これも基本的には調性音楽。特に第1楽章が良い。適度に不安定な和声が交錯する中、低音と高音のオスティナートリズムが明滅し、やがて、ピアノを中心とする、実にきびきびとしたリズムのテーマが現われる。僕はこういうパターンに弱いらしい。ただ、万全の作とは言えず、難癖をつけられる点もなくはない。特に気になるのは、時折現われるトロンボーン群の音型で、楽想に乏しく、緊張感を削ぐ。また、長大な第2楽章もしばしば息切れする。しかし実に心地好い瞬間に満ち溢れた作品であるので、許そう。20年は残る作品である。30年もつかというと、さぁそれはなんとも言えない。
「しかしこういう音楽は、ジャズやロックの世界では“実施済み”ではないか、田中カレンの『イニシウム』に対するお前の批判(「出番を外した“実施済み”の追試である」)と、どう折り合いをつけるのだ」と問われるかも知れない。この点は重要なので抑えておこう。「イニシウム」の回の繰り返しになるのだが、音楽に限らず、“新しい芸術”には、以下の3つがある。
A. | 全く新しい技法、美学、理念を世に問う、先鋭的な作品。 |
B. | Aの作品で呈示された技法、美学、理念を、世間に定着させるための、追試、あるいは駄目押し的な作品群。 |
C. | A、Bの過程を通じて認知された技法、美学、理念を用いた、世間に受け入れられることを前提とした作品群。 |
根本的なことだが、目標はCなのである。Cこそが様々な実験や試行錯誤の“実り”なのであり、聴衆と作曲家の人生を豊かにするのだ。(金にならない)AやBに取り組む作曲家と、それに付き合い、拍手やブーイング、適切な批判や罵倒でそれらを鍛えあげていく聴衆は、次の世代のCを作り出すための“捨て石”なのである。A、BとCは、別個の価値を持つ。言うまでもなく、現代のCは前代のA、Bだったのであり、次代のCは、現代のA、Bである。A、Bなかりせば、次の世代に、新しいCを供給出来ないし、Cなかりせば、前の世代の苦しい実験であったA、Bが無駄になってしまう。(そして私の理解している限りでは、今や新規なAを作り出せずに、Cの拡大(縮小?)再生産に陥っている。これが、現代音楽の危機の本質である。)
新実徳英の「交響曲 第2番」は、言うまでもなくCの作品であり、ストラヴィンスキーやバルトークらが開発し磨きあげてきた、語法や響きを存分に駆使している。この作品に充溢している、豊かな響きと生気あるリズムに、虚心に身を委ねよう。それは数十年から数百年に渡る、苦しかった数多の実験の成果なのである。(但し、上述した様に、第2楽章の出来がいささか落ちる。必聴とは言えないところだ。32CM-298 は、八村義夫の「ラ・フォリア」「錯乱の論理」とのカップリングであり、買って損するCDではないが。)
第1楽章「子どもの王国」、第2楽章「宇宙の祭礼」。
「子どもが川原で遊んでいる。たった一人で遊んでる。彼は一心に石を拾ってきては積み上げている。積み上げられた石が何であるのか彼以外の誰にもわからない。
今、彼の中にはお父さんもお母さんもいない。友達もいない。その『今』すらもない。彼は無限時間に漂っている。
有限時間に住む無限時間の所有者、支配者。
彼の内なる小宇宙、精神宇宙……王国。」
(作曲者の作曲ノートより)
素晴らしいイメージだ。聴きようによっては酒場の音楽といっても通用する第1楽章が、この「言葉」(「標題」?「解説」?)と組み合わされることによって、遥かな高みに達している。
この、「遊戯する幼児」というテーマは、「役に立たぬ、無用の、無償のものだからこそ、精神の最高段階をあらわす」として、この観念を好んだニーチェの晩年の思想を思わせる点がなくもないというが、底が割れている受け売りで自爆する必要はあるまい。ヒントの紹介までとさせていただく。
Camerata 30CM-79〜86 “民音現代作曲祭 '79-'88”Last Updated: Jul 13 1995
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