1997年11月03日:新装ハートランド 1997年11月04日:人の噂も一週間 1997年11月05日:不味くても通う店 1997年11月06日:WebFetch を試用する 1997年11月07日:Becky! をレジストする 1997年11月08日:「夜の放牧」「ドニエプルの月夜」 1997年11月09日:“遅読”礼賛目次へ戻る 先週へ 次週へ
文化の日である。自宅から徒歩800メートルほどのところに某女子短大があり、ここで文化祭?をやっていることを思い出した。10年以上もここに住んでいながら、一度も顔を出したことがないのだ。オヤジづら下げて訪れるのも一興かと思ったが..これもすぐ近所のS大学工学部の、むさくるしい男子学生どもが、大挙して押しかけているのは必定。想像しただけでうざったくなってしまったので、パス。
色々片づけてから、夕刻には街中に出かけ、店舗を某ビルの地下から、新築の自社ビル?へと移設した、新装ハートランドへ。元来、やや上品な店だったが、えらくシックなムードになってしまっており、少し驚いた。カウンターの照明が暗く、読書には向かない。(リブには丁度良い。)
目次へ戻るニフティサーブの、今年のぶんのアクセスログを整理する。(私は、物持ちというか“ログ持ち”がいいのだ。)改めて痛感したのは、半年前のことなんか憶えちゃいないということ。特に、フォーラムや会議室でのゴタゴタやトラブルなどは。
ニフに限らず、ネットニュース、あるいはウェブのチャットページなど、どんな場のゴタゴタでも言えることだが、“必要以上に”話がこじれるのは、特に劣勢の者が“体面を保つために”(そしてしばしば、ただそれだけのために)議論を長引かせるからである。ここで快心の一撃を食らわせて逆転しなければ、自分の(少なくとも、そのフォーラムや会議室やネットニュースグループにおける)“ネット社会生命”が失われるだろう、あるいは、大幅に面目を失って、以後、軽く扱われるようになるだろう、という強迫観念に囚われるからである。
全く、なんと無駄なことを。
人の噂も一週間。
半年後には(現実には長くとも3ヶ月後には)そんなゴタゴタがあったことすら、忘れ去られているのに。ましてや、当事者の名前など。
しかし、こういうゴタゴタを同じ人間に二度三度と繰り返されると、さすがにその名前を忘れられなくなる。例えば、これはネットニュースでの事例だが、かつてT工大の学生だった時分に、愚かな投稿を無反省に繰り返し、その後大手玩具メーカーのNに就職した男が、(私が購読しているニュースグループに)数年ぶりに投稿したのを、つい先日見たのだが、反射的に「あの馬鹿か」、という思い出し方をした。その投稿自体には、何の問題も無いにも関わらず、である。悪い印象を長期に渡って振りまき続けた報いは、こういうものだ。
“もう決着の着いている議論”の敗者が、起こりもしない奇跡を夢見て、無意味にゴネ続けることは、上記に例を引いた“愚行”に、限りなく近い。
やめておけ。
あなたは(その“場”での新顔であるのならば)特別に記憶されるべき人間でもなく、3ヶ月どころか1ヶ月後には、誰もが(名前も存在も)忘れてくれているのだから、ことさら、悪い印象を刷り込む努力をする必要は、無いのだ。
(蛇足だが、“体面を保つための議論”が成功した試しなど、無い。私はそういう例を、ただの一度も見たことがない。こういう“邪念”は、本人以外の全員に直感的に判ってしまうものであり、誰一人としてそんなものの味方にはならないからだ。)
目次へ戻るメーラーを換える。
これまでずっと、Netscape Navigator 付属のメーラーを使ってきたが、これは「オマケ」の域を出るものではなく、ある程度活発なMLに5つ以上入っていると、手間暇ばかりかかって、時間を随分無駄にすることになる。(こんなことは、使い始めた時から判っていたのだが、それでも Netscape メールを使い続けていたのは、要するに管理するソフトの数を増やしたくなかったからである。ネットニュースは、今でも Netscape で読んでいる。)
Eudora という選択も有り得たのだが、価格もさることながら、必要以上にスペックが大き過ぎる。(Eudora を使いたくなかったから Netscape で我慢していたとも言える。)そこで、Becky! を試してみた。
ちょっと気に入らないところもあるのだが(例えば、タイトル画面のフォントサイズを変えられない(ようだ))、一応満足。これまでため込んだメールを全て移してみて、問題の無い事が確認できたら、レジストすることにしよう。
マンガの発注が出来る(自店に在庫が無ければ出版社から取り寄せてくれる)ネット書店があるはずではないか、と探してみたところ、ニフティサーブの「まんが王倶楽部」(GO MANGAOH)が、それであった。早速、電子メールで、唐沢なをきを9冊ほど注文する。
行き付けのTで、例によって飲みながら読書していたのだが、デザートに注文した「うどんサラダ」が..吐き気がするほどまずい。[;x_x]
うどんがもう、全く腰が無く、ボロボロのボソボソ。箸でつまんで持ち上げると、千切れて落ちてしまう。到底、食えたものではなく、やむを得ずトマトだけ食べて、全部残す。これを客に出せるという神経がわからない。鉢に盛る時に、この異常事態に気が付いたはずである。
この店は、時折“途轍もなく”不味いものを出す。その(従来は美味かった)メニューの味が“落ちた”どころではなく、何か“間違えた”のではないか、と、思われるほどだ。そのとき限りの“エラー”であって、次回にはまともな味に戻っている、と、期待したくもなるのだが..
