7月28日、いよいよ西域と別れる日、名残惜しさで胸が一杯である。心残りが山ほどある。是非また、ここには来たいものだ。特にトルファン! この、何も無い、小さな小さな町は、実に心地好かった。
7:06、ホテルを発ち、7:20、空港着。8:50、離陸。機内食はやはり不味いし、昨夜から腹は暴れまくっている。[;^J^] イリューシン86の座席は狭いし、前の席に坐っていたおっさんが無造作にリクライニングしてくれたお蔭で、ビールとお茶が足の上にこぼれるし、もう散々である。凸[-_-メ] 11:55に北京の空港に着陸。荷物が揃って空港をタクシーで出たのが、12:44。
西域を見慣れた目で見るせいもあろうが、実に近代的で美しい、洗練された町である。道路にせよ建物にせよ、その規模も広がりも、ウルムチとは桁外れである。市街から空港へのアクセスのしやすさは、東京などの比ではあるまい。ホテルの部屋に落ち着いたのが、13:50。14:05、ホテルのすぐそばの食堂に昼食を食べに行く。どの皿も旨かったが、それはそれとして、“飽食地獄”という言葉が脳裏にちらつく。[;^J^]
15:35ホテルを出て、すぐ向かいのIVPP(中國科學院古脊椎動物與古人類研究所)を訪れる。これが、今回のツアーの、最後のビッグイベントである。
IVPPは現在改装中であり、展示品はほとんど無い。そこここで土木作業、内装整備が行われている。李先生は作業員の人達に顔が広く、彼らとやぁやぁお久しぶり、といった調子で挨拶を交わして行く。玄関前で、また一人土建屋のおっさんと挨拶している … 私が顔写真を見たことがある中国の土建屋とは? 中国で最も有名かつ世界でも屈指の恐竜学者、董枝明(ドン・ジーミン)教授であった。[;_ _] 発見し記載した恐竜化石の新属・新種の数では、現存の世界の恐竜学者中、董教授が飛び抜けて多い。
董教授の案内で、まず、屋外に展示されている、ジュラ紀中期の地層から発掘されたリキノドンの集合化石のキャストを見学する。改装中ということで、ほとんどここには期待していなかった金子氏は仰天する。この哺乳類型爬虫類は、従来、三畳紀に滅びたとされていたのである。またひとつ、これまでの定説があっさりと覆った。哺乳類型爬虫類に思い入れの深いYさんも、目を輝かせている。
さらに、キャスト(模型)の製作現場、化石のクリーニング作業の現場を見学する。石膏で保護されている膨大な量の化石の山が、木箱に詰められて、何年後になるか判らないクリーニングの順番を待っているのを見て、溜め息が出る。
(fig.84) (fig.85) (fig.86)
この日に発した質問ではないが、丁度良い機会なので書いておく。そもそもどうして中国の恐竜学者は、いつまでたっても論文を書かないのか?これは、出発の日に、成田で金子氏に訊ねたのであった。
背景を説明しておくと、中国の恐竜学者の腰の重さは、この学界の大問題のひとつなのである。化石が見つかっても、短報をマイナー誌に発表したっきり、正式な記載論文をいつまで待っても書かない。その短報も、英語ではなく、中国語で地元の雑誌に発表するので、欧米などの学者の目には届きにくい。よって、噂だけが世界を駆け巡ることになる。これが、ろくな化石も出ない、しょうも無い地域だったら気に病まなくてもいいのであるが、中国とカナダで、世界の恐竜化石の80%を算出している、という数字を見たことがある。とにかく大発見の宝庫なのである。なのに、論文を書いてくれない。[;_;]
恐竜学界の学説は、3年と持たない、と、既に紹介した。たったひとつの新発見の化石で、それまでの理論大系が崩壊することなど、珍しくもない。それは恐竜学の宿命である。ただ、苦労して書き上げた自分の論文を無価値にしてくれた、その化石が、自分が論文を書いた後に発見されたものだったら、それは諦めがつく、いや、諦めなければ仕方が無い。ところが、それが、自分が論文を書いた時より30年も昔に発掘された化石が、今頃になって発表されたものだったとしたら、あなたは冷静でいられるかね?(ふと、米国得意のサブマリン特許を思い出してしまった。[;^J^])
何故こんなことが起るのか? 我々企業人の常識では、パテントの出願は分秒を争う。科学の世界でも、論文の発表レースは普通のことではないか、と、金子氏に訊ねたのである。返ってきた答えを要約すると、
等など、これでは納得せざるを得ない。[;^J^] この倉庫に眠っている化石の山の中には、従来の学説を根底から覆すものが埋まっているのかも知れないのである。それが日の目を見るのはいつの日なのであろうか?
