[嫌いな現代音楽 5]

「イニシウム〜オーケストラとライブ・エレクトロニクスのための田中カレン



 これを「嫌い」と言うのは酷か。単に感動も感心も出来なかったという意味では、他にもそういう曲は(もちろん現代音楽に限らず)いくらでもある訳で、とりわけこの曲を指弾しなければならない理由はない。ただ、以下に述べる問題点をするすると思い付いてしまうような作品だったので、取り上げることにした。諒とせられよ。

 まず、この人は、現代の音楽(“現代音楽”にあらず)の動向を、ちゃんと把握しているのだろうか? この様な音楽は、20年も前に、ピンク・フロイドやタンジェリン・ドリームが発表し、何十万枚ものレコードとなって全世界に広まり終えているのだが。電子楽器や電気楽器のアンサンブルで実現していたことを、オーケストラと電子機器の組合わせで追試することに意味があるのだろうか? 仮にあるとして、この人には(結果的に?)追試となっているという認識があるのだろうか? 上述した電子音楽に親しんでいてもおかしくはない世代の作曲家なのだが。

 ちょっと、大風呂敷を広げる。私は現代芸術の理論については素人であるし、全く個人的な思い込み(ドグマ)かも知れないので、間違っていたら指摘して欲しい。

 「新しさ」に着目する時、芸術の「新作」は、およそ以下の3つに分類されるのではなかろうか。(これは音楽に限らず、文学、美術、演劇、映画、建築、漫画など、およそありとあらゆる分野で通用する通則だと思う。)


A.全く新しい技法、美学、理念を世に問う、先鋭的な作品。
B.Aの作品で呈示された技法、美学、理念を、世間に定着させるための、追試、あるいは駄目押し的な作品群。
C.A、Bの過程を通じて認知された技法、美学、理念を用いた、世間に受け入れられることを前提とした作品群。


 補足説明をしておくと、Aの作品は失敗に終ることが珍しくない。何しろ前例が無いことをするのだから、言わば海図も設計図もない航海であって、これは失敗しても仕方がないし、栄誉ある駄作の称号を得ることもあろう。(しかしさらにありそうなのは、栄誉ある駄作であるが故に完全に忘れ去られ、のちに全く独立に発想された同工の作品に栄誉をかっさらわれるという事態である。いくつも実例を知っていたはずだが、今は思い出せない。)

 Bの作品群は、Aに比べて(後世の目からは)軽くみられがちであるが、その重要性は、Aに比べて少しも劣るところはない。上記の様にAの作品は受け入れられないことが多いのだから、Bの作品群がなければ、Aの開拓した新しい技法も美学も理念も、世に浸透しないのである。つまり、Aの作品は存在しなかったも同然、ということになってしまうのだ。

 SF作品でAとBの例を挙げると、「タイム・マシンを発明した奴は偉いが、それを二番目に使った奴はもっと偉い」。星新一の名台詞である。タイム・マシンの発明者は、言うまでもなくH・G・ウェルズであり、彼の作品『タイム・マシン』は、失敗作どころではない大傑作なので、Aの例としては不適当なのではあるが、二番目にタイム・マシンを取り上げたSF作家がいなければ、この魅力的な発明によって演繹された、あるいは彩られた、無数のSF作品は生まれ出なかったはずなのである。

 Cが、いわゆるポピュラーな作品であり、(ほとんどの場合)ゼニにならないA、Bと異なり、商売になる音楽である。「新しさ」は全く無いので、その価値観から見る限り、A、Bに比べて遥かに志の低い『生活のための』あるいは『金儲けのための』音楽ということになるが、現実に(多くの)一般聴衆を感動させ、彼らの人生を豊かにするのは、Cの作品群であることは、言うまでもない。

 先鋭的な芸術家の仕事は、A、Bであることが期待される。それは、今の我々(一般大衆(聴衆))が知らない、新しい“美”の創出であり、それは次の時代のスタンダードとなるべきものなのである。言い換えれば、今の時代には(ごく一部にしか)受け入れられないものであって、全く割に合わない、損な仕事としか言いようがない。しかし彼らの仕事なかりせば、芸術は変化(進歩と退歩とを問わず)しないのである。例え退歩であっても、“永遠の現在”よりは、遥かにましであろう。無論、上述した様に、Cの作品で我々を楽しませてくれることは大歓迎である。例えば、松村禎三の「ピアノ協奏曲 第2番」が、そうである。

 さて、田中カレンの「イニシウム」は、A、B、Cのどれなのであろうか? 方法論は古色騒然、従ってAではない。それの追試などとっくの昔に終っており、ミリオンセラーの産業ロックから、隔離病棟に放り込まれかねぬマイナーなプログレまで、様々な結果が出尽くしている。よってBでもないし、それを目指していたとしても出番を外しすぎている。最後に、この作品は“売れない”。つまりCでもない。

 作品ノートを読む限りは、狙いはAともBとも読み取れる。単に不勉強なだけ(“クラシックの現代音楽”分野の外で、何が行われているか知らないだけ)かも知れない。しかし彼女の年齢が気にかかる。現代ロックの動向は知りませんでした、では通らないと思うのだ。

 結局、これは「なんとなく」作られた作品なのではあるまいか。使命感もなく、と言って、個人的な随筆であるという割り切りもなく。「なんとなく」作られた作品がいけない、というつもりは無いが、作品ノートからは、3年間IRCAMで学んだ経験を通じて新しい試みをしている(つもり)らしいと読めるので、困るのである。

*Camerata 32CM-319 “民音現代作曲祭 '93”


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 13 1995 
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