる瞬間を待ち受けていたのである..

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*1998年10月28日:レイアウト変更大作戦


 部署のレイアウト変更、今日が本番である。3週間ほど前から、休日出勤を繰り返しては、イーサと電源の敷設し直しと、机等の移動手順の最適解の捻出(リアルサイズ「倉庫版」、といって、きょうび通用するかしら?)を行なってきたのだ。当然、一撃で見事に決まる..

 ..わけがない [;^J^]。段取りでは最初に動くはずだった作業台が、あまりの散らかりように、ほとんど最後に動くことになるなど、デッドロックしまくり。また、目の届かないところでは、電源の取り方の(各自の勝手な判断による)不具合、など、まぁ色々あったが、それでも一日かからずに、大体落ち着くべきところに落ち着いた。やれやれ。

 ちなみに、私の席は、ベストポジションに移動した。部屋の隅で、部署全体が目に入りつつ、私の背中は誰にも取られない、という好位置である。

 これは決して、私自身が全員の席の位置を決められるという、特権的な役割を担っていたが故の、利益誘導ではない。ごく自然な成り行きとして、水が高きから低きに流れるように、収まるべくしてこの位置に収まったのである。人徳である。

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*1998年10月29日:ある試論


 これはまだ考察が不十分で「論」と言えるまで熟していないので、「試論」どまりなのだが、ネタも無いことであるし、メモがわりにまとまらぬまま記しておくことにする。

 ある人のある「ジャンル」に対する「鑑識眼」あるいは「傾注ぶり」は、その人の「金」の使い方で、ある程度正確に推し量れるのではあるまいか? つまり、湯水のごとく金を注ぎ込む人ほど、見る眼がないのである。

 どんなジャンルにも、屑もあれば宝石もある。鑑識眼のある人は、屑には金をかけない。言い方を変えると..屑も屑なりに栄養になるので摂取するが、二束三文で買いたたく。

 さらに換言すると..投下できる資金は有限なので、極力多くのものを摂取するために、対象の価値を厳しく見定め、それぞれに対して本当に妥当な金額しか払わないことによって、鑑賞(あるいは購入)できる物件の数を増やす。

 屑だろうが宝石だろうが、構わず札びらを切るような人は、結局、ろくな数、見ることも買うこともできないのである。

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*1998年10月30日:小栗虫太郎が揃う


 松本のH書店から、小栗虫太郎の「航続海底二万哩」「完全犯罪」(ともに桃源社)が届いた。これで、少なくとも単行本に収録された小栗虫太郎のほとんど全ての長短編が、私の手元に単行本の形で揃ったことになる。(コントや随筆などついては、未調査である。)あとは、読むだけだ。

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*1998年10月31日:大道芸in静岡 1998


 大道芸ワールドカップin静岡。今年は10月31日から11月3日まで。この催しについては、一昨年の日記昨年の日記を参照していただきたい。

 8時27分浜松駅発の電車。静岡着は10時前。駅構内の食堂で朝食を取ってから、10時半にFCLAの友人でアマチュア大道芸人のGさんと、待ち合わせ場所で落ち合う。昨夜の雨がすっかり上がり、最高の大道芸日和である。オープニングセレモニーに間に合いそうなので、メインステージへ。(メモ:道中、市役所(県庁だったかも)にかかっていた看板:「時は今 継続雇用の65歳」)

 今日はふたりとも 武器 持参である。私は二段の脚立。去年、この催しのために購入したものの、あまりに大きく思えて、びびって持参しなかったのだが、実際には同じ仕様の脚立を、大勢が持ち歩いていて臍をかんだ、という、曰く付きの品。この一年間、シーツを乾す時の踏み台にしか使われていなかったのである。Gさんの武器は、手製の竹馬というか高下駄というか。「45cmのシークレットブーツ」である。これらは絶大な威力を発揮した。

 早くも人垣が出来ているメインステージにつくと、人垣の一番外側で、私は脚立、Gさんは「高下駄」。これで完璧な視界を確保できる。私は小柄な方だが、パフォーマーが演ずるフィールドが、隅々まで見渡せる。セレモニーが終わると、引き続きこのステージでの最初の演目。


*アンディ・ヘッド
 正統派のジャグリング(お手玉)である。私の目には、帽子を転がすのが目新しかったが、Gさんによると、そう珍しいものではないらしい。しかし、安定感は抜群である。とにかく、失敗するような気がしない。派手さは無いので、どちらかと言うと玄人受けの芸かな。


 ここで、次の演技ポイントに移る時に、同じくFCLAの友人のTさん、Iさんと合流。同時に、Gさんの「高下駄」姿に、この催しのデイリーニュースペーパーの記者から、取材が入る [;^J^]。写真撮影がすんでから、次のポイントへ。


