ブラック・ジャック 19


*医者はどこだ!

 大実業家で勢力家のニクラ氏の不良息子、アクドが、自業自得の自損事故で致命傷を負った。金の力で治してやる!とばかりに世界中の名医を捜し回って、白羽の矢がたったのが、ブラック・ジャック。彼の診察によると、治すためには、使えないパーツ(内臓など)を取り替えるために、犠牲になる人間が必要だ。

 ニクラ氏は、警察も裁判所も手足のごとく操る。仕立屋のデビイが、犠牲者に選ばれた。身に憶えのない、アクド殺害未遂容疑で逮捕され、死刑判決。かくして合法的に殺されることになったデビイは、ブラック・ジャックの手術室へ。

 二ヶ月後、最後の包帯が取れて、全快したアクド。感激するニクラ氏。しかしアクドは、たちまち病院を脱走してしまう。彼が向かった先は、デビイの家。彼はデビイの母に、自分のハサミさばきを(母の目には見間違いようの無い、特徴的なハサミさばきを)見せ、自分がデビイである、ということを納得させた。つまり、ブラック・ジャックは、アクドの手術はせず、デビイをアクドそっくりに整形手術しただけだったのだ。ふたりはブラック・ジャックの助言に従い、ブラック・ジャックから餞別として渡された(ニクラ氏からアクドの手術料として支払われたのであろう)金を手に、国外に逃亡する。

 ブラック・ジャック・シリーズの、記念すべき第一作。

 このエピソードが印象に残っている人は、多いと思う。連載第一回だからということもあろうが、ここでの「問題解決法」が、スマートで鮮やかなのである。全身ズタズタの致命傷を負った少年を「奇跡的な腕前で治す」のではなく、その少年は(治す値打ちも無いので)見殺しにして、(それどころか、カモフラージュのために、死体をバラバラに分解して..(アクドが既に死んでいたことを祈りたい..))もうひとりの少年に、精密な整形手術を施すことによって、死ぬべき人間は死なせ、救われるべき人間を救った。

 単に奇跡的な手術の腕前をみせるのは、いわば力業に過ぎず、(後年のブラック・ジャック・シリーズには、実はこのパターンのエピソードも少なくないのであるが、)ここで見せた頭脳プレーは、彼が「天才外科医」であるという設定故に、ますます生きる。

 ここで、ブラック・ジャックがニクラ氏から手術料を受け取ったのは、明白な「詐欺」である、と感じる人も、多いかも知れない。ま、それはその通りだろうが、彼はその手術料をデビイ母子に贈ったはずだから、それほどの「悪さ」はしていないと思うよ。(いくらか、ピンハネはしただろうけどね。[;^J^])

*人間鳥

 全国人力飛行コンクール。羽ばたき式や足踏み式の珍飛行機が競うなかに、優雅に滑空する、女性の鳥人が闖入してきた。作り物ではない。肩から先が、本物の翼なのである。地上に降りるとほとんど歩けない彼女は、つかまえようとする人々を振りきって、空へ。丘の上の家まで逃げのびる。

 そこには、ブラック・ジャックが待っていた。彼女の名は、イカル。薬害による先天的な障害者のイカルは、歩くことが出来なかった。ブラック・ジャックは、彼女の、空を飛んでみたい、という願いをかなえたのである。


「私があなたのからだに埋めこんだのは、ほんの補助用の人工筋肉だ。
 −−あとはあなたが死ぬほどの訓練が必要なのだ」

 ハム・エッグが、盗み聞いていた。鳥女は整形手術ということを知った彼は、ひとりになったイカルに、サーカスで稼ごう、と、持ちかけるが、逃げられる。追っ手を動員するハム・エッグ。そして銃弾が!

 彼女を救出したブラック・ジャックは後悔して、見せ物にされるような体から、元の体に戻してあげようと告げるが、イカルは..どうせ障害者は健康な人間に見てもらえない、人間には戻りたくない、いっそ、鳥にしてくれ、翼の生えた人間よりは、かえって人に気づかれない..

 もう人間には戻れないということを覚悟したイカルに、ブラック・ジャックは大手術をほどこして、イカルを鳥の姿にし、そして彼女は山へ..

 異色作である。これほど荒唐無稽な手術は、ほとんど例がない。(幽霊や宇宙人を手術したことはあるのだが。)また、この作品世界(というか、ブラック・ジャックとイカルの世界)は、ほとんど「人間社会」と接点を持たない。(「人力飛行コンクール」や「ハム・エッグ」「追っ手」などは、彼らの世界への闖入者というよりは、むしろ「背景」「遠景」に見える。)孤独感が漂う夢のような幻想世界..それは、イカルの心情の映し絵であろうか。

 社会との接点は持たないとはいえ、このエピソードあたりから、ブラック・ジャックの過去(背景)が導入され始める。顔の怪我。車椅子の記憶。そして、母..

