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「カッコウはコンピューターに卵を産む」という名著を、ご存知であろうか。ネットワークから侵入してきたクラッカーを逆探知して追いつめ、ついに(CIAやFBIとの、今いち、そりの合わない [;^J^] 連係プレーの末に)逮捕するに至る、手に汗を握るドキュメンタリである。Clifford Stoll の1989年の著作で、邦訳は草思社から出ている。
とにかく、リアルなのである。そしてまた(それ故に)、UNIX(あるいは、VAX/VMS)のシステム管理の経験があるか否かで、感興の湧きかたが違ってくるであろう、ドキュメンタリでもある。
肌に粟立つ臨場感を覚えたシーンを、二ヶ所、紹介しよう。
まずは、シリアル回線から侵入してきたクラッカーを、“そっと追い返す”シーンである。
そのポートから“歓迎されざる客”が入ってきたことは、判った。だから、そのポートを殺せば(あるいは手っ取り早く、ケーブルを抜いてしまえば)、侵入者を追い返せる。しかしそれでは、“侵入に気が付いた”ことが、相手に判ってしまう。そして、この(ほとんど臆病なまでに)用心深い侵入者は、二度とこのシステムに侵入しないであろう。つまり、侵入者の正体を探る手がかりを失ってしまうのだ。
だからといって、気が付かないフリをして、いつまでもシステム内を覗きまわらせるせるわけにも、いかない。あくまでも、こちらが気が付いたことは伏せたまま、極力早く、出ていってもらいたい。(こちらが、侵入されたことに気が付かないような、間抜けなシステムだと思い込んでくれれば、また、侵入してくるであろう。そうすれば、その機会に、侵入者の手がかりを、さらに得ることが出来るであろう。)そこで、Clifford Stoll は、ポートのコネクタの接点を、「ドライバーで、2〜3回、叩いた」のである。
実に巧妙な作戦である。これによって“少しの間、文字化けする”。このシリアル回線からログインしてきた者は、ちょっと調子が悪いな、と判断するであろう。そして、自発的に(他日を期して)ログアウトする..
もうひとつのシーン。それは、この侵入者が(普段、ローカルに)使っているシステムは何であるかを、推測するシーンである。
この侵入者は、ps コマンド(システム内で動いているプロセスを調べるコマンド)に、g オプションをつけたのである。侵入者の振る舞いを監視していた者は、これを見て、直ちに、「こいつは西海岸の人間ではない!」と断定した。
どういうことか、説明しよう。
当時のUNIXシステムには、大きく分けてふたつの流れがあり、ひとつは「システムV(ファイブ)」、もうひとつは「BSD」と呼ばれていた。そして、ps コマンドに g オプションが有効なのは「システムV」であり、「BSD」では、意味がなかったのである。(そして、侵入されたシステムは、BSDであった。)
だから、侵入者は、「普段、BSDを使いつけていない、システムVユーザーである」と推測するのは、妥当なのであった。しかし何故それが「西海岸の人間ではない」ことになるのか。
無茶苦茶大雑把な言い方をすると、システムVは、東部エスタブリッシュメントの(あるいは、企業の)使うシステムであり、BSDは、西海岸の学生の使うシステムなのである。(そもそも、BSDは、カリフォルニア大学バークレイ校で開発されたものであった。)だから、「BSDを使い慣れていない奴=西海岸の住人ではない」ことになるのである。
しかし、ちょっと考えてみて欲しい。一体、西海岸に何千万人住んでいるんだ? UNIXユーザーの数だけ数えても、数十万人ではきかないだろう。それら全員がBSDユーザーだと看做すのは、(西海岸諸州で、システムVが禁止されているわけではないのだから)乱暴過ぎないか?
まるで、「報知新聞を読んでいる以上、そいつは関西の人間ではない」と断定するようなものではないか。(微妙に違うかも。[;^J^])
..にも関わらず、この“断定”は、実に爽快で気持ちが良い。
それは、世界を(ここでは、アメリカ社会を)“徹底的に単純化している”からである。図式化と言っても良い。私の言葉で表現すれば、これは“世界の(宇宙の)ミニチュア化”である。
恐らく、あなたにも憶えがあると思うのだが、幼少期に「図鑑」の類を読んだはずである。そこでは、世界を、非常に単純に表現していた。アメリカ合衆国であれば、東海岸にそって、ニューヨークやボストンのような大都市(と摩天楼)が並び、南部にはアパラチア山脈と、油田やヒューストンのロケット打ち上げ基地。中部には、大穀倉地帯があり、その西にはロッキー山脈。西海岸には、大工業地帯と商業地帯..
