*2004年03月08日:人間ドック/カラスの死骸
*2004年03月09日:クラークのネタ その一
*2004年03月10日:クラークのネタ その二
*2004年03月11日:「地球さいごの日」
*2004年03月12日:ゴスロリとは
*2004年03月13日:「ストリップ芸大全」など
*2004年03月14日:「ユートピア」「戦艦大和ノ最期」
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*2004年03月08日:人間ドック/カラスの死骸


 年に一度の人間ドック。例年並みの結果。早起きして先頭からふたりめに並んだおかげで、早めに(14時半前に)終わる。(最後の結果説明が、朝の受付の先着順に行われるのである。)その気になれば、まだ楽勝で出社できる時間帯であるが、今日は終日、有休を取得してあるのだ。陽も高いうちに、さっさと帰宅。

 夕方になってから駅前に出動。フォルテビル8Fのアーシェントタイムでビールを飲んでから、ザザシティで「イノセンス」を観る。2回目。ビールのせいか、ちと寝てしまったが [;^J^] ..まぁ、美味しい場面はほとんど、起きて観ていられたから良しとしよう。(私見では、クライマックスのドンパチシーンが、この映画の中では一番つまらないのである。[;^J^])

 鳥インフルエンザ、ついに野鳥(カラス)に被害が及んだか..心配しすぎるのは戒めるべきであるが、コントロール可能な領域を逸脱してしまったような気が..それはそれとして、「カラスの死骸」で、私は、とある書物を思い出してしまった。今夜は、その話をしよう。

 「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」(矢追純一)という本のタイトルを知ったのは、相当昔のはずである。調べてみたら、初版は1993年(「ジュラシック・パーク」の年 [;^J^])なのだが..私の感覚としてはそんなものではない、1980年代か、もしかすると1970年代だったかも、とすら思っていたので、意外の念を禁じ得ないのであるが..ま、それはともかく。確か新聞広告で見かけ、印象に残ったのだ。実に秀逸なタイトルであり着眼点である、と。確かに、私はそれまで、カラスの死骸を(死骸地市街地で)見かけたことがない。そこらあたりから切り込んだ、動物の生態学(行動学)の書物なのであろう..と感心したのであった。(その時点では、この(高名な)著者の名前も評判も知らなかったのだ。)で、感心はしたが..わざわざ探して読むことはしなかった。(そこまでの興味は引かれなかったのである。)

 遙か後年になって、と学会の本で、この「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」は、実はいわゆる「トンデモ本」であることを知った。カラスの死骸が見あたらない理由を、なんと、「“対消滅”により、瞬間的に消滅してしまうのだ」、と、説明しているとのこと! [;^J^] ..それはそれで、別の意味で感心したが [;^J^] ..わざわざ探して読むことはしなかった。(そこまでの興味は引かれなかったのである。)

 ..ま、それだけのことではあるが [;^J^] ..今回、ついに、「カラスの死骸」が発見された。つまり..鳥インフルエンザは、「対消滅」をも無効化するのである。恐るべき威力である。

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*2004年03月09日:クラークのネタ その一


 アーサー・C・クラークは、現代最高の碩学のひとりである。(ややオールドファッションではあるが)現代SF小説の最高峰。科学解説者としても最高峰。その未来を見通す視点の鋭さの例証としては、例えば、「通信衛星」のアイデアの発明者であることを挙げるだけで、十分だろう。(実にありがちなことであるが、彼はこのアイデアを特許化していなかったのである。)近年になって、(さすがに歳のせいか?)やや「トンデモ系」に傾斜している気配もあり、正直、心配ではあるのだが [;^J^] ..その全盛期の科学解説書は、アジモフのそれらと共にいつまでも古びない、まさに人類知性の宝と言うべきものである。

