*2009年06月22日:「新・幻想と怪奇」
*2009年06月23日:所要時間を明示しよう
*2009年06月24日:アクションを明示しよう
*2009年06月25日:需用について
*2009年06月26日:マイケル・ジャクソン、死す/ゴマラン・ブラス
*2009年06月27日:「人志松本すべらない話」
*2009年06月28日:「大改造!! 劇的ビフォーアフター」
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*2009年06月22日:「新・幻想と怪奇」


 通勤経路であるところの、舘山寺街道の狸坂の下の「松菱マート」が、いつの間にか「MAX VALU EX」になっていた [;^J^]。今頃気がつくのもアレだが、外装もガラス越しに見える内装も、パッと見、同じだし、変わったのは看板だけだし..ふつー、看板なんか見ねーよ![;^.^]

 「新・幻想と怪奇」(仁賀克雄・訳編、ハヤカワ・ミステリ)を読了。基本はホラーと「奇妙な話」だが、SF系のテイストがやや濃いめである。個人的に最も面白かった作品が、古き良きユーモアSFである「思考の匂い」(シェクリイ)だったので、この爆笑作の印象に引っ張られているということはあるかも知れないが。

 「スクリーンの陰に」(ロバート・ブロック)は、(過去の複数の)映画の中を渡り歩いて生き続ける人々というセピア色の [^.^] アイデア。類似例はいくつか思いつくが、どれが最初なんだろう?(調べようとまでは、思わない。[;^J^])「射手座」(レイ・ラッセル)が、思わぬ力作。ジキルとハイドにジル・ド・レエ、切り裂きジャックまで組み合わせた、闇の歴史を語る。「銅の鋺」(ジョージ・フィールディング・エリオット)は、高橋葉介の作品(「ライヤー教授の午後」か「夢幻紳士」)で読んだ記憶がある拷問ネタ。(台に縛り付けて腹の上に鼠を乗せて重いお椀で閉じ込め、外から火で炙る。鼠は苦し紛れに腹を掘って潜り進む。)これが元ネタなのかなぁ。「ジェリー・マロイの供述」(アンソニイ・バウチャー)は、人格を持つ腹話術人形の物語。これも同案多数。「ミステリーゾーン」に似たようなエピソードがあったような気がする。「万能人形」(リチャード・マシスン)は、手に負えない悪戯をする子供の物真似をする完璧な人形(ロボット)。災厄が二倍になった両親は、合理的な解決手段を取る。「マーサの夕食」(ローズマリー・ティンパリー)は、訳編者が高く評価しているのだが..タイトルを見ただけで(本文を読むまでも無く)結末まで判ってしまったんですが、これって、悪いのは僕ですか? [/_;][;^.^] 同じ作者の「レイチェルとサイモン」の方が面白い。幻想の子供を描くオーソドックスな作例。

 「奇妙なテナント」(ウィリアム・テン)は、存在しない13階ネタ。もしかすると「悪魔と三つの願い」並みに同案多数(同案無数)のアイデアなのではなかろうか。それほどでもないか。類似例の中では(流石はウィリアム・テンというべきか)面白い方である。「悪魔を侮るな」(マンリー・ウェイド・ウェルマン)は、第二次世界大戦中の東欧の古城を舞台とする、ドラキュラ(&狼軍団)対ナチス、という、例のパターン。(勝負はハナから決まってるが。[;^.^])「闇が遊びにやってきた」(ゼナ・ヘンダースン)、「こまどり」(ゴア・ヴィダール)も、悪くない。

