*2001年03月26日:「ヴァンパイア」
*2001年03月27日:商売人の鑑
*2001年03月28日:「青拳狼」
*2001年03月29日:「Cryingフリーマン」
*2001年03月30日:リブFDDの修理の経過
*2001年03月31日:電子レンジ! \[^O^]/
*2001年04月01日:浜響「復活」
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*2001年03月26日:「ヴァンパイア」


 ふと思い立って、未開封のDVDの山の底から「ヴァンパイア」(ドライヤー、1932)を引っぱり出して、プレイヤーにセットする。

 ..なんとも不思議な感覚の作品である。時代が時代であるから、「魔人ドラキュラ」(トッド・ブラウニング、ベラ・ルゴシ、1930)のような、このジャンルの祖型的な作品なのであろう、という先入主を持っていたのだが..むしろ、極めて現代的な、洗練されているとさえ言える映画なのであった。

 そもそも、何が起こったのか、良く判らない [;^J^]。誰が吸血鬼だったのかは、一応、指摘できる(胸に杭を打たれて白骨化するシーンがある)のだが、彼による吸血シーンは、無い(と思う)。一方、彼の共犯者と思しき男による“採血シーン”は、ある。

 夢と現実が交錯している。主人公は途中から幽体離脱?するのであるが、それ以前から、舞台となる村の中を動き回り走り回っているのは、人間ではなく“影”なのである。

 トーキーだが、セリフは極端に抑制されていて、ほとんど無声映画かと思うほどである。恐怖のイメージと怪奇のイメージが密やかに漂う、この、たゆたうような映像世界は、まことに珍重に値する。一度観たら二度とは観る必要が無い昨今の空虚な超大作の、まさに対極に位置する作品と言えよう。

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*2001年03月27日:商売人の鑑


 谷島屋のコミックコーナーを眺めていたら、(この時期、教科書コーナーの大増殖に浸食されて、かなり圧迫されているのだが、)「ゴルゴ13フェア」が開催されていた。リイドコミックスや謎本の類が、ずらっと並んでいる。

 なんでまた今ごろゴルゴ13を?..と思ったら..


「平成13年は、平成ゴルゴ年!」

 ..すまん、私が悪かったっ m[_ _]m [;^.^]

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*2001年03月28日:「青拳狼」


 例によって、記憶だけで書く。実際、今夜のタイトルには自信が無いのだ。後述するが、別の作品と混同している可能性もあるのである。

 「男組」(池上遼一、原作:雁屋哲、少年サンデー連載)については、いちいち詳しく説明しない。基礎教養なので、このくらいは読んでおいて欲しい。冒頭、しばらくの間は、ひとりの不良少年の物語かと思わせておいて、やがて、格闘技をベースとする、壮大な社会変革のドラマへと発展する。その(真の)結末までは描かれていないのだが、未来への希望を抱かせつつも、主人公たちの夢は、結局、挫折したのであろう..と、強く推測できる幕切れであった。なぜなら、主人公ら、真摯な革命勢力に呼応する形では、(“良識ある”一般学生たちに代表される)「社会」が、ついに最後まで動かなかったからである。

 想い出すだけでも胸が熱くなる、この、力みなぎるドラマに匹敵する作品は、もはや現れないのではあるまいか。1970年代という時代と社会だけが、これほどの傑作を生みだし得たのである。

 さて、「男組」の連載が終了したのち、池上遼一は同工の作品を、少年サンデーに何本か発表したが、全て、「男組」には遠く及ばなかった。それはそれで、やむを得ないのだが..ひとつだけ、どうにも許し難い作品が、存在する。

 それが、「青拳狼」(原作:きむらはじめ)なのである。

 とにかく、徹底的に“軽い”のである。軽いこと自体は、別に悪くは無いのだが、明らかに一線を越えてしまっている。その結果、“軽さ”が“スピード感”に結びつかず..「男組」のパロディにしか、なっていないのだ。

 一例として、目を疑うほどに驚愕したシーンを、あげておく。

 子細は省くが、(というか、このシーンに至るストーリーを良く憶えていないのだが、)主人公たちが「敵」と戦おうにも、手詰まりになってしまった。敵の弱点は何か..その時、主人公たちの参謀格である老人が、「そうだ、秘密書類があるはずだ。それを(敵の本拠地の)金庫から盗み出せば、弱みを握ることになる」「そうか! その手があったか!」..ここまで、2コマか3コマ。ここでページをめくると、主人公たちは、敵の本拠地(「学校」だったかも知れない)の屋上におり、既に金庫を破って「秘密書類」を盗み出したあと。ここまで、1コマか2コマ。当然、敵の「戦闘員」が(1コマか2コマで)わらわらと現れるのだが、この時、ヒロインが、なんの伏線も無く(1コマで)戦闘員をキックで蹴り倒す! 主人公に向かって、「私だって、空手くらいは習っているのよ!」、と微笑むのが、その次のコマ。さらに次のコマで、主人公が(爽やかに)ニコッ..