*恐怖菌(原題 死に神の化身)

 3人の男が、ブラック・ジャックを迎えに来た。目隠しされて連れて行かれた先は、海辺の施設。そこには、ドクター・キリコも呼ばれていた。手に負えない患者は迷わず安楽死させてしまう、「死に神の化身」だ。なぜ、彼がここに?

 沖には、行方不明になっていた「あしゅら丸」。ベトナム戦争で沖縄から米軍の戦略物資を運んでいた輸送船だ。それが、漏れだした細菌兵器で汚染されていたのだ。隔離されていた3人の患者の皮膚には、激烈な炎症が..全身の皮膚の汚穢、出血のただれ、等々..その症状は、デング熱にも似ているが..

 伝染病や皮膚病は、ブラック・ジャックの専門ではないのだが..キリコの診断では、全く新種の細菌であり、だから根治療法はないのだ。このことがニュースにもれたら、国民はパニックに陥り、ベトナム戦争に荷担した政府への批判が噴出する。だから、治せなければ患者を殺し、船も始末して闇から闇に葬り去るのが、政府の意志なのだ..

 ブラック・ジャックが手をこまねいていれば、キリコが彼等を安楽死させてしまう。やみくもに手術するブラック・ジャック。皮膚の移植、腫瘍の切除..そのかいあって、一週間目には容態が好転し、治る希望がほの見えてきたが..しかし政府の役人たちからは、突然、キリコに切り替える、との指令が下る。政府は、3人を抹殺することを決定したのだ。憤懣やるかたなく去るブラック・ジャックに、あとはまかせろ、とキリコ..

 しかし患者たちの姿はなかった。ブラック・ジャックが脱出させたのだ。沖合のボートだ! 役人たちは、彼らを追おうとして崖から転落し、瀕死の重傷を負う。キリコの診断では、もう手遅れ。しかしご安心を。すぐに楽になりますから..

 物語の構造としては、クライアントが殺し屋を雇ったものの、それが裏目に出て、その殺し屋に殺されるはめになる、という、シンプルで解りやすいものであるが、この短編は、もっと大きな問題をはらんでいる。それは..この患者たちはどうみても、放射能を被曝したように見えることである。

 初出誌では、タイトルは「恐怖菌」ではなく「死に神の化身」だった。そして全集版とは、いくつもの重大なネーム(セリフ)の違いがあるのである。

 まず、問題の船は、「あしゅら丸」ではなく「原子力船 ムツゴロー」だった。そして乗員の事故の原因は、米軍の秘密細菌兵器による汚染ではなく、沖合で原子炉から漏れだした放射能灰だったのである。つまり、伝染病ではなく放射能症だったのであり、政府が恐れていたのは、ベトナム戦争で細菌兵器の輸送に荷担していた事実がばれることではなく、原子力船の欠陥がばれることだったのである。

 この変更が、「原子力船 むつ」の乗組員ら、関係者の心情に配慮したものであることは、間違いない。同時に、「原子力船(核燃料の平和利用)」という、イデオロギー的にも微妙な問題を回避して、「細菌兵器」という、誰にとっても「悪」でしかない存在を、「敵」に据え直したのである。

 仮に、初出誌の形のままで全集に収められていたとすると..今となっては、(「放射能漏れ」と「臨界事故」の違いこそあれ、)東海村の事故と、その犠牲者を想起しない読者は、恐らくひとりもいないだろう。しかもなんたる暗号か、入院した人数まで一致している..

 ブラック・ジャックの宿命のライバル、ドクター・キリコは、このエピソードで初登場。

*こっぱみじん

 泥沼戦争の敗戦間近い某国。首都陥落は目前である。一足先に脱出した大統領夫人からの依頼は、夫がいつ負傷しても、その場で治して欲しい、というもの。ブラック・ジャックは「こっぱみじんにならない限りは、治す」、という条件付きで、引き受ける。

 その大統領は、既に錯乱状態に陥っていた。強迫観念による拒絶症。もう治らないか..彼の息子のギューは、ブラック・ジャックに、父を助けないでくれ、と頼む。父が死ねば、国民は救われる。金をもらっているからねぇ、というブラック・ジャックに、唾を吐きかけるギュー。

 戦争孤児をアメリカに運ぶ飛行機が墜落した。150人が死に、40人が重体。どこの病院も満杯なので、ブラック・ジャックは怪我人たちを宮殿に運び込ませる。激昂した大統領はブラック・ジャックを殺そうとするが、そこに飛び込んできたギューは、大統領を爆殺する。

 宮殿の治療センターに運び込まれた40人の子どもたちは、大統領から“賜給”された肉体を使って、可能な限り形成手術される。ブラック・ジャックは、大統領が死んだことを大統領夫人に知らせる。契約違反ではない。「こっぱみじんにならない限りは、直す」、という契約だった。大統領は、こっぱみじんになってしまったのである。およそ40の破片に..