これらの各地域には、そこに「絵で」表現されたアイテムのみがあり、また、各アイテムは、それが描かれた地域にのみ存在する(産する)。そのように、単純に理解したはずだ。それは実に明解で把握しやすい世界認識であり..そしてその限りにおいては、正しく、妥当な理解だったのである。
「システムVユーザーは、西海岸の住人ではない」。この断定の心地よさは、単純な世界認識のノスタルジーに通ずるところから来ているのだろう。(ちなみに、“ミニチュアールとしての世界認識”については、「“手塚治虫漫画全集”解説総目録」の中の「ジャングル大帝 3」の稿の最後の方でも、論を展開している。)
目次へ戻る悪魔に魂を売る、という概念は、さまざまな文化圏に共通に存在するようである。
では、かけがえの無い魂を代償にして、人は何を得るのか?
それは、夢である。
悪魔は(実現しない)夢を売っているのだ。それは..何よりも尊いことではないのか? 神の御業よりも?
目次へ戻る実は、唐沢なをきというマンガ家を、ほとんど認識していなかった。(唐沢俊一と混同していたほどである。)単行本はおろか、雑誌に掲載された作品すら、読んでいなかった。
とり・みきの快著(インタビュー集)「マンガ家のひみつ」で、初めて興味を持ち、確か一ヶ月ほど前に、「唐沢なをきの楽園座」という短編集を買った。
“傑作集”とは、よう言わん。半分は佳作だが、半分は愚作である。絵は(味はあるが)下手だし、反則が“面白いとはいえ”目に余る..
つまり、奇妙に“引っかかる”のである。
帰社時に、いつもの書店に寄ってみたら、アスキーから、新刊がまとめて出ていた。その中には、「マンガ家のひみつ」に一部紹介されていた書名(作品名)もある。そこで、「ハラペーニョ」と「カスミ伝(全)」と「カスミ伝S」と「鉄鋼無敵科學大魔號」を買い、まず、「カスミ伝」の2冊から、読んでみた。
なるほど..[;^J^]
残り全部買お..[;^J^]
目次へ戻る唐沢なをきをさらに一冊、「YAPOOS」を買う。
しかし、なんだ、この「半透明でプルンプルンしている」はた迷惑な装丁は。[;^J^] 帯が破れて貼りついてしまったし、帯が貼りつくということは、これに密着する他の本も、(温度や圧力で)貼りつく可能性がある、ということである。保存というか、書棚での配置に困る。
(はた迷惑な装丁と言えば、遅れに遅れている「SF大将」(とり・みき)。8月発売のはずが、9月に延びました、すんまへん、という告知があって、10月になっても見かけないので、先日、早川書房に電話したら、年内発売も危ういらしい。どうも、出版史上かつてない馬鹿げた装丁だという噂で、それで手間取っているのか? [;^J^])
唐沢なをきに話を戻して。
昨日買った4冊を、昨日読み切れたわけではなく、「鉄鋼無敵科學大魔號」(アスキーコミックス版)は、今日、読んだのだが..これは一体、なんだ?
一体、いつ、どこに、どういう形で発表された作品なんだ?
どうも、いくつもの「時間(時代)」が、重層的に畳み込まれているようなのである。初出は89年から91年にかけての「少年キャプテン」らしいのだが、各エピソードの扉(と欄外)には「コミックビーム付録」と書かれている。資料によると、最初の単行本は、92年に徳間から出ている。
素直に考えると、かつて、キャプテンで連載された作品を、コミックビームで「連載しなおした」ことになるのだが、普通、そんなことをするか? 既に単行本にまとめられている作品を、もう一度ばらして?
また、欄外に「おたよりコーナー」があるのだが、どうもこれらが、怪しい。本物らしくない。まるまるでっち上げに見える。ところどころ挟み込まれる「鉄鋼倶楽部」(読者の投稿欄)も、何かおかしい。様々な時代の投稿が、同居しているように見える。(エヴァネタもある。)これらも、全部でっち上げかと思ったが、さすがに、これほど多様な絵柄を描き分けることは、出来まい。とすると、かつて雑誌に連載された時の「読者投稿欄」を、「再連載時に、再度掲載した」のか? 普通、そんなことをするか?