 老人の“思いつき”からここまで、都合1.5ページ。

 私は、「ば..ば..ば..馬鹿にするなっ!」..と、怒る以前に、ほとんど動転してしまった。こんなことをしてもいいのだろうか? こんな展開が許されるのだろうか? これは、偉大なる「男組」に対する“愚弄”以外の、何物でも無いのではなかろうか?

 「私だって、空手くらいは習っているのよ!」、とは、なにごとか! 「男組」の登場人物ひとりひとりが身につけた(あるいは“十字架”として背負っている)格闘技ひとつひとつに、どれほど膨大な量の“物語”が込められていたか。その徹底的な書き込みがあってこそ、はじめて、「格闘技を通じて、国家権力と戦う」、という“劇画的”で“荒唐無稽”な世界観が、圧倒的な迫力と説得力を持ち得たのである。

 「そうだ、秘密書類があるはずだ」、とは、なにごとか! 「男組」において、敵である神竜の“弱点”(出生の秘密)を記した書類が、ヨーロッパ(確かスイス)の銀行に収められていたのを入手するために、どれほど重厚な物語が用意されていたか。

 主人公グループのうちふたりが出国し、現地で銀行の頭取に面会して、その「秘密書類」を引き渡していただきたい、と迫ったのであるが..実は、(正確な経緯は忘れたが、)その「秘密書類」を取得する権利は、そのふたり(すなわち、主人公グループ)が持っているのだが、神竜側からその銀行に、「権力」の手が回っていた(圧力がかかっていた)のである。よって、ふたりは、正当な権利を行使出来ず、秘密書類を取得出来ないことに激昂して詰め寄るが、頭取はあくまでも引き渡しを拒絶し..そして彼は、机の抽斗から鍵を取り出すと、床の上に落としたのである..これから私は、別室に用事がある。一時間ほど席を外す。仮にその間、誰かが鍵を拾って、この部屋の金庫からマスターキーと警備システムの図面を盗み出して複製し、それを戻しおかれたとしても、私には判らない。仮に、マスターキーの複製と図面によって、誰かが秘密書類を盗み出そうとしても、それを防ぐ術はない。もしもそういうことが起こったら、金庫に泥棒が入るなどは、銀行家の恥。私は辞表を書かねばなりますまい。しかし、顧客の信頼を裏切る方が、銀行家にとっては、さらに恥なのです..

 かくしてその書類は日本に持ち帰られ、羽田空港での戦闘を経て、主人公たちの手に落ちるが、しかし結局、ここまで苦労して入手した書類も、あと一歩の詰めが足りない故に、使うことは出来なかった..

 「男組」の、これほどまでに豊かな物語と、「青拳狼」の“1.5ページ”の間の隔絶は、絶望的という他は無いではないか..

 むろん、「青拳狼」の作者たちにも、言い分はあろう。「男組」は、確か70年代前半で、「青拳狼」は、70年代後半か、そろそろ80年代にかかる頃であった、と記憶する。時代が違う。現代(70年代後半乃至80年代前半)の読者は、昔(70年代前半)のように、根気よく物語を追い続けてくれなくなった、と、作者たちは判断したのであろう。ポンポン、話を先に進めないと、読者は、ついてきてくれない..

 ..しかし、このような(“皮相な”)認識に対する、圧倒的な反例として、「タッチ」(あだち充)がある。「青拳狼」と同時期だったかどうか、さっぱり憶えていないが、「男組」の時代よりは、遙かに新しい作品であることは、確実である。

 この作品で、ある主要登場人物を“事故死”させるために取った、作者の入念極まりない手続きは、まさに特筆に値する。私の記憶に誤りがなければ、「もしかして、なにかあったのではないか..?」、という、微かな不安感を読者に与えはじめてから、実に4週間に渡って、「その登場人物の死が決定的になる過程」を、引っ張り続けたのである。当時、人気絶頂であったこの作品の読者は、この不安な状態に、一ヶ月間も付き合ったのだ。そして、その「決定的」なシーンの、静かな衝撃..