 「敗戦目前」という、ある種の極限状態における、荒々しいエピソード。

*望郷

 樫山半島沖合3キロの、長さ2キロほどの猫生島。通称要塞島。一部がコンクリートに包まれた、鉱山の島だからだが..いまや無人の、死の島であった。海に流された有毒物質による公害病が蔓延し、今から3年前、政府からの指令で炭坑は閉鎖。住民は島から退去させられたのであった。

 その島に渡ろうとする少年。両親が公害病で死んだとはいえ、この島が故郷なのだ。ブラック・ジャックは、彼が島に渡らないよう、引き留める。行きがかり上、彼の両親から、工場からの慰謝料を学資として、毎月、少年に渡すよう、頼まれていたからだ。

 危険を犯して島に渡ったブラック・ジャックは、既に、島に猫が帰ってきていたことを知った。3年のあいだに、海が有毒物質を洗い流していたのだった。ブラック・ジャックは少年に、残りの金を全て渡すと、島に渡りたければ渡れ、しかし渡ったが最後、なんとかして生き抜け、と、告げて去る。

 これほどの有害物質が、3年かそこらで除去されてしまうかどうかはともかくとして。少年がたったひとりで島に渡ったとしても、どうやっても生き延びられないと思いますけどねぇ..いずれにせよ、ブラック・ジャックは、ここでは、ただの行きずりの傍観者に過ぎない。

 「要塞島」は、明らかに「軍艦島」をモデルとしている。長崎港外の炭坑の島で、正式名称は端島(はしま)。1974年1月の閉山で無人のゴースト・タウンと化したが、最盛期には年産約25万トンの石炭を産出し、1965年の人口は5058人を数えたとのこと。

*戦場ケ原のゴリベエ

 舞台は日光。テントの中で眠っていたハイカーを襲う猿! 彼の名はゴリベエで、戦場ケ原一帯の、元のボス猿だったが、今は群から追われてメスと一緒に住んでいる。いつしか人間の食料、とりわけミルクの味を覚えたのだ。

 遠足をしていた親子連れも襲われ、子どもの指が食いちぎられた。そこに通りかかったブラック・ジャックは、指をつなげる手術を請け負う。300万。

 戦場ケ原までゴリベエを仕留めに行くハンターと、同行するブラック・ジャック。彼もゴリベエを仕留めるつもりなのだ。ハンターは、ゴリベエをおびき寄せるためにエサを並べるが..狡猾なゴリベエは、雷が鳴り始めるのを待って、襲ってきた。落雷を恐れて既に銃を捨てていたハンターの顔に一撃を食らわせたが、ブラック・ジャックが投げたメスを腹に受け、逃げる。あとを負ったブラック・ジャックが発見したのは、巣の中で幼子を抱えてうずくまるゴリベエと、ミイラ化した雌猿であった。雌猿の死体には、猟銃の弾痕が。身重のメスが重傷のまま、子ザルを産み落として死んだのであろう。子どもを育てるために、ゴリベエは牛乳が欲しかったのだ。ブラック・ジャックは傷の手当をしてやる。

 一週間後、車を走らせていたブラック・ジャックの前に、まだ傷の癒えないゴリベエが現れて、彼にメスを返したが..その直後、ハンターに射殺されてしまった。ブラック・ジャックの憤激。

 人と野生動物の共存問題。どちらが加害者でどちらが被害者か。

 しかしここでは、確かに山の中を道路が縦断し、ハイカーやキャンプの客たちが入り込んでいるとは言え、「自然破壊に追いつめられた獣たち(あるいは“自然”そのもの)の反撃」、とは、読めない。そういう、単純な図式に頼っていないが故に、人間対猿の戦いの様相は、いっそう普遍的で、厳しい。

*音楽のある風景

 来日中の世界的な外科医、D国のチン・キ博士の公開手術の見学に、ブラック・ジャックも招かれた。博士の素晴らしい技術に息を呑む、ブラック・ジャック。風変わりなことに、博士は手術中、音楽を鳴らし続けているのだった。(ここでは、ビートルズのレット・イット・ビー。)

 病院から出るブラック・ジャックは、博士に呼び止められた。ブラック・ジャックは、博士が来日した目的は、彼の手術を見学することであったと聞いて、恐縮しつつも博士を車に乗せる。車中、ブラック・ジャックは博士に聞く。手術中、いつもああして音楽を? 博士は、ビートルズに限らず、クラシック、ジャズ、フォーク、なんでも聞くのだ。D国では、そんな音楽は..そもそも自国の音楽以外、外国文化のほとんど全てを、国策として追放しているのだが..