 ..ところが、そんな(全盛期の)エッセイの中にも、「いったいなに考えてんだ、こいつは? [?_?]」、と、突っ込みどころ満載の文章が存在する。時代の制約もあったのだろうが..しかしだからといって、クラークの評価が(私の内部で)下がることは無い。やはり彼も人間なんだなぁ..(ボケをやらかすんだなぁ..)と、微笑ましくなるし、それがまた逆に、その他のほとんど“超人的”な仕事や思索の価値を、きわだたせることにもなるのである。

 今夜、取りあげたいのは、確か「スリランカから世界を眺めて」(ハヤカワ文庫)所収の「電話の新世紀」というエッセイの一部である。(現在、この書籍が手元に無く、例によって記憶だけで書くので、細部の不正確さについては、御容赦を乞う。{_ _])

 彼はここで(他人の論文中のアイデアの紹介、という形ではあるが、)「全惑星共通時間」というものを提唱しているのである。つまり、その地方(というか経度)が、物理的に日出時であろうが日没時であろうが太陽が真上にあろうが真下にあろうが、全世界の全ての地域に対して同じ時刻を割り振って、生活時間を同期させよう、というのである。

 仮にスリランカを基準にするとして..サラリーマンは、世界のどの国でも「朝6時」位には、起床又は出勤するものだとして..東京では、その「時刻」には、陽も大分高くなっている。(朝寝坊出来て、吉。)..が、ロンドンでは、真夜中だというのに、これから出勤しなくてはならないのだ。ニューヨークに至っては、日没ちょいあとである。昼夜逆転もいいところである。

 一体、こんな無理な制度に、なんのメリットがあるのか。それは、生活時間に時差がなくなることである。「あなたが起きている時には、地球の裏側の取引相手も起きている」ことである。どうやらクラークは、真夜中に地球の裏側からの電話インタビューで叩き起こされたことを、よほど根に持っているらしい。[;^J^]

 これが少しも「良いアイデア」ではないのは、単に、それが人間の自然な生理に反しているからだけではない。(昼夜逆転生活は人間の生活ではない、と言っているわけではない。[;^J^])そうではなくて..これが(クラークの直感に反して)「少しも合理的ではない」からである。

 地球上の(少なくとも文明生活を送っている)全員が、生活時間を同期させるのは、一見、効率が良さそうであるが、それは「リアルタイムの通信(通話)」にとらわれているからである。実は、「時差」というのは、非常に効率的なものなのだ。なぜなら、自分が寝ている間に、地球の裏側で仕事を進めてもらえるからである。互いに申し送りをしつつ、片時も休むことなく、開発を続けることができる。それに対して、「時刻」を同期させたりしたら、こちらが寝ている時は相手も寝てしまうので、その間、仕事が止まってしまう。(どーでもいいことを思い付いたが、仮にこういう社会が実現したとして、本来寝ているべき「昼」に起きて仕事をしたりする奴は、やはり「昼夜逆転生活」を送っていることになるのか? [;^J^])

 大体、地球人がいっせいに眠ってしまったりしたら..宇宙からの侵略に対して、不用心というものである。

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*2004年03月10日:クラークのネタ その二


 クラークの“ネタ”を、もうひとつ。これは出典を思い出せない。「スリランカから世界を眺めて」だったかも知れないが..何しろ、手元にないので。[_ _]

 それは、「電話帳」に関わるものである。

 クラークは、太陽系を越えて、銀河系に人類が進出してゆくヴィジョンを前にして..そのヴィジョン自体は否定しないにせよ、その「超太陽系規模の人類社会」における「電話網」の実現に対して、悲観的なのである。(もちろん、超光速通信は前提としている。)なぜなら、その時代においては、「人類社会」の「総人口」は、現在の数千倍・数万倍(あるいはそれ以上の桁違い)であるはずであり..従って、到底、「電話帳を作ることなど出来ない」、というのである!