例えば、以前、(それまでは美味しかった)ネギトロが、やはり到底口を付けられないほど、不味くなったことがある。変質していたわけではないが..しかし、灰色がかった生魚の肉など、食えるわけが無い。その時も、これは今回だけのこと、と、自分に言い聞かせて、次に訪れた時もネギトロを注文してみたのだが..結果は同じ。この店では、ネギトロは、もう“駄目”なのだ。こういう前例がある以上、もう二度と、うどんサラダは注文できない。
これほど“酷い目”にあっていながら、何故、この店を使い続けているのかと言うと..
まず、格別に美味しくもない代わりに、比較的廉い。コストパフォーマンスがいいのだ。
次に、結構すいていて、週末のピークの時間帯でも無い限り、ふたりがけのテーブルを確実にひとりで占有できる。(実のところ、私の−事実上の−指定席がある。)ひとりで入ると問答無用でカウンターに座らされる居酒屋が多い昨今、このメリットは大きい。資料を広げながらリブレットで書き物が出来るのだ。
そして最後に何よりも、半年に一人位のペースで入れ替わる(恐らく女学生のアルバイトだと思われる)給仕の女の子たちが、概してタイプで可愛い。特に今は、相当(俺的に)ランクが高い娘がいる。だから実は、味など、どうでもいいのだ。最悪、何ひとつ食うに値するものがなくなっても、彼女らの顔を眺めながら酒を飲んでいればいいのである。
目次へ戻る昨日は水曜日だった。水曜日の深夜に日記を更新する約束である。(なぜ更新日を火曜日から水曜日に変更したのかというと、水曜日が“ノー残業デー”になったからである。)しかし(よくあることだが)1時まで頑張っても書きあがらず、フトンに倒れ込む。気が付くと4時。それから出勤時刻の7時20分ギリギリまでかかって、辛うじて更新に成功。推敲が甘いが、やむを得ない。“てにをは”が腑に落ちていない文章が二三残っているのだが、昼休みに直すことにする。
紀伊國屋のBOOKWEBで注文した「日本怪談大全 全5巻」(田中貢太郎著、国書刊行会)が届き、思わず嘆声をあげた。実に美しい装丁である。
「まんが王倶楽部」から、即日、在庫&絶版&品切れ情報のメール。素晴らしい。結局、ほとんど全て絶版で入手不能なのだが、すぐに情報が帰ってくるのが、いい。
リンクの先読みをする WebFetch を試してみる。少しは効く。当然ながら、リンクが膨大に張られている頁の下の方のリンクは、中々読み込まれないので、結局効かない。気になるのは、アンカーの色が「既読」に変わってしまうこと。
(それ以前に、ネスケのキャッシュが、すぐにクリアされてしまうという問題が、相当以前からほったらかしになっている。(キャッシュサーフィンが不可能に近いほど。)これの解決が先決ではある。)
簡単に ON / OFF できるので、適当に試用しつつ、使いこなしてみよう。
目次へ戻るBecky! に、Netscape のメールを全部移す。また、Netscape への移動がうまくいかないので塩漬けにしていた、大昔に使っていた AirMail のバックログを、これまた簡単に移せることが判ったので、全部移す。この過程で Becky! が落ち、ちょっとヒヤヒヤした。原因不明。リブートで復帰。症状再現せず。まっいっか。ニフの送金代行システムでレジストする。
ニフのコンピュータ系の某フォーラムの会議室で、また、私の一番嫌いなタイプの論調が目に付くようになってきた。それは、「普通の人がパソコン買って、何に使うんでしょうね(笑)」という嘲りである。
お前らが選民だとは、知らなんだ。
目次へ戻る行き付けの古書店のJ舎で、「ロシア・ロマン派の風景画展」という、1979年の展覧会の図録を手に取って、パラパラとめくっていたら、飛んでもない図版が目に飛び込んできた。
クインジ(Kuindzhi)作の「夜の放牧」という作品である。
ほとんど驚愕に近い感動を覚え、(僅か500円で)購入する。
夜というより、日没後のロシアの大平原。地平線の彼方まで流れてゆく、静止したような大河..