恐竜の卵の化石も含めて一通り見学したのち、董教授の研究室に案内される。さほど広くもない部屋に、足の踏み場も無いほど、化石やキャストが置かれている。董教授の専門である剣竜の頭蓋骨や足跡の化石などが、特に目につく。勿論ツーショットを撮ってもらう。ミーハーするべき時はする。[^J^]
(fig.87)われながら、目がイッてしまっていて恐いのだが [;_ _]、これは照明の悪戯である。悪戯であるに決まっている。[;^.^]
教授の研究室でまともに扇風機の風を浴びた私は、お約束のトイレに向かう。[;^J^] 内装はほぼ完成しており、あとはキャストを組むのに手間がかかるだけだ云々と言う話を聞いていた私が、この建物のトイレの状況を楽観視していたことを、非難出来る人はいないはずである。[;^J^] しかしやはり甘かった。鍵はかからず(他に誰もいなかったのだからこれはどうでもいいが)、紙は無い。状況を確認した私は、ただちに董教授に紙の件のヘルプを頼む。すると一瞬、間があって、ああそうかそうかと言う感じで、紙をくれたのである。この時点でようやく、紙を持たずにトイレに行く方が非常識なのである、ということに気がついた。やっと中国のルールがわかったのであった。
16:45、IVPPを辞し、ホテルに帰る。私を除く日本組と李先生(またも書き忘れていたが、李先生以外の中国人メンバーとは、ウルムチの空港と、北京の空港と、二段階でお別れしている)は、ホテルの喫茶店でアイスコーヒーを。腹具合がそれどころではない私は部屋へ。[;^J^]
18:05、董教授との会食がセッティングされる。これは望外の事であった。助手の韓春雨博士も同席される。場所は、すぐ近くの大きな建物の中の中華料理店(清真料理では無い)。他愛も無い話から突っ込んだ話まで、和気あいあいと話し合いながらの食事なので、味の方の記憶は無い。覚えているのは、蠍の空揚げを食ったこと位である。日本語、中国語、英語が、等分に飛び交っていた。
印象的だったことを、2点だけ記しておく。まず、先述したオルシェフスキーの仮説(鳥類が恐竜に進化した)について、金子氏が董教授の見解をただしたところ、「その仮説は聞いたことがある。面白い。が、学者達の半数は賛成し、半数は反対している。私としては、具体的な証拠に乏しい様に思える。今、その説に乗るのは、dangerous だ」とおっしゃった。“dangerous”というのは、董教授のお得意の言い回しで、「難しい」から「奇妙な」まで、すべてこの言葉で済ませてしまうのである。
もう1点、お約束の「絶滅仮説」に関する質問への回答。絶滅仮説は60通りもあると前置きされた上で、「進化が極端に進み、進化の袋小路に入り込んだ(いわく、長すぎる竜脚類の首、いわく、大きすぎる角竜の頭)恐竜は、環境(気候)の変化に耐えられずに、滅びていった、と考えるのが、もっとも妥当であろう」と。金子氏は呆然とし、私も驚いた。これは、それこそ60通りもの絶滅仮説中、最も古臭く、最も obsolete な代物ではないか。しかし私は判る様な気がした。董教授は、筋金入りの発掘屋であり、現場の人間である。やれ火山群の噴火だ、やれ彗星の衝突だ、という、けたたましくも華やかな論戦は、机上の空論と思えるのかも知れない。私はこの回答で、董教授のスタンス、思想、信条といったものが明らかになり、そしてそれはある意味で地に足の付いた、揺るぎない物なのである、という好ましい印象を受けたのであった。20:16、会食を終え、ホテルに辞す。
(fig.88)会食風景 (fig.89)会食風景。董教授、金子さんとのスリーショット。この写真も完全に色味が違うが、やはり他の方のカメラで撮影されたプリントを、あとからいただいたものだからである。