 目が点、とは、このことである。一体、クラークは何を言っているのか、何を恐れているのか、さっぱり理解できない [;^J^]。まぁ、こんにちの(そしてむこう数百年ないし数千年後に予想される)技術を鑑みるに、数百億人どころか、数百兆人、数百京人の「電話帳」も、さほど無理なく実現できそうだが、百歩譲って、それが不可能だとしても..別に、全宇宙の全人類の電話番号を一個所に集めなきゃならん、などということは、全然ないのである。誰それはどこの星系のどこの惑星にいる、ということさえわかれば、あとはその星系のセンターに問い合わせて、末端の電話番号を取得すればよいのだ。これは、こんにちのインターネットのDNSと、ほとんど同じメカニズムである。

 結局、そうか。(このエッセイを書いた時の)クラークの発想は、「分散処理」にまで思い至っていなかったわけか。クラークにすら、そういう思考の限界があったのだ。

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*2004年03月11日:「地球さいごの日」


 手塚治虫調査も、止まっちゃいない。ジワジワ進んでいるのである。先日、ヤフオクで落札した物件が届いた。「地球さいごの日」(学研)である。(原作:ワイリー、画:香西邦雄、手塚治虫編集。)これに、手塚治虫の短文が掲載されているのだ。


人類の未来を考える恐怖SF(エッセイとカット)::1:「地球さいごの日」(学研):74/05/10

 ..である。

 ジョーシンで、ビートたけしの「座頭市」のDVDを購入する。発売を楽しみにしていたのだ。週末にでも、観る時間が取れるといいなぁ。

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*2004年03月12日:ゴスロリとは


 私だって、「ゴスロリ」ぐらいは知っているのである。(大威張りっ!)..ま、書店にはその手の雑誌が平積みされているしね。(時には、迷惑なことにバックナンバーまで。[;^J^])おおよそ、どういうタイプのファッションが「ゴスロリ」であるのかは、把握できている。少なくとも、「ヤマンバ」や「ガングロ」みたいな「不潔感」は無い、基本的には「綺麗」な「ビジュアル系」なので、私はこの流行に対して、悪印象を全く抱いていない。

 わからないのは、「語源」である。「ゴシック・ロリータ」の略らしいのだが、「ロリータ」はともかくとして、どこが「ゴシック」なんだろう? 「ゴート人の」という原義に遡らないのは確実。教会建築などの「ゴシック様式」とも、「ゴシック美術」や「ゴシック音楽」とも無縁だろう。もっとも近いかも、と思われるのは、「ゴシック・ロマン」(18世紀から19世紀にかけての、恐怖系の文学様式のひとつ)であるが..結局結びつかない。要は、「ゴシック」という「語感」がカッコイイから選ばれた、というだけのことだろう。

 しかしそういうことなら、「ゴシック」よりももっといいのがあるぞ。「バロック」である。そもそも「バロック」の原義は「悪趣味」であり、「ゴシック」よりは「ゴスロリ」の実態に近いぶん、アドバンテージがある。なかなか良いではないか。ということで、「ゴスロリ」に代えて、「バロック・ロリータ」略して「バロリ」を、ここに提唱する!

 (..「R」だ「L」だと、うるさいことを言わないよーに [;^J^]。いいじゃん、どうせ日本語なんだからさ。[;^J^])

 以下、余談。

 「うさたまの霊長類オンナ科図鑑」を愛読している [;^J^] のであるが、本日更新された「FILE.23「コスプレ好きな女」」が、偶然にも、「ゴスロリ」を取りあげていたのだが..