 若い頃から音楽好きで、外国からレコードを買い集めていた博士は、数年前の布告で、レコードを全て没収、廃棄されてしまったのだった。そして本も、映画のフィルムも。自国の作曲家の愚にもつかない音楽しか聴くことを許されない日々。それ以来、密かに外国人からレコードを分けてもらい、秘匿していた。それを聴くためには、手術室を防音にして、患者を眠らせ、自分ひとりで手術するあいだに、レコードをかけるしかない。そして、今では音楽を聴かないと手術できない体になってしまったのだ..

 その時、D国の役人たちが現れ、ブラック・ジャックの車を止めさせた。博士の病院の地下室から、レコードが発見されたのだ。拉致される博士は、心筋梗塞を起こす。博士の願いに従って、ブラック・ジャックは、博士自身を患者として、その手術の腕前を見せることになる。手術室でブラック・ジャックがかけたのは、モーツァルトのレクイエム..

 音楽好きの手塚治虫らしいエピソード。「手術中にしか、秘匿したレコードを聴けない(手術中であれば、秘密は漏れない)」という基本設定に、少々無理があるように思えるが、気にするほどのことはあるまい。

*闇時計

 舞台は、白人支配時代の南ア。貧しい黒人少年が、手術代としてブラック・ジャックに支払ったダイヤモンドの原石。少年はそれを、廃坑の中から拾ったのだが..このことを嗅ぎつけた悪者(白人)に、ブラック・ジャックの車はカージャックされ、少年に銃で怪我を負わせた悪者は、少年を車に乗せて、その廃坑に案内させる。

 廃坑の中。落盤。闇の中に閉じこめられた3人。毎朝きっかり7時に、この穴の前を猟師が通るから、その時に大声で叫べば、気づいてもらえるだろうが..マッチもライターも無いのにどうやって時間を知ることができる?

 パニックを起こす悪者をよそに、ブラック・ジャックは落ち着いて寝ている。脈の数を数えて、翌朝7時の時刻を知ろうというのだが、悪者は、何万何千も数えていられるか!と、暴れる。ブラック・ジャックは、少年の傷を手当てしたために、脈の数がわからなくなってしまった。あとは勘だ。悪者は水を求めて奥に行き、縦穴に転落してしまう。

 翌朝、ぴったり7時に目を覚ましたブラック・ジャックは、少年を起こして、ふたりで大声で叫び、それが外を通りかかった猟師の耳に届いて、ふたりは助かった。誰が時刻を教えてくれたのか? それは、ブラック・ジャック自身の生物時計だった。

 ゴルゴ13シリーズの小品、「メリエスの猫」が、このエピソードに似ている。そこでは、時刻を教えてくれたのは、猫の瞳の大きさであった。

*カプセルをはく男

 飛行機の中で、突然具合の悪くなった男。しかし何故か、診療を拒否する。隣席のブラック・ジャックは、彼に麻酔をかけて黙らせる。ブラック・ジャックは、空港のトイレで、その男が大量のカプセルを吐いていたところにも来合わせた。非溶解性のカプセルである。男は、医務室に連れて行かれることを拒否し、男の言葉に従って、ブラック・ジャックは、彼を甲川医院に連れて行く。

 彼は甲川医師に、カプセルを突きつける。内容を調べたのだ。純粋のモルヒネだった。麻薬の密輸をやっていたのだ。別に恐喝するつもりも、警察に通告するつもりもない。


「医者の肩書きを利用して麻薬でもうけているやつが、
おもてむきどんな善人づらしてるか見たくなっただけさ!」

 甲川はゴロツキを使ってブラック・ジャックを監禁する。

 甲川は町の名士だった。今日もまた、小学校にテレビを寄付し、感謝の拍手を受ける。彼の娘もパパが自慢だ。彼のおもての顔は、よき家庭人であり、善人なのだ。その裏で、彼はブラック・ジャックを始末することを、手下どもに指示するが..