 「ひとけのない道路」(リチャード・ウィルスン)は、前半の、道路からも街からも自分以外誰ひとりいなくなってしまう、孤独で不気味で悪夢のようなドライブ風景は素晴らしいのだが、それに(SF的な)“説明”が与えられてしまう結末が、いまいち。それにこの作品は、一部、翻訳がおかしい。不安に苛まれながら、無人の道路を走り、無人のガソリンスタンドに立ち寄り、また、無人の道路を走り、無人の食堂に立ち寄り..というのが、前半の展開なのだが、途中で一箇所、主人公の「位置」が、ガソリンスタンドにいるのか、道路を走っているのか、あるいは回想シーンの中なのか、わからなくなるのである。(そのパラグラフを10回ぐらい読み返したのだが、未だに釈然としない..)“そういう効果(読者に与える不安定感)”を狙った作品ではないのだから、訳文の重大な欠陥と言わざるを得ない。(仮に原文が(そういう)悪文だったのだとしても、それをバカ正直に日本語にマッピングする必要はないと思う。)

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*2009年06月23日:所要時間を明示しよう


 朝、土砂降り。こういう天気、嫌いじゃないよ。(濡れない安全圏にいる限りはね。[;^J^])

 仕事中に他人に話をしに行くとき(いわゆるホウレンソウ(報告、連絡、相談)ですね)、予めアポを取っていた場合は別として、私は必ず、「2分間、時間をいただいてよろしいでしょうか?」のように、相手を拘束する時間を告げることにしている。まぁ、ふたことみことで終わるような、本当に短い用件の場合は省略することも多いが、おおむね20秒以上、相手を拘束する見込みがあるときは、必ずこれを行う。こうすると、相手が、作業予定が立つ(あるいは覚悟を決められる(あるいは諦めがつく [;^.^]))ので、時間を割いてくれやすくなるのである。

 ひどく当たり前のことだと思っていたのだが、実は、これが出来ない人が少なくない。いきなり話しかけられるのはともかくとして、その話が、あとどれだけ続くのか判らないようでは、こちらの作業の手の止めようがない。だから私は誰かに話しかけられたら、先手を取って、「何分かかる?」と聞くことにしている。具体的な数字が返って来ない場合は(無駄話をしにきたとみなして)リジェクトしたいところであるが、例えばそれが上司だったりするわけである。[;_ _][;^.^]

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*2009年06月24日:アクションを明示しよう


 昨日とちょっと似た話。

 ミーティングの最後には、必ず「各自の」アクションを確認する。基本中の基本だと思うのだが、驚くほど多くのミーティングで、これが守られていない。なんとなく曖昧に終わってしまうので、次回までに誰が何を責任を持って行うのか、わからない。(こういう場合は、まず間違いなく何も行われない。)話にならない。

 かくいう私も(エラそうなことを言っている割には)「確認」を忘れてしまうことはあるのだが m[;_ _]m、つとめて、「では、その件については、私が来週月曜日の朝9時までに資料をまとめてAさんに渡します。遅れそうな場合は、今週木曜日の定時までにAさんに一報しますので、その時に相談しましょう」、とか、「では、その件については、Bさんにバトンを渡しましたので、Bさんの作業結果を待ちます。私は作業を止めます。手を離しました。よろしいですね?」、とか、確認することにしている。

 特に後者の、「私は手を離しますからね!?」、というのは、私のお得意の言い回しである。相手に対して、このあとは自分がアクションを取らなければ事態は進行しないのだ、という責任を自覚させるための言い回しであるが、これをどこで憶えたのかと言うと..実は、「宇宙戦艦ヤマト」なのである [;^J^]。それも映像版ではなく、松本零士による最初の単行本(全1巻)である。

 操縦席に座る、古代と島。どちらが主操縦席でどちらが副操縦席だったのか忘れたが、とにかく、一方が一方にヤマトの制御を渡すシーンがあった。そのとき、一方が、「よし、こっちにわたせ」..それに答えてもう一方が、「よし、こっちは離したぞ」、と、両手を広げる..