店頭では気が付かなかったのだが、この展覧会の目玉は、同じ作者の「ドニエプルの月夜」という作品であり、「夜の放牧」の直前のページに収録されていた。帰宅して読み始めてから気が付いた。
これも基本コンセプトは「夜の放牧」に似ているのだが、これは正真正銘の月夜であって、雲の合間から輝く、凍り付くような満月の光が、河の水面を照らす、その信じ難い光の表現!
この作品に捧げられたヤコフ・ポロンスキーの詩を、この図録から引用する。
これは何だろう? 絵なのか、現実の風景なのだろうか? 金の額縁のなかで、または開け放たれた窓を通して この月を、この雲を、この暗闇の遠景を、 悲しげな村落のゆらめく灯を、 この光の変化を、 ドニエプルの流れに映ゆる月の銀色の輝きを、 この詩的で静かな荘厳な夜を 私は目のあたりに見たのだ!
私には確かに、(展覧会の主催者である)朝日新聞紙上で、この作品の小さな複製に添えられていた、この詩を読んだ記憶がある。「これは何だろう?」という一行で、想い出した。
18年前の記憶なのだ..
目次へ戻る私の大きな悩みのひとつは、本を読む速度が、非常に遅いことである。実に時間がかかる。平均的な厚さの文庫の小説を一冊読むのに、まるまる二晩かかってしまう。
無論、「速読法」には(何年も前に)手を出した。しかしどうやらこれは、私のこの“遅読”に対する処方箋たり得ないようなのだ。
速読法には、いくつもの流派があるらしいが、典型的な手法は「ページを図形として把握して、ブロックに分割して認識していく」というものだと思う。これに加えて、視線をすばやく動かす練習をしたりする。(そういうパソコンソフトを試してみたこともある。)
どうも、これらのテクニックは、(無論、中途半端にではあろうが)あっさり身についたというか、そもそも、以前から判っていたようなのだ。その証拠に、ビジネス系のノウハウ本などは、30分もかからずに読めてしまう。(3分間で読むのが、速読法なのであろうが。)
私の“遅読”は、「考えながら」読むことと、それ以上に「想いながら」読むことに由来している。
つまり、登場人物に対する感情移入が激しいのだ。彼が不当な目に合えば、本気になって怒り、悲しむ。時にはページを閉じ、主人公になりかわって、彼の“敵”を叩きのめす妄想を、果てしなく繰り広げる。そしてしばらくしてから“正気に帰って”読書を再開/続行し、そしてまた3行後には、妄想の迷路に入り込んで行く..
「ブロック認識」も「視線の高速移動」も、ちゃんちゃらおかしい。[;^J^] そんなものの出る幕ではないのである。この妄想癖が遅読の本質なのだから。
逆に言うと、感情移入出来ない本は、実にサクサク読めてしまうのである。
じゃあ、余計な感情移入をするなって? 一体、なんのために読書をするの?
例えば、“詩”を“速読”する人がいるだろうか?
一文ごとに、一行ごとに、一語ごとに、一シラブルごとに、詩人の“想い”と“血”が込められた“詩”を、“速読”することに、何の意味があるのだろうか?
結局、そういうことなのだ。その言葉を、その想いを、その世界を、咀嚼して取り入れることに時間がかかる書物には、それだけの時間が“内包”されているのだ。一週間でも一ヶ月でも、かけるが良い。その書物を物理的に読み飛ばすことは可能だが、それは“読まなかった”ことに、限りなく近い。
とある流行作家の長編小説など、本当に30分どころか15分で読めてしまうが、それを1日に20冊読むことに、なんの価値があるであろうか?
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Nov 12 1997
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