*2002年01月07日:マニアの「定評」について
*2002年01月08日:深夜残業について
*2002年01月09日:更新できず
*2002年01月10日:夢路より その一
*2002年01月11日:夢路より その二
*2002年01月12日:「漫画讀本」
*2002年01月13日:爆忙な週末
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*2002年01月07日:マニアの「定評」について


 とある対象に対して誰もが同じ「評価」をする場合、その「評価」は要注意である。つまり、「互いに独立」ではない可能性が、極めて高いからである。

 私がしばしば目にするケースで言うと、日本人指揮者、「故・朝比奈隆」「小澤征爾」「若杉弘」それぞれの演奏に対する「マニアの評価」は、非常に「安定」していて「ブレが無い」。つまり、「常に同じ」なのである。

 だから私は、これらの「言葉」を信用しないのだ。そんなことはあり得ないからである。(「常に同じ」であるとわかっているので、彼らに対する「マニアの評価」は、二度と読む必要は無い。その意味ではタイムセービングになるので実にありがたい。これは皮肉でもなんでもなく、偽らざる日々の実感なのである。)

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*2002年01月08日:深夜残業について


 午前様。(午前に帰宅したという意味ではなく、午前に退社したという意味である。)

 正直な話、仕事が捗るのは深夜か休日である。理由は単純、邪魔が入らないからである。だから、常に休日出勤をして平日に代休を取るというのが、それなりに理想の形ではあるのだが..休出はともかくとして、深夜残業には多少の問題もある..

 ..つまり、やや“恐い”のである [;^J^]..笑うなってば!! [;^.^] ..だって、ラップ音はするしさ。あちこちにある「鏡」は覗きたくないし..まだ本格的な怪異現象に遭遇したことはないけれど。

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*2002年01月09日:更新できず


 今夜も午前様。(午前に帰宅したという意味ではなく、午前に退社したという意味である。)久々のケースであるが、日記の更新が間に合わない。一日スライドすることにする。

 ..という状況なので、ネタがあるわけもない。ごめん。

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*2002年01月10日:夢路より その一


 「だから夢の話はやめろ」とおっしゃるあなたが全面的に正しいが、今週はあまりに忙しく、仕事のほかは夢見る時間しか無いのである。(← リリカル)

 今夜の夢の「物語」は全く記憶に残っていないのだが、とあるディスカッションを行っていたことは確かであり、そこで私が述べたテーゼ。


「“時の癒し”という概念を導入すると、ほとんどのタイムパラドックスは解決するのだ」

 ..なんか、素敵でしょ? [^.^]

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*2002年01月11日:夢路より その二


 「だから夢の話はやめろ」とおっしゃるあなたが全面的に正しいが、今週はあまりに忙しく、仕事のほかは夢見る時間しか無いのである。(← リリカル)

 いわゆる合体巨人といいますか。数十人の生身の人間が組み合わさって、巨人を構成する。幻想絵画(というより戯画)としては、洋の東西を問わず良く見られる画題であり、また、空想的な絵画としてしか成立しない(物理的に不可能である=最下層の人間が、数十人(時には数百人)の重さを支えられるわけがない)オブジェでもある。それを実際に動かしてみせた小説としては、「血の本 [I] ミッドナイト・ミートトレイン」(Clive Barker、集英社文庫)所収の「丘に、町が」が、忘れがたい傑作であるが、閑話休題。

 今夜の夢の中では、その「人間によって構成された巨人」が、何か飛翔する群れ(蠅? 蜂? 鳥人?)に襲われており、その攻撃者たちによって、巨人の構成要素である人間たちは、それぞれ腕をもがれたり脚をもがれたり..でも全体としての“巨人”はビクともしなかったし、構成要素である人間たちからも死者は出なかった..という、ただそれだけの夢であるのだが..

 夢(の論理)に文句をつけても仕方が無いのだが、これは論理的におかしいと思う。この場合、「構成要素である“人間”はボロボロ死んだが、“群体”としての“巨人”は死ななかった」、というのが、正しい“解”であるはずだ。全体(巨人)も死なず部分(人間)も死なない..あるいは、「再帰」の夢だったのかも知れない。

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*2002年01月12日:「漫画讀本」


 休日出勤。

 深夜に帰宅してから、とにかく164冊積み上げられた「漫画讀本」を、少しずつでも片付け始める。(これは本当に私の悪い癖なのだが、買った本を「読まずにしまい込む」ことが、出来ないのである。とにかく、一度は目を通さないと気が済まない..その本に「申し訳ない」と想ってしまうのである。)

 これはやはり、宝の山である。当たり前だが、1950年代、60年代の漫画の全てが面白いかというと、そんなことは全然無い。つまらない漫画の方が多い、と言い切ってしまって良いと思う。しかしその「つまらない漫画」ですら、むしろその「つまらなさ」故に貴重なのである。それらの「つまらなさ」は、「時代がずれている(ずれ過ぎている)」が故の退屈なのであって、つまり、「時代の記録(証言)」として機能しているのである。

 そしてまた、面白い漫画は、文句無しに面白い。半世紀を経てなおも面白いのであるから、驚異である。外国漫画が豊富に紹介されているのも、資料性が高い。

 いくら「目を通さないと気が済まない」と言っても、隅から隅まで読んでいる暇は当然ながら全く無いのであって、記事やエッセイの類は基本的に全部すっ飛ばして、漫画の類のみひととおりは目を通して、「未読の山」から「既読の箱(ゆうパック・中サイズ)」に移しているのだが..いずれじっくり、記事なども読むことにしよう。どれほど豊かなネタが拾えることか..

 繰り返すが、これは宝の山なのである。

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*2002年01月13日:爆忙な週末


 休日出勤。

 深夜に帰宅してから..今夜は、漫画讀本を読む元気も無い。くっそう、映画を観たいよ、ゴジラをも一度観たいよ、ハリー・ポッターを観たいよぅ! [/_;][/_;][/_;]

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 16 2002 
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