金髪縦ロールのカツラをかぶりフリフリの衣装に身を包んだ四十五歳の中村うさぎは、我ながら惚れ惚れするほどの狂女ぶりで、

 ..どうです、なかなか味があるでしょう [;^J^]。さすがは、作家である。「ゴスロリ」だの「バロリ」だのというわけのわからん、イメージ換起力に乏しい略語(新造語)ではなく、ずばり、「狂女」[;^J^]..そーだよ、そうなんだよ、このファッション感覚は。

 ..というわけで、これからは、「ゴスロリ」に代えて、「狂女系」、というのはどうか。[^.^]

 以下、さらに余談。

 私とこの人(中村うさぎ)は、もうかなり以前から、同い年なのである [;^J^]。これからもずっと、同い年なんだろうなぁ..[;^J^]

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*2004年03月13日:「ストリップ芸大全」など


 本日、読了した本は3冊。

 「ストリップ芸大全」(ストリップ史研究会、データハウス) - 資料として購入し、一読。こういう本は、手元に無いと困るのである。

 「こんな猟奇でよかったら 命なくします」(唐沢俊一、ソルボンヌK子、ミリオン出版) - これといった新知見なし。ひとことで言うと..つまらん。[;^J^]

 「内田百けん集成 18 百鬼園俳句帖」(ちくま文庫) - 「百鬼園俳談義 口述」が、もっとも示唆に富む。「俳句を作曲すると云う事を考えて見るに、俳句は琴であろうと三味線であろうと、或はオーケストラの伴奏であろうと、兎に角、節がついては困るのであって、俳句に音律を与えると云う事は、俳句自身の破滅であろうと私は思う」(47頁)。

 ジョーシンで、今日はDVDを2枚。「妖星ゴラス」と「キングコングの逆襲」。後者は、「メカニコング」「エレメントX」、というキーワードが、記憶の底に沈殿していたのだ。敵組織のチーフ(ドクター・フー)を演ずる天本英世の存在感も、印象に残っていた。観るのが楽しみだ。

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*2004年03月14日:「ユートピア」「戦艦大和ノ最期」


 午前中は、浜松市立中央図書館へ。「ミステリマガジン」のバックナンバーがあれば..と思っていたのだが、残念ながら、無し。しゃあないなぁ、これの3月号は、古書店から購入しなくちゃならんかなぁ。

 昼食は、吉野家で豚丼。まぁまぁかな。さほど美味しいとは思わないが、今はセール価格で250円なので、それなら全然文句は無い。

 午後に入って、野暮用を色々片付ける。

 今日は、2冊。

 「ユートピア」(Thomas More、平井正穂訳、岩波文庫)

 「誰もがその書名を知っていながら、ほとんど誰もが読んでいない本」、のひとつ [;^J^]。まぁ、そろそろ読んでおくか..と、気乗りしないながらも手に取ったわけであるが..非常に退屈であるという前評判を聞いていたので、覚悟して読み始めたのであるが..なんのことはない。少しも冗長では無いではないか。ひとつの国家と社会全体を構築しようとすれば、どうしてもこのくらいの紙幅は必要なのであって..というか、むしろ全然足りない。この国の地形も自然環境もほとんど判らないし、都市の構造も、交通網も、産業構造も同様である。この程度で退屈だ退屈だと音を上げている連中は、鍛錬不足なんじゃないか? [;^J^] この共産主義社会が、こんにちの我々に「理想郷」に見えるか、というと違うと思うが、当時の(そして今日の)社会に対するプロテストとして読めば、「古色蒼然」とは言えない。ここにおける奴隷の存在は、いわば刑罰としてのものであり、「奴隷階級」の肯定ではない。「則を越えない」範囲内での、信教の自由。安楽死の肯定。そして作者は、ここで構築したユートピアを、無条件に肯定してはいない。留保付きである。

 「戦艦大和ノ最期」(吉田満、1952、講談社文芸文庫)

 これも、早く読まなくては、と、気になっていた書物。一読賛嘆。非常に格調高い文体と、格調高い内容。海軍少尉、副電測士として大和に搭乗し、そして生還した著者による、あくまでも「戦闘の現場」からの、冷静なドキュメンタリーなのであるが..いまだに太平洋戦争を精算できぬままに、再び限りなく右傾化が進行しているこんにちにおいて、まず、この原点に立ち返ることが必要なのではないか。必読!

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Mar 17 2004 
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