最初は、コミックビームという雑誌自体、架空の雑誌かと思ったのだが、さすがに実在するようだ。しかし、とはいえ、この雑誌の「付録」だという一方的なでっち上げは、可能ではないか?
つまり、この単行本まるごと、非常に手の込んだ、重層的なメタフィクションではないのか?
目次へ戻る明日は、「お気楽カルミナ」本会である。持参するシンセで、主として打楽器の代用をする予定であったが、当初の予想よりも、打楽器が揃いそうだということで、当初の予想を遥かに下回って揃いそうも無い [;^J^] 弦楽器のサポートに、照準を当てなおして、仕込みをやり直す。
目次へ戻る「お気楽カルミナ」本会である。7時20分頃に出発して、8時6分のひかりに乗る..
どうもおかしいことに気が付いたのは、静岡を通過した頃である。既に8時30分を過ぎている。私は、8時35分に東京に着いているつもりではなかったか?
そう、出発時刻を、確信犯で、1時間間違えたのである。[;^J^] どうもいつもと、バスの客層が違う(やたらと高校生が多い)と思った。[;^J^] ま、8時半だと早く着き過ぎるが、9時半だと20分位遅刻。この位の遅刻は問題にならない。(まだ、音だし前のセッティング中のはずである。)良しとするか。
ということで、下北沢のホールに、10時20分過ぎに着く。
練習会を通じて、チェレスタ、グロッケン、シロフォン、カリヨン、チューブラーベルのパートをシンセで担当してきたが、今日は、グロッケンもシロフォンもある。仕事が減った..のだが、実は、楽器はあっても、奏者の手が足りない。結局、グロッケンとシロフォンのパートの1/3位は、私がシンセで弾いた。
その他、指揮者から事前に打診されていた、弦楽器パートの補強である。今日は、他にも大規模オフがあることもあって、非常に弦楽器が少ないのだ。もともと頼まれていたのは、4曲(4ヶ所)だけなのだが、他にさらに4〜5曲、明らかに補強が必要と思われるところを弾いた。
第6曲で、チェロとコントラバスの、どうにも難しいリズムを受け持ったのだが、これが弾けない。(リズムそのものは、そのパートだけを聴いていると、全く単調な繰り返しなのだが、実は曲自体の拍子は、目まぐるしく変化しているので、つまり、(曲を聴きながら弾こうとすると)逆に難しいリズムということになるのである。)そこで、指揮者の指導で、弾き方を変えた。譜面とは全然違うリズムなのだが、私にも容易に弾けて、曲としてまとまり易い音型にしたのである。
私が、この前、アンサンブルを演奏したのは、多分、高校生の頃、ブラスバンドでのことである。20年以上前だ。当時の私(我々)の常識として、楽譜どおりに弾かない、なんてことは、有り得なかった。高校生ならではの青臭い潔癖さではある。無論、それが出来るに越したことはないのだし、コンクール等では、譜面どおりに弾かないようでは論外であろうが、しかし、実際の音楽の場では、奏者の技量を加味した上で、良い結果を得るために、譜面を変更してしまうことも、あるのである。
夕方までかかって、カルミナ・ブラーナを2回半ほど通し、その後、別のオフのメンバーが合流して、ベートーヴェンの第九(全曲)と、ヴェルディのレクイエム(抜粋..の筈)という、無茶苦茶ハードなプログラムである。「筈」というのは、私は、第九の第3楽章を聴いている途中で、眠ってしまったからである。[;^J^]
ふと気が付いたら、(多分)下北沢での二次会から、A氏と連れ立って、駅に向かっていた。[;^J^] シンセの梱包(というか、ソフトケースへの仕舞い込み)も、他人の手を煩わせたようだ。(なぜなら、いつも私が入れる向きとは、逆に入っていたからである。)情けない。[;_ _]
新宿で、いつものカプセルホテルではない、ちゃんとしたビジネスホテルに泊まる予定だったが、結局、ビジネスホテルを(歌舞伎町近辺で)見つけられず、別のカプセルホテルに泊まった。廉いからいいけどさ。(歌舞伎町に向かったからといって、どこぞの店に寄り道したわけではない。そんなスタミナは残っていなかった。[;^J^])
目次へ戻るカプセルホテルが狭いことに、文句なんか言わない。しかし、エアコンが無いのには参った。暑いあつい。たまらず、朝6時には飛び出してしまう。で、この時刻には、やることがなーんも無いわけだ。新宿だろうが東京だろうが。[;^J^]
