[嫌いな現代音楽 6]

「砂の都市〜ソプラノ、シンセサイザー、ピアノと2人の打楽器奏者のための菅野由弘



 なんと安易な作品だろう。唖然とするのは、シンセサイザーのチープな音の、シーケンサー(自動演奏装置)で繰り返されているがごとき音型で(恐らくシーケンサーは使われておらず、シーケンサー風に人間が弾いている)、くどいようだが、こんな音楽はとうの昔に終っており、さらにその後に現われ、また消滅していった、ミニマルミュージックその他の新しい音楽の成果に対しても、失礼ではないか。「イニシウム」(田中カレン)や「交響曲 第2番」(新実徳英)の回で述べた“C”を狙っているとは聴こえないし、もしもそうだとすれば、不勉強きわまりない。プロ失格である。

 ちょっと脇道にそれるが、私は、シンセサイザーとシーケンサーを使った“安易な”音楽というのが、何よりも嫌いなのである。(それは、私自身、シンセサイザーとシーケンサーの開発に携わっているからでもあろうが。)(かつてのテクノ・ポップは“安易風”を装った、実は安易でない音楽であるので、念のため。)

 かつてワルター・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」(これは安易どころではない大傑作)を引き金として、“シンセサイザーによるクラシック作品の編曲”ブームが燃え上がったことがある。冨田作品などのごく一部の例外を除いて、ほとんど何ひとつ残っていないが、当然である。余りにも安易なレコードばかりだったからだ。私がいつも引き合いにだすのは、それらの多くに「ボレロ」(ラヴェル)の編曲が収められていたことである。これほど安易な発想はなかろう。定常リズムの繰り返しは、シンセサイザーとシーケンサーの(何も考えていない)組合わせの得意とするところであり(さらに邪推すると、このリズムは24個の音からなっており(暇な人は数えてみよう−そこのあ・な・た)、当時入手しやすかったアナログ・シーケンサーには、24ステップの物が多かったのである。つまり、たまたま手持ちの機材で作りやすい素材だったという訳だ)、この作品の基本構造は「18回の音色変化」である。音色変化! なるほどこれはシンセサイザーの得意技である。リズムの件といい、これはシンセサイザーのデモンストレーションのために用意されている曲としか言いようがない(ように、一見思える)。見当違いも甚だしい。天才ラヴェルが、オーケストラというパレットから、既にあれだけの音色を引き出して見せているのだ。シンセサイザーによる編曲は、ことごとく、それの模倣にすらなっていなかった。(蛇足だが、唯一例外に近いのが、冨田勲による編曲で、まず、氏がなかなかこの作品を取り上げなかった点に見識を感じたし、「ダフニスとクロエ」に収録された編曲も、(冨田勲としては決して名誉となる作品ではないが)「ボレロ」の“定常リズム+音色変化”という本質自体のパロディ(戯画)になっており、他の有象無象の編曲家とは、根本的に格が違うところをみせつけていた。発売当時、直接話を伺う機会があったが、「ボレロ」は「ダフニスとクロエ」に収める作品が足りない、とレコード会社に言われて、慌てて作った「やっつけ仕事」だったという。しかし、やっつけでもここまで出来る点が素晴らしい。)

 話を、「砂の都市」に戻す。ここで私が問題にしたいのは、シンセサイザーの古風な音を古風なオスティナート音型で使っていること自体ではない。


 「この作品は、ここ数年私が進めている“波の断片”の“波状集積”によるシステムで作られている。“波の断片”とは、核になる音型パターン(この曲では18音)のことで、それそのものが一つの表情を持ち、全体像を支配する。海の波のように、定常的にみえても常に変化し、大波は小波に被さり、追い越し、際限無く繰り返す。この無限の繰り返しは、人間の営為と同様であり、(後略)」

(作曲者による楽曲解説より)

 狙いは悪くない。しかし、その核になる「音型パターンの繰り返し」を、シーケンサー風のシンセサイザーサウンドで実現する、という感覚は、果てしなく外しているのではないか? この作品は、トータル・セリエリスムによってはいないのだが(ちなみに、私にとって最も難解な技法が“トータル・セリエリスム”である)、セリー(音列)の繰り返しをシンセサイザーでやるというのは、反則ならばまだ許せるのだが、反則ですらないダルな発想ではないか? 1953年生まれのこの作曲者、抱えているテーマは悪くない。しかし頼むから、もっと色々な音楽を聴いて肥しとして欲しい。

 さらに言うと、ソプラノの歌唱は、現代音楽の素人の語彙としては「現代音楽歌唱様式」としか呼びようのない、例の、言葉のイントネーションとは無関係に上がったり下がったりする旋律線なのだが、その霊感の乏しさたるや、驚嘆に値するものである。そもそもこの作品のコンセプトとしては、“歌”(または“台詞”)は、むしろ平易でポップな響きの方が望ましい筈であり、その点からも、(現代音楽の語法という)方法論に足元をすくわれているように思う。

*Fontec FOCD3184 “菅野由弘作品集”


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 29 1996 
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