 作者の“筆力”の違い、としか、言い様が無い。

 附記:

 今回、どうにも不安なのは、上記の“許し難い”作品が、本当に「青拳狼」だったのかどうか、今ひとつ確信が持てないことである。「男組」と「青拳狼」のあいだに、「男大空」(原作:雁屋哲)という作品があり、どうも私は、これと「青拳狼」を混同しがちらしいのである。「男大空」は、(やはり「男組」と比較できるようなものではないとはいえ、)「青拳狼」よりは、遙かにまともな作品であった。「敵」の後ろ盾は「寿羅木家」といい、これが、誰がどう読んでも、(ダークパワーとしての)「天皇家」以外の何物でもない、という凄さである。物語としては腰砕けだったと記憶するが、この設定ひとつで、記憶に残っている。(記憶ついでに言えば、今回、記憶だけを頼りに再構成した、「男組」や「青拳狼」のシーケンスは、実物とは全く異なっている可能性が、多いにある。なにせ、私の頭の中で、10年(20年)以上も熟成された記憶なのであるから。)

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*2001年03月29日:「Cryingフリーマン」


 昨日に引き続き、今夜も、もっぱら記憶に頼って、池上遼一ネタを書く。

 「Cryingフリーマン」(原作:小池一夫)が素晴らしい傑作であることは、わざわざここで念押しするまでもあるまい。東アジアを中心として、国際的にも評価が高いのは、心強い。日本人の鑑識眼と、さまざまな国民の鑑識眼が、決して乖離していないことの証左のひとつだからである。

 この作品世界の設定に、リアリティなんぞは、カケラも無い [;^J^]。この劇画的な(良い意味での)バカバカしさ、荒唐無稽さこそ、世界に通用するものなのである。

 しかし、全エピソードが傑作だとは、もちろん言えない。出来不出来は、当然ある。個人的には、「熊我教」(だったっけ? 日本支配を狙う新興宗教)のエピソード、「キッド・ナッパーズ」のエピソードなどが気に入っている一方、最後のエピソードには、相当な難点があると思う。

 いや、エピソード自体は、いい味を出しているのだ。里心がついて故郷を訪れ、かえってそのために、想い出の一切を台無しにしてしまったフリーマンの寂寥と、そんな彼に襲いかかる、「街」と呼ばれる暗殺集団。悪くない。悪くないが..ただ、この最終回には..全く、呆然としてしまったのだ。

 子細は省くが、5つの組織の、5人のボスに命を狙われたフリーマンは、彼ら5人を皆殺しにするために、彼ら一人ひとりに、次々に「鍵」を送る。その鍵は、とある駅の(同じ)コインロッカーの鍵なのである。最初に鍵を送られたボスは、“ニヤリとほくそ笑んで”、単身、そのコインロッカーを開けに行く。開けた瞬間、毒ガスが噴出して、彼はその場で即死する。(今の目で読むと、どうしてもサリンを想起してしまうのだが、この作品中では、“証拠を残さない毒ガス”という設定だったと思う。)そして、二人目のボスに、「同じコインロッカーの鍵」が、送られる。彼はどうように、“ニヤリとほくそ笑んで”、単身、そのコインロッカーを開けに行き、そして..

 ..あまりと言えば、あまりではあるまいか。こうして5人とも殺されてしまうのだが、彼らは互いに連絡を取り合っている仲なのである。どうして次々に、そこで仲間が殺されたことが判っているコインロッカーに、“単身”、出かけて行く? 先に、「リアリティなんかいらない」、と書いたが、それは、このことを指しているのでは無い。作品の基本設定では、どんなに大胆で非現実的な仮定をしても、構わない。その非現実的な世界観に則ったルール(ロジック)どおりに、登場人物たち動いてくれれば、なんの問題も無い。しかし、この5人の殺され方は、この作品の世界観と整合が取れていない、つまり、この作品の(少なくとも、最終エピソードの)成立自体を、根底から危うくしてしまいかねない類のものなのである。

 まぁ、それでも、「劇画(の最終回)」という形に仕上げられると、「絵の力」で、なんとなく読まされてしまうのだが..しかしこれこそ、「脚本(原作)」を読んでみたいものである。私が上のパラグラフで紹介した以上のものでは、無いはずだ。原作者は、書いていて、おかしいとは思わなかったのだろうか? この5人の行動を、ロジックで説明できない(ほとんど、シュールである)ことは承知の上で、この回で(5人を皆殺しにして)エンディングに持ち込まなければならないので、目をつぶって脱稿したのだろうか..?