 名場面でもなんでもない、ほとんど日常風景に近い、全くなんということもないシーンなのだが..妙に記憶に残ってしまい、今でもこの言い回しを、仕事で多用しているってわけなのさ。[^J^](「人生で必要なことは、すべて漫画から学んだ」ってか? いやいや、そんなことはないけどさ。[;^.^])

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*2009年06月25日:需用について


 火曜日深夜(水曜日早朝)の「浜ちゃんが!」という番組が、結構好きである。「芸能人が私物を売る」というゲームと「芸能人が日用品を買う」というゲームを交互に行うのだが、面白いのは前者である。どういう私物(想い出の一品)を持ってきたのか、という興味もあるが、それよりも、それに対する(プロのバイヤーの)値付けが面白い。

 どんなに稀少な、珍しいものでも、「それを買いに来る客がいなければ、価値がない」のである。たとえば、ある女性歌手が「実は私、誰も知らないけど、昔は眼鏡をしていたんですよ〜♪」、と、その眼鏡を持ってきても、高々2千円にしかならない。なぜなら、そういう事実(眼鏡をしていた)が知られていないので、それに対する需用がないからである。逆に、さほど珍しいものでなくても(数十万人の)ファンの誰もが知っていて、彼らの多くが欲しいだろうと思われるものには、結構高値が付いたりする。

 当たり前のことではあるが、ヤフオクに「何を」出品すべきかの参考にもなるのであった。(近頃、出品しとらんけどね。)

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*2009年06月26日:マイケル・ジャクソン、死す/ゴマラン・ブラス


 マイケル・ジャクソン、死す。午前中は情報が錯綜していたが、午後にはほぼ確定した。死因はまだ不明だが、事件性は無いとのこと。昔から、極端な少食&薬漬け(麻薬にあらず)だったらしいので、もう、ボロボロになっていたのかなぁ。享年50歳。私と同い年だということに、今頃になって気がついたが..

 ..合掌。

 午後は半休をとり、夕方から街中へ足を運んだ。

浜松音楽友の会 四季のコンサート
ゴマラン・ブラス CONCERT
2009/06/26 18:45 浜松教育文化会館

第1部
 五重奏曲(ガブリエリ)
 歌劇「ナブッコ」序曲(ヴェルディ)
 歌劇「トゥーランドット」より“誰も寝てはならぬ”(プッチーニ)
 歌劇「ラ・ボエーム」組曲(プッチーニ)
 歌劇「アイーダ」より“凱旋行進曲”(ヴェルディ)

第2部
 ウエスト・サイド・ストーリー抜粋(バーンスタイン)
 SF映画メドレー
  (2001年宇宙の旅 〜 スーパーマン 〜 スタートレック 〜 アルマゲトン 〜 未知との遭遇)

 オーバー・ザ・レインボウ(アーレン)
 リベルタンゴ(ピアソラ)
 シング・シング・シング(プリマ)
 ルパン三世のテーマ(大野雄二)

 イタリアのブラス・クインテットであるが..素晴らしい! 午後半休を取って聴くだけの値打ちはあった!

 技量も見事なのだが、後述するように空間の使い方が上手いのと編曲の妙もあり、室内楽どころかほとんどオーケストラ的なスケール感を感じる瞬間もしばしば。

 エンターテイナーとしても一流である。回り持ちのMCでのギャグ(イタリア訛りの英語で、時々イタリア語も混じる [;^J^] ので、全部は聞き取れなかったのだが)と寸劇。前半の歌劇の全てとウエスト・サイド・ストーリーについては、いちいちカンペを見ながら粗筋を説明してくれたのだが、内容は毎回似たようなもので、「シンプルなストーリーだ。ソプラノとテノールが出会って、誰かが死ぬ」とか「シンプルなストーリーだ。ソプラノとテノールがベッドインして、誰かが死ぬ」とか。[;^.^]