*リエンドレ・リベラ
 ハプニング芸である。終始無言で、しぐさだけで笑わせる。コメディやハプニング系の人は、観客巻き込み型が多いように思うが、その例にもれない。また、小道具を実にうまく使う。口に水を含んでおいて、頭に「HOT」と「COOL」の蛇口を装着し、観客にそれを回させる。(無論、観客に向かって水が噴き出すのである。)特に気に入ったのは、空を行く飛行機の爆音が遠く聞こえてきた時に、素早く鞄から「操縦機」を取出し、それを操作しながら空を見上げる、という芸である。(航空機巻き込み型? [;^J^])
 最後は、(これまた徴用した観客に膨らまさせておいた)巨大風船の“中”に入る、という芸。この(人間潜り込み用)風船は、市販されているらしいのだが、入り込んで行くにつれて、どんどん風船が収縮し、その中に入り込んでいる自分の体も、卵のように縮んで行く、という趣向は見事。


 このあと、私とGさんは、食事がまだだったというTさん&Iさんと、別行動を取ることにした。あとで述べるが、これはお互いのために正解だったと思う。(つまり“背高武器”持参者と非・持参者とは、同一スケジュールでは動けないのである。)


*ザ・インビジブル・メン
 二人組みである。観客の中からターゲットを素早く定め、その隣に走り寄って、物まね(同じ姿勢、同じしぐさ)をする。これを繰り返す。なんとも味のある、不思議な芸である。
 後半では、イリュージョンというのかな?脱出と早変わりの芸。つまり、ひとりを拘束衣で縛り上げて箱の中に閉じ込め、その箱もまたぎちぎちに縛り上げて、もうひとりが箱の上に乗る。そして、カーテンで箱(と、上に乗った男の下半身)を隠しておいて、カーテンをさっと(上の男の)頭の上にあげ、さっと降ろすと、その男は箱の中で縛られていた男に入れ替わっている、という奴である。
 ネタはほとんど判っている。しかし、そのあまりの速さに驚いた。カーテンを頭の上に持ち上げた瞬間、うっかり瞬きをしてしまったのだが、眼が開いた時には、もう入れ替わっていたのである! まさに“一瞬”!

*クリスティーナ
 外れ [_ _]。まず、これは彼女の責任ではないのだが、PAのトラブルで15分以上待たされてから始まったのであるが、この芸には、待つ値打ちは無かった。西部劇のカウボーイ(カウガール?)姿で、拳銃のジャグリング(お手玉)や投げ縄回しや鞭捌きを見せるのだが、はっきり言ってヘタ。しかも、観客をフィールドに引っ張り出すくせに、日本語が(片言も)喋れない。アシスタントとして引っ張り出された客も、何をすればいいのか戸惑うばかり。世界中どこでも英語で通用しているのかも知れないが、この国ではそうはいかないのだ。
 実は、この時間帯には有力な裏番組(男性パフォーマー)があり、(常時20数箇所でパフォーマンスが進行しているのだ、)Gさんにどちらを選ぶか相談を持ち掛けらて、「男か女か」という選択肢にコンマ1秒も迷わずに「女」を選んだのは私である [;_ _]。色香に迷って失敗するのは、もうやめたい [;_ _]。

*張雪&張梅
 今年の超目玉。昨年度初登場で、ワールドカップチャンピオン。よって今年はスペシャルゲストである。私は昨年は全くノーマークで、観そびれていたのだ。
 中国から来た、14歳の双子の姉妹。超可愛い!
 しかも、芸の未熟さを容姿でカバーしているという(よくある)タイプではないのだ。全く信じ難い芸である。
 片手で4枚(つまり、両手で8枚)の皿回しをしつつ、床運動や椅子の上でのバランス芸をする!(よろしいか、つまり、両手に4本ずつ棒を持って、それらの上で、それぞれ個別に皿が回っているのである!)10分間以上連続して、である!
 皿回しなどは、ありふれた芸だが、普通、誰がやっても「ハラハラドキドキ」が付き物である。(それが「皿回し」の“味”とも言える。)そして多くの場合、落ちた場合のフォローやリカバリがしやすいような状況で行われる。これは、万が一の失敗の場合に、客のシラケを最小限に食い止める、という、ある意味ではプロフェッショナルな予防措置とも言える。
 しかし、彼女らのこの(長い)芸では、万が一、落ちた場合に、全くフォローもリカバリーも不可能なのだ。つまり、そんなことの必要性を頭から無視しているのだ。事実、観ていて全く落ちる気がしない。それほど彼女らと“一体化”していたのである。
 後半は、椅子を積み上げた上でのバランス芸。これも、珍しくはないが見事なもの。
 これらの確かな芸に加えて、観ているだけでうっとりするような“華”がある。もう、今年は、これを観られただけで、大満足。投げ銭は、無論、紙幣である。