 三日目。衰弱していたブラック・ジャックは、事故死に擬装して殺されるところを逆転し、死地を脱して、甲川医院へ。手術中の甲川医師に、手術が終わるまで、居間で待たせてもらうぜ。ブラック・ジャックを始末し損なったことを知った甲川医師。すぐに警察が踏み込んでくるはずだ。モルヒネの隠し場所に困り、いつも手下にやらせているように、腹の中に隠すが..モルヒネのことも密輸のことも知らない助手が、カプセルが不水溶性であることを訝しみ、念のため、水溶性のものに取り替えていたのだった。

 飛び込んできたブラック・ジャック。しかし手遅れだ。甲川医師はブラック・ジャックに詫び、何か町につくして、名を残したかったのだ、と、心情をうち明ける..名を残すためには、寄付、寄付、寄付! 金が足りない。そのために、麻薬の密輸に手を出したのだ。ブラック・ジャックは、甲川の頼みを聞いて、彼の娘には、このことを伏せておくことにする。父の犯罪も、その死も知らずに帰ってきた娘は、


「こないだのおじちゃんね! パパんとこへあやまりにきたんでしょ。パパがえらい人だってこと、わかったでしょ!!」
「ああ……、町のためにつくした、りっぱな人だよ」

 どうも、甘い。釈然としない。

 犯罪者だからといって、必ずしも断罪しないのが「ブラック・ジャック」という作品であるが、多くの場合、それは、その(犯罪者の)弱い立場故、あるいは彼の敵の強大さ故、またはおのれの余命の足りなさからくる時間的切迫感故に、犯罪者が犯罪に走る(犯罪に走らざるを得ない状況に追い込まれる)必然性があってのことである。このエピソードは、違う。この医者の犯罪の動機は、純然たる名誉欲である。結果的に(楽器の寄付などの)良いことをやっているのは確かだが、それは彼にとって、手段に過ぎなかったのだ。彼の幼い娘に真相を(自分の口からは)告げない、というブラック・ジャックの行動自体には、(“逃げ”だとは思うものの)問題を感じないが、「りっぱな人だよ」とまで言うのは、行き過ぎだ。あまりにも口先だけではないか。「後味が悪い」とは言わないが、妙に引っかかる。

*話し合い

 無理教諭。(「無理」という姓なのである。)彼は番長の〆沢一味に、どれほど暴力を振るわれても、無抵抗主義の話し合い主義を変えなかった。校長は、〆沢を退学処分にしようというのだが。

 同窓生のブラック・ジャックが、彼を訪れた。12年前、本間医師が無理に施した手術の代金を払えというのだ。借金取りならうちへ回れ、と、無理は放課後までブラック・ジャックを待たせるが、彼はその日、〆沢たちに半死半生のリンチを受けた。ブラック・ジャックは、そんな先公の一ぴきや二ひき死んだって、という〆沢の喉にメスを飛ばし、死ぬほどの痛みを味わわせた上で、無理と、〆沢の治療をする。

 病院で、ベッドを並べた無理と〆沢。〆沢は死の苦しみと恐怖にうなされている。無理はブラック・ジャックに語る。12年前、手のつけられないヤサグレだった自分が、なぜ教師になったのか。

 教師いびりをスポーツ的に楽しんでいた自分に、ただひとり、どんなに痛めつけられても対等に話しかけてきた先公がいた。そいつを半殺しにするために陸橋の上に呼び出して、もみ合っているうちに墜落し、ふたりともトラックにはねられて、病院にベッドを並べて入院した。自分は5日間生死をさまよい、生まれて初めて死の恐怖を味わった。その教師は、事故の原因を誰にもひとことも話さず、二週間後、彼に笑いかけながら、死んで行ったのだ..彼は何ヶ月も考え..12年後、教師となって、特に質の悪い学生のいそうな学校に赴任することにしていたのだ。あの死んだ人のように、どのぐらいギリギリまで話し合いで説得できるか、ためそうと。彼らに殺されるはめになっても、笑って死にたいと..いつのまにか意識を取り戻し、ひそかにその言葉を聞いていた〆沢。死なれてたまるか、手術代を払うまでわな、と、出ていくブラック・ジャック。

 15年後。〆沢教諭は、学生の質の悪さでは評判の学校へ、赴任していくのだった。

 現在の「学級崩壊」の実態は、知らないのだが..いつの時代にも通用するであろう、感動的なエピソード。真の教育が、命がけの教師から不良生徒へと、代がわりしつつ、伝えられて行く..


*手塚治虫漫画全集 366

(文中、引用は本書より)


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 19 2000 
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