 チューバは多くの場合座っているが、トランペット2人とホルン、トロンボーンは立って奏するので、どのようにでも動ける。“誰も寝てはならぬ”の中間部では、舞台後方に下がり、後ろ向きになって奏して距離感を出し、“凱旋行進曲”では、「新幹線に乗り遅れる」という理由で先に帰ってしまった [;^.^] トランペット2人が、舞台裏でファンファーレを吹き始め、残った3人を安心させる。(この2人はこの曲の後半では客席後方に移動して吹き、プチ・ベルレク状態になる。[;^J^])

 演奏中のアクションは、第1部ではこの程度のものであるが、第2部になると、もうやりたい放題で [;^J^]、リベルタンゴやシング・シング・シングでは、舞台上を歩き回りながらというよりは、走り回りながら、踊りながら、物凄いテクニックで完璧なアンサンブルを決めてくれる!

 堪能しました。[^J^]

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*2009年06月27日:「人志松本すべらない話」


 「人志松本すべらない話」は毎回見ているわけではないが、たまに見ると、確かにすべらない話が多く、感心させられる。昔は、「お笑い芸人は作りこんだネタで勝負すべきであって、実話で笑いを取るなんぞ、邪道外道!!」、という厳しい目で見ていたのだが、歳をとると、もう大概のことはOKOKになってしまいましてねぇ..[;^.^][;^.^][;^.^]

 今回、特に驚いたのは、益子卓郎(U字工事)が披露した「トンボ捕り」の話である。子供の頃、栃木の山で、トンボを捕るためにクルクルクルクルと指を回していたら、目を回したトンボの頭部がグググ〜っと傾いて、ポロッと落ちてしまったというのである! [;^.^] そして頭部を失ったトンボは、5秒後に飛んでいってしまったというのである! [;^O^]

 子供時代の想い出話だから、記憶違いあるいは目の錯覚という可能性ももちろんあるが、毎日虫取りをしていた少年が、脚をガクガクブルブルさせるほど驚いた(ことを憶えている)というのだから、事実なのだろうと思う。それにしても、こんなことが起こりうるのだろうか。トンボは、自分の意志(あるいは自分の意志の欠如)で、頭部を落とせるのだろうか。あの巨大な頭部は、実は物理的には不安定なものであって、目を回すなどの自律神経失調的な(?)事態が起こると、維持しきれないのであろうか。それとも、たまたま死にかかっている物理的にもボロボロだったトンボの頭部が、偶然そのタイミングで落ちたのであろうか。あるいは、「あんなものは飾りですよ、偉い人には(以下略 [;^.^])」なのだろうか。(それに比べれば、頭部を失ったまま飛び去った件は、脊髄反射的な現象として、まだ、理解(納得)できるように思う。)

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*2009年06月28日:「大改造!! 劇的ビフォーアフター」


 「大改造!! 劇的ビフォーアフター」という番組の存在は以前から知っていたが、見たのは初めてである。

 今回、取りあげられていたのは、建坪僅か9坪でありながら、1階は元店舗、2階は元下宿(従ってこの時点で出入り口が無駄に3個所もあり、そのうち2つを潰している)、風呂は元々無かったものを、隣家との1メートルの隙間に無理矢理建て増しして設置したので驚くほど狭い(トイレも、電車のトイレより狭い)。ここに夫婦ふたりと祖母、そしてもうすぐ子供が産まれる、という、非常に不便な家。

 これを、1200万円でリフォームしたところ、驚くほど広い風呂と便利な(バリアフリーな)トイレ(水回り)、茶室にもなる子育て空間、それにロフトまで付いた家になった。建坪自体は9坪なのだから、狭いには違いないのだが、快適さが天地ほども違う。コンパクトな生活空間が、合理的に実現されている。こういうのを見ると、(欧米風の)「広くて快適な家」が、バカみたいに見えてしまう。

 そう、実は私は、「狭い家」が、大好きなのであった。どこにでもすぐに手が届き、自分なりの小宇宙を組み立てやすいからである。部屋数は少ないに越したことはない..

 ただし、書庫は別腹である!(..また、わけのわからんことを。[;^.^])

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 2 2009
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