まだ宵の口ということで、金子氏と私は夜遊びをすることにする。タクシーで、ワンフーチンの繁華街へ。流石に大半の店は閉まっているが、マクドナルドなどは開いている。何と言うことも無い外観のブティック(日本ならば、街角ごとに転がっているタイプ)が、新装開店らしいので冷やかしてみると、おおー、Tシャツが130元! 日本円で1500円以上! 中国の物価感覚を日本の生活感覚に換算するには、元を円に換算して、さらに30倍すれば良い、と言うのが、この旅程を通じての経験則である。即ち、このTシャツは、日本人が日本のブティックで4万円のTシャツを買うに等しい。他の品目も、似たような物である。万元戸御用達の店なのであった。万元戸とは言え、そこでショッピングしているのは、少なくとも外見は、どこにでもいる様な、あんちゃん、ねーちゃんばかりではある。さらに東安門夜市の露店街をぶらついてから、既に時間も遅いが(ここは既に西域ではないので、“まともな”時刻に暗くなる)、もしかしたら開いているかも知れんと、友誼商店へ行く。少し遠いので、輪タクを使ってみた。要は人力車の自転車版である。15元を10元に値切ったが、あとから思うに、5元でも高かったろう。
それにしても思ったのは、北京は西域の都市と比べて、(新型の)自動車と自転車が圧倒的に多く、驢馬車は皆無、馬車も基本的には皆無(翌日、荷役の馬車を2台だけ見た)、小型トラクターも皆無、と、確かに近代的なのであるが、自分を運ぶ個人用の自転車はいいとして、客を運ぶ輪タク。これは西域の“遅れている”都市では、馬車がやっていた仕事であって、人間(御者)は、坐って、鞭打つだけだったのである。北京では、人間が汗水流して漕いでいる。これって、進歩しているんかいな? [;^J^]
友誼商店は、やはり閉まっていたので、朝9:00開店ということを確認し、タクシーでホテルに帰る。帰路、軍の移動を目撃。少なくとも30人の歩兵を乗せていると思われるトラックが、(最初から数えていた訳ではないので不正確だが)少なくとも100台以上、反対側車線を走って行った。半端な数ではない。これで重火器でも運んでいれば、すわ、北朝鮮に何かあったか?と色めきたつところであったが、まぁ演習か何かであったのであろう。
22:15にホテルに帰り、まだ寝るには早いと、T氏を部屋から呼び出して、3人でホテル1階のバーで飲む。金子氏とT氏はカクテルを飲むが、「レシピが違う〜」。私はオールドパーのダブル。ここも結構なお値段で、カクテル30元、ウィスキーはダブルで60元。普通の中国人が来れる店ではない。あそこでバーテンのあんちゃんと駄弁っている、バーテンの仲間らしき男女は?「まず間違いなく、党幹部のドラ息子たちだね」と金子氏。なるほど。
7月29日、帰国の日である。もう消化すべき予定は何も無い。8:00過ぎに1階のレストランで洋風の朝食を食べ、9:00に金子氏、T氏、金子氏の友人の中国人のマオ氏と4人で、ショッピングに出かける。
まずタクシーで友誼商店へ。金子氏、T氏は、土産のノルマがこなせない(案外品ぞろえが乏しい)ことをぼやきつつ、化粧品や薬品、ロイヤルゼリーなどを買い込む。私は、トルファンで買い損ねたトルファンのワインも、新彊のワインも置かれていないので、がっかり。1000年以上の歴史を持つ葡萄の産地に出かけて、そこのワインを味わい損ねたのが、この旅で残した唯一最大の悔いであった。
10:30にルーリー・チャンに着く。書籍、美術品、その他もろもろの商店街?である。まずトイレに駆け込む。[;^J^] ついにノウハウを会得した私は、この日はティッシュペーパーの箱を持ち歩いていたのだ。これでもう怖いものなしである。すっきりしたところで書籍を漁る。新刊書店とは言え、全体に神保町の雰囲気が漂う街であるが、さればこそ、フリで飛び込んで掘り出し物が見つかる訳もない。ここはじっくり腰を据えて渉猟すべきところだなぁと痛感しつつも、画集を2冊買う。合わせて150元にしかならない。2000元以上も余っているというのに。[;^J^] これが買い物アニマル(死語の世界)日本人というものか、と、実感する。
11:30にルーリー・チャンをタクシーで発ち(余談だが、ルーリー・チャンの中心付近にある歩道橋は、ものの見事に誰一人として利用していない。歩行者は、かなりの交通量のある車道を、ひょいひょいと鮮やかに横断して行く。この“見切り”の感覚は、ついに会得出来なかった)、15分後にホテルに到着。12:30にホテルを発ち、13:10に空港着。もうあとは、物語は何も無い。
15:08離陸、20:20成田着。そこは灼熱地獄であった。
Last Updated: Oct 1 2013
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