*1998年06月08日:正確さについて・その一
*1998年06月09日:正確さについて・その二
*1998年06月10日:ヒューズと燭台
*1998年06月11日:ある言語
*1998年06月12日:「びよら冗句」
*1998年06月13日:Oさんと会う
*1998年06月14日:掲示板システムについて
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*1998年06月08日:正確さについて・その一


 例えば、あるリズム・マシンの作り出すリズム(はやりの言葉で言えば、グルーブ)が、同類の製品に比べて、際立って心地よいものである場合、実は、魔法のスパイス(人間的なリズムの揺らぎ)などプログラミングされておらず、単に愚直に「(他の製品と比べて)際立って精確に、時計のように」リズムを刻んでいるだけだ、ということが、しばしばある。

 このことに気がついてショックを受ける人は、無機的で機械的なものの方が、人間的で曖昧な(ファジーな、不精確な)ものよりも気持ちがいいわけがない、と、思い込んでいるのである。人のことは言えない。私だってそうだった。

 もっとも、私の場合、少々屈折した“開眼”の仕方をしている。

 たしか、20年くらい昔の雑誌記事だったはずだ。音楽系の雑誌の「別冊・電子楽器特集号」か何かに掲載されていた、冨田勲と矢野顕子の対談である。冨田勲はデジタル・シーケンサー(要するにコンピューター)を使い始めた頃で、矢野顕子も、ライブで実験的に(人間のドラマーの代わりに)リズム・マシン(まだ、リズム・ボックスと呼ばれていた時代だったかも知れない)を使ってみたりしていたのである。「私は、リズム・マシンが大っ嫌い!」と、矢野顕子は語っていた。「だって、ちっとも私についてきてくれない。私の気持ちとは無関係に、最初に言われたテンポで動くだけ」。

 正論である。ミュージシャンたるもの、こうでなくてはならない。(当時の私は、将来、自分が、電子楽器業界に身を投じることになるとは、考えてもいなかったのだが、)当然、リズム・マシンが人間に合わせなくてはならない。リズム・マシンが、人間のテンポや気持ち、曖昧さや不正確さを読み取って、自分の演奏を調整していくのが、正しい姿だ。今すぐには無理でも、そう遠くない将来に、リズム・マシンはそのように進化するはずだ。うむうむ、矢野顕子は、未来を正しく見据えている、と、感心したものである。

 1年後、同じ雑誌の同じ別冊で、やはり同じく冨田勲と矢野顕子の対談がセッティングされた。そこで矢野顕子は、「最近、リズム・マシンに合わせて弾く気持ち良さが、わかってきちゃって」。


「だ、堕落したな! 矢野顕子!」

 私の心の叫びであった。[;^J^]

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*1998年06月09日:正確さについて・その二


 昨日の話に関連する話題である。

 私の(ホームページの)文章が、読んでいて心地よい、と言われることがある。どの文章のことを指して言われたのかは、恥ずかしいから伏せておくが、何人もの方からいただいている言葉なので、そう的外れな指摘ではないのだろうと思う。

 そう言われると嬉しいので、どれどれどんな名文を書いたのかな、と、指摘された文章(の、該当個所)を、いそいそと読み返してみると..さっぱりわからないのである。なんの工夫もない、ごく当たり前の文章である。平易な言葉で、正しい文法で書いているだけ..

 ..それだ。

 「正しい文法」で書かれていることによる“読みやすさ”が、“名文”の要件なのであった。その証拠に、「文章が安定しているので、安心して読める」という誉められ方も、やはり複数の方からされている。また、素直でない、敢えて文法的に破格な、気取った文章も、結構たくさん書いているのだが、それらが(文章レベルで)誉められたことなど、ただの一度も無い。(内容については、また、別である。)

 ..とても素朴な、当たり前のことに、ようやく気がついたようである。

 ネットニュースを読んでいて爆笑。


「古い住宅地図や同窓会名簿を売ってください。

日本全国何処でもOK です!」

 ..この目的の記事で、ここまで意図が“正確に”伝わるものは、はじめて読んだぞ。[;^J^]

 島本和彦の「とつげきウルフ 第2巻」を確保。先週巡回した古書店で、である。見落としていたのか、新入荷か。

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*1998年06月10日:ヒューズと燭台


 T八から、代行運転で帰宅してから気がついた。フットライトが点いたまま。ルームライトも、「ドア」ポジションなのにドアを閉めても消えない。(「常時OFF」にすると、消えることは消える。)