*王健
 「ゼブラ・ステルゼンシアター」の演技ポイントへ移動する途中で、偶然見掛けたので、後半、観ていく。ローラーボール(円筒)を縦横に積み重ねた上に板を置き、その上で倒立する、という、ギミックがほとんど無い質実剛健なバランス芸で、昨年も堪能したもの。
 やっていることは昨年と同じだが、相変わらず、技も口上も素晴らしい。日本語が達者で、アシスタントとして引っ張り出した観客相手のギャグも絶品。私は彼の大ファンである。

*ゼブラ・ステルゼンシアター
 スティルトである。スティルトとは、数メートルもの高下駄を履いて行なう芸で、その、あまりに非日常的・非現実的なプロポーションを生かした、非日常的・非現実的・超現実的な、ファンタスティックな寸劇(無言劇)を見せてくれることが多い。
 そしてこれは、まことに異様なムードの芝居であった。(以下、全くなんの言葉も説明もなく演じられた無言劇であり、私は、このように解釈した、というに過ぎない。)
 役者は4人。異星(異次元?)の“お姫(ひい)さま”と“家老”。“お姫さま”のコスチュームだけはロココ風であるが、その顔も手足も、昆虫と爬虫類と食虫植物と怪獣の混成物。つまり、BEMである。“家老”も同様。
 異様なムードの音楽に合わせて彼らが踊っていると、遠くから、ふたりの“刺客”がやってくる。彼らは“お姫さま”と“家老”を弑せんと、襲い掛かる。襲撃と反撃の踊り。やがて“お姫さま”の「魔法」あるいは「威光」に、“刺客”たちは恐れ入り、従わせられる。そして4人の踊り..
 ..私は、この「ストーリー」の「呼吸」に、「能」あるいは「歌舞伎」に近いものを感じた。そして、彼らのコスチュームからは、「メビウス」あるいは「ギーガー」のテイストが読み取れた。
 私にとっては、今年の収穫のひとつ。一見の価値は、絶対にある。しかし、(同じネタ、同じストーリーを繰り返すのであれば、)二度観る値打ちは、無い。

*マンボ・ブラザーズ
 プログラムに載っていない、オフパフォーマー。
 この催しの優れている点として、「ワールドカップ」「ジャパンカップ」「フリー」「オフ」と、ランクを分けている点が上げられる。別に、この順にレベルが落ちていく、というわけではないが、これによって、様々な技量水準のパフォーマーが参加できるようになっているのである。世界最高水準のパフォーマーしか呼ばない、という考え方もありうるが、次世代を担うべき若手にチャンスを与え、育てる、という観点からみれば、このシステムは妥当である。(ちなみに、「フリー」や「オフ」部門には、様々な理由から超実力者も参加しているので、油断できない。例えば上記の「王健」は、フリー部門である。)
 トチリが多いが、逆方向ジャグリングなどの難しい(珍しい)技も、少しはこなす(少なくともチャレンジしている)。観ていて恐かったことを別にすれば [;^.^] まずまず。

*ウーリック
 これは珍しいタイプ。チューバをバイクに仕立て、排気音の代わりにチューバを吹き鳴らしながら走るなど、徹底的にメカ(小道具)のギミックに走ったもの。強いて分類すればコメディか。最後に盛大な紙ふぶきの雨を降らせてくれて、リュックはもとより、ポケットの中まで、紙片で埋まってしまった。[;^J^]


 ここでいったん、Gさんと別行動。


*JIDAI
 パントマイム。これも次の演目に移る途中で目に入ったので、前半だけ観たもの。後半(というかオチ)に注力されるはずなので、これだけでは評価できない。前半を観た限りでは、まずまず、という水準。