 ..とはいえ、この最終回の最終頁(最後の2コマ)の余情は、素晴らしい。これは、「絵の力」である。

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*2001年03月30日:リブFDDの修理の経過


 ピンチヒッターとして使っているリブ30の、あまりの遅さにたまりかねて、リブのFDDとリブ100はいつ返してもらえるのか、OAナガシマに電話した。

 OAナガシマから東芝に問い合わせたところ、本日、修理完了予定で明日発送、とのこと。やれやれ、月曜日には受け取れるか。

 問題は、症状が再現して修理をしてもらえたのかどうか、である [;^J^]..というか、「本日、修理完了予定」ということは、本日、これから修理する(症状を確認する)、という意味ではないかい?

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*2001年03月31日:電子レンジ! \[^O^]/


 朝の9時過ぎに、ジョーシンから電話。(先週、注文した)冷蔵庫は、お昼前後にお届けします、とのこと。「お昼前後、てのは、夕方以降、て意味だろっ」..と、やさぐれていたら..本当に昼前(11:20頃)に配達に来たので、慌ててしまった。それならそうと、先に言えよ!(言ってるよ。[;^J^])

 設置をすませてから、改めてジョーシンへ。今週の買い物は、電子レンジである。掃除機といい冷蔵庫といい電子レンジといい、事前にパンフなどをいっさい調べず、店頭陳列品から選ぶだけ、というのも、なかなか快感である。楽でよろしい。

 帰宅して、冷蔵庫の上に設置して、さっそく、牛乳をチンして飲む。う〜ん、確かに電子が沸き立っていると思しき、独特の風味。ここ数週間で、新しい掃除機・新しい冷凍冷蔵庫・生まれて初めて買った電子レンジ、と、一気に文化生活のグレードが上がったわけであり、我ながら慶賀に堪えない。

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*2001年04月01日:浜響「復活」


 死んでいた浜響が復活した、という意味では無い。浜松交響楽団の定期演奏会、今夜の曲目は、マーラーの交響曲第2番「復活」なのである。

 第一楽章の、イントロの低弦の切れ味が物足りなかったが、これは、私にとっての「復活」のデフォルトが、ショルティ=シカゴ響だからで、これでは要求水準が高すぎる [;^J^]。また、金管群が常時万全とはまいらず、第四楽章までは、コラールがいまいち決まらない。しかし、終楽章(第五楽章)はなかなか見事で、金管のコラールも、特にこの楽章の一番肝心なところでは、しっかりと決まっていた。特筆すべきは、舞台裏のバンダ(ラッパ群)が素晴らしかったこと。

 ものたりなかったのは、この楽章で初めて登場するオルガン。アクトシティの大ホールにはパイプオルガンが無いので、電子オルガン(あるいはシンセサイザー)で代用しなくてはならないのは、これは仕方が無いのだが..私の席(1Fの、舞台に向かって左端)からは、舞台の右端に設置された電子オルガン(のスピーカー)からの音が、ほとんど聴こえなかった。これは、電子オルガン自体の責任ではなく、PAの責任である。そうでなくとも、この楽章では、膨大な編成の全管弦楽が強奏しているところで、鳴り響かなければならないのである。ちっとやそっとのPAでは手も足も出ないことは、私自身、FCLAの夏オフ等で苦労を重ねているので、よっく判っている。アマチュアオケとしては、動員出来る機材(と時間)に限界があった、ということか。やむを得ない。

 私の席からは、舞台左端の前方でトライアングルやタムタム(銅羅)などを担当している、パーカッションの女性奏者が良く見えるので、彼女がやっていることが、ずっと気になって [;^J^] 注視していた。トライアングルの(かなり緊張する)一打のだいぶ前から、タイミングを取りつつ、慎重に準備している様子に、こちらまでドキドキ [;^J^]。

 とくに面白いのが、(やや小柄な彼女の首のあたりまである、大型の)タムタムの奏法で、いろいろな個所をいろいろな叩き方をするのだが、問題は、ミュートの仕方。大体、円周方向に撫でながら、余韻(リリースタイム)を調整するのだが、終楽章で一箇所だけ、急激にミュートしなければならないところで、左脚を上げて、左半身を投げかけて、ピタッと貼り付いた。


「あのタムタムが、羨ましい」

 ..などと、正直なことを想わなかったのは、言うまでもない。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 4 2001 
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