 ルームライトは消せるからいいとして、フットライトは、どうやっても消えないのだ。光量的には僅かなものなので、まず大丈夫だとは思うが、バッテリーがあがる可能性がゼロではない。明日、修理に出すまでの間、ヒューズを抜いて強引に消しておこうと思ったのだが..ハンドルの右下のヒューズボックスの中が、暗くて見えない。作業できない。(実は、取り外し可能なヒューズボックスの蓋の内側に、ヒューズの配置図が書かれていたので、ルームライトさえ点いていれば作業できたのだが、慌てていたので、このことに気がつかず、ヒューズボックスの中を覗き込まなければならない、と、思い込んでしまったのだ。)

 そこで、懐中電灯の出番となるが..おやおや、部屋じゅう探しても見つからない。[;^J^]

 そこで、燭台の出番である。私の部屋には、三つ又の燭台がある。夏はエアコンの風で空気が乱れるので不適であるが、冬場には(暖房も兼ねた)心地よい室内照明なのだ。

 3本の蝋燭に火をともして、駐車場へ。ドアを開けて運転席の足元に燭台を置いて、その明かりを頼りに、ヒューズボックスからヒューズを抜く。(自動車の中で火を使うなどという危険なことは、本来、してはいけない。真似をしないこと。もっとも、これを言うと、灰皿の存在を説明できないが。)誰かに見られたかな。悪い噂がたたねばよいが。[;^J^]

 ..で、ここまでやっても、フットライトが消えないのである。ルームライトのヒューズをバイパスしているらしい。その他のヒューズ、どれを抜いても駄目。仕方がないので、目覚まし時計を3時にセットして、深夜に一度、エンジンをかけて充電することにする。

 (思い出した。数年前の停電時には、ダイナブック(J3100SS02E)の青白液晶を、懐中電灯代わりに使ったんだった。[;^.^] 蝋燭を使わなくても、リブ100が照明になったのである。)

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*1998年06月11日:ある言語


 あらま、フットライトもルームライトも、なんかの拍子で直ってしまった。ちゃんと消える。仕様どおりの振舞いをする。接触不良かな。取り敢えず、修理出しは見送る。

 閑話休題。

 今日の話には、「大阪」に対する、差別的(かも知れない)認識が含まれているが、多少のことは我慢していただこう。

 初めて大阪駅に降り立ったのは、大学4年の夏である。つまり就職活動の一環だったのだが、その時に受けた(生涯最大の)衝撃とは..

 ..それは、すれ違った、ふたり連れのOLが、「当たり前のように“大阪弁をしゃべっていた”」ことなのである!

 こればっかりは、大阪人には理解できまい。また、私以外の、複数の「非・大阪人」も賛同してくれたので、私の感性に固有の問題があったわけでもないのだ。

 それは、「本当に、こんな言葉を日常的に使っていたのか!」という驚愕であった。「架空の言語ではなかった!」「大阪弁は、実在していた!」

 大学を卒業する歳まで、(TVではなく)人間がしゃべる大阪弁を聞いたことがなかった、というわけではないのだ。例えば、万博の年には大阪に行っているのだが、これは小学6年生の時のことであって、ようするに憶えていないのだろう。(一人旅だったわけではないし。)また、大阪に親類がいて、彼らとは数年に一度は(東京や横浜で)逢っていたはずだが、特にショックを受けた記憶はない。それは、「向こうからやってきた」からだと思う。大阪弁をしゃべるエイリアンが、人間の(標準語の)世界にやってきたのだから、これは別に恐くはない。

 しかし、周囲の全ての人間が大阪弁をしゃべる、という状況に、たったひとりで放り込まれた時の恐怖といったら..! その時の、足元(の、信じていたもの)が、ガラガラと崩壊する感覚は、いまだにはっきりと憶えているのである。

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*1998年06月12日:「びよら冗句」


 友人の、「げんさんの多摩 WebPage」というページを、リンクリストに加えている。ここには、有名な「びよら冗句」(ビオラジョーク)がある。

 クラシックを聴かない人は知らないかと思うが、ビオラというのは、要するに大型のヴァイオリンであり、普通の人は、一見して区別をつけられないであろう。しかしその役割は、ヴァイオリンとは明確に異なっている。より低い、より渋い、より地味な音色で、オーケストラや室内楽の中で、アンサンブルの中核を支える。華やかな旋律が与えられることは滅多にない。バイオリン協奏