*シアター・ル・ピエトネ
 これも今年の大収穫。強いて分類すれば「異生物系」で、その意味では「ゼブラ・ステルゼンシアター」に近い。これも無言劇。
 黒づくめの男が立っている。服もソフト帽も真っ黒で、それどころか顔ものっぺらぼうの黒マスクで覆われているのである。従って、表情は全く読み取れない。マフラーだけが白い。
 その男の隣に、太いチューブ(洗濯機や掃除機のチューブのような、螺旋状の線条のあるチューブ)が転がっている。不気味な音楽が始まると、その男の動作に呼応して、チューブが動き始める。うねり、直立し、這い回る。
 これは、この男のペットのようにも見えるが..やがてチューブの中から“生き物”が這い出してくる。それは、埴輪のようなマスクを被り、肌にピッチリと貼り付く黒いコスチュームで全身を包んだ、女性の体型を持つ生き物だ。それは四つん這いで男にうなりかかるが、男の杖で征せられる。
 観客席に暴れこんだ、この四つ足の生き物は、男によってチューブの中に追い込まれ、再びそのチューブがうねり始めるが..隙をついてチューブは男に襲い掛かり、男を完全に飲み込んでしまう。そしてチューブは2本にちぎれ、それらは蠢き続ける..
 ..雰囲気がお伝えできたかどうか..とにかく、実に“ヤバイ”と感じた。子どもに見せていいのだろうか。恐ろしくエロティックな、BEM(あるいはエイリアン)の性交を思わせる芸である。
 とりわけ、チューブから“埴輪のマスクの女体”が這い出てくるシーンには、興奮してしまった。私はここで、「妖虫」(古賀新一)、及び「暗黒神話」(諸星大二郎)を想い起さざるを得なかった。前者については、チューブではないが、異様な形状の生物が少年を飲み込むシーン(向きが逆だが)。そして後者については、大神美弥が餓鬼となって、不老不死の泉から這い出てくるシーンからの連想である。


 昼のパフォーマンスタイムは、ここまで。ここで、Gさんと合流。しかし我ながら、改めて脚立(二段)の機動力には感嘆した。これは凄いぞ。とにかくどんな場所でも、すぐに必要十分に背が高くなれる。どんなに人垣が厚くても、その後ろから完全な視界を確保できる。前に出る必要は、全く無くなった。また、すぐに椅子になる。テーブルにもなる。座ったまま、下のステップにビールや軽食を置くこともできる。(これは便利。)すぐに撤収できる。しかも軽い。いやはや、これほど便利なものだとは思わなかった。

 対して、Gさんの「高下駄」は装着に時間がかかるし、これほど多様な用途には使えないのであるが..圧倒的に、受ける [;^J^]。目立つ。とにかく、すれ違う人の3人中2人までは、振り返る。祭りなのだから、これも重要な要素だ。

 単に、どんなに人垣が出来ていても芸が見られる、というだけではない。時間の使い方が変わるのだ。つまり、場所取りのために、予め(時には前の演目から)その場に行っている必要が無くなったのだ。むしろ、中途半端な時間にいくよりは、開演ぎりぎりの時刻に行って、人垣の一番外側につく方がよろしい。このため、動きに余裕が出来る。背高武器を持っていない人とは、最適スケジューリングが変わってくる。だから、武器を持参しなかったTさん、Iさんと、別行動を取ったのは正解だったのだ。

 Sという店で、ざっと飲み食いしてから、ナイトパフォーマンス見物に繰り出す。


*好田タクト
 指揮者の物まね。彼の芸を見るのは、3年目だが..見限りどきである。とにかく、この3年間で、全くネタが増えていない。また、芸が磨かれてきたわけでもない。むしろ技量は低下している。
 全く同じことを繰り返しているわけではなく、とくに今年は、新たな工夫もしているのだが..それが、「デフォルメをきつくする」という工夫なのである。ストコフスキーは、もはやひとりでは歩けない。レヴァインの釜っぽい腰フリは、さらにどぎつく..
 これらは、元ネタを知らない人からも、汎用的に笑いを取れるように、という工夫かも知れない。実際、指揮者の物まねなどという芸は、最初から市場が狭いのであるから、世間に打って出る、というベクトルも必要なのではあろうが..来年からは、もう観ない。

*アパッチ
 自転車曲芸。客を地面に寝かせて、その上を飛び越える。まぁまぁかな。

*雪竹太郎
 世界に通用している、数少ない日本の大道芸人であるという。前半の芸は「人間美術館」であり、なんだ要するに額縁ショーか(古すぎる [;^.^])と白けたが、観客5〜6名を引っ張り出しての、集団造型「ゲルニカ」(ピカソ)は、さすがに素晴らしい。
 このあと、観客を巻き込んで、寸劇(というには長い)を繰り広げるのだが、「アントニオ」と名づけられた観客のノリが異常にハイで、大いに盛り上がった [;^J^]。


 夜の部、終り。まだ初日だし、若干の心残り(見逃した)もあるので、天候次第では、もう一度出てこようかな。しかし今夜のところは、へっとへと。Gさんと静岡駅で別れ、東海道線で浜松へ。バスで帰宅し、布団に倒れ込む。

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*1998年11月01日:大道芸の余韻


 脚のへとへとは、寝て回復したが、まだ頭がお祭りモード。午前中に図書館に行くなどするも、社会復帰できず、午後も酒と昼寝で、大道芸の余韻を貪る。これ以上贅沢な時間の濫費もあるまい。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 11 1998 
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