例によって、東京駅の銀の鈴待合所のコインロッカーに、シンセとリュックを放り込んで、最小限の荷物にしてから、渋谷へ。道中、グレ電でダウンロードした、ニフティのログやインターネットメールを眺めながら、マクドでぶらぶら。さらにルノアールで1時間近くうとうとしてから、まず、東急ハンズ。
スライド書棚の追加棚を発注するが、なんと、伝票に、自分の住所を書けない。[;^J^] 浜松市までしか出てこない。[;^J^] 焦った焦った。不審に思われないよう、適当に演技しつつ、必死に思い出して、なんとか記入したが..[;^J^] 決して二日酔いではないはずだが、しかし確かに、貧血気味ではあるなぁ、うーん。
次に、正午の開館時刻を狙って、現代マンガ図書館。吾妻ひでおのコピーが一件。そして、「鉄鋼無敵科學大魔號」調査である。[;^J^]
持参したアスキーコミックス版(以下、A)と、借り出した徳間書店版(以下、T)の単行本を、まず照合する。
ははーん。Aで「コミックビーム」となっているところが、Tでは、片端から「少年キャプテン」である。この書き換えは、欄外の「おたよりコーナー」にも適用されている。即ち、この「おたよりコーナー」は、やはりフィクションだったのである。
そして、「おたよりコーナー」に掲載されている「おたより」が、Tの方がかなり少ない。あとから追加されているのである
Aの93頁の「4/12売り」が、Tでは「3/26売り」。こうなると、もはや間違いはない。少年キャプテンに連載され、Tにまとめられた作品を、コミックビームで“連載しなおした”のである。
ここまで確認してから、少年キャプテンを閲覧する。幸い、初出時の少年キャプテンは、全て揃っていた。
細かい描き直しが、結構あるのはいいとして..
あったあった。[;^J^] Aの67頁に相当する初出誌の頁の欄外の「おたよりコーナー」に、書き文字で追記。「うわあ、本当に手紙が来たぞ」[;^J^]
そして、Aの95頁に相当する初出誌の頁の欄外に、「当初この欄外記事はスキモノ相手のヤラセコーナーだったが、ここにマジに手紙をくれる奴が増えてきたので、この際読者に開放云々」。つまり、これ以降は「本物」なのである。(ところが、一見して贋物くさい「お便り」は、実は、これ以降の方が多いのだが。[;^J^])これで、この「おたよりコーナー」の“視点”が、妙に“ぶれている”理由が判った。
残念なのは、現代マンガ図書館には、コミックビームが、ほぼ全く無い(蔵書は1冊のみ)ということで、これがコミックビームに“再連載”されたことの、直接の証拠は押さえられなかったのだが、まず確実である。(恐らく、96年度中?)次回、国会図書館に出向く時にでも確認するか。
神保町に出て、唐沢なをきをスキャンする。高岡書店で「金春」と「ホスピタル」と「ホスピタル2」と「BURAIKENぶらいけん」と「原子水母」と「ぶんかノ花園−原子水母2−」と「怪体新書」と「蒸気王」を買う。書泉ブックマートで「必殺山本るりこ」を買う。(怠慢して、単行本リストのコピーを持参していなかったので、ポロポロ見落としていたはずである。)
東京駅に戻り、東京ステーションギャラリーで「レオノーラ・キャリントン展」を観る。
あなたは、この美術館(ギャラリー)をご存知だったか? 私は、知らなかった。丸の内中央口を出たところに、入り口がある、東京駅の煉瓦造りの駅舎そのものの中に作られている、小さなギャラリーである。
実にシックでいいムード。何しろ、一部の展示室の壁は、あの、朽ちかけている煉瓦壁そのものなのである。ほどほどに小さくて狭いのも、よろしい。
で、レオノーラ・キャリントンだが..この(まだ、存命だとは知らなかった)女流シュルレアリストの作品、好きは好きなのだが、嫌いである..いや、何を言っているんだか。[;^J^]
いわゆる、秘教的、錬金術的イメージに満ち溢れているのだが、とにかく情報量が多く、しかも、(同様に情報量の多い)ダリやエルンストと比べて、“読み解くことを迫ってくる”感覚がある。実に疲れる。そして、それは確かに目を奪う作品世界であるが、けっして、心地良い世界ではないのである..
こだまで浜松に帰ったのは、20時過ぎ。まだまだバスのある時刻だが、バス停から700メートル歩く根性が残っていなかったので、タクシーで帰宅する。
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Oct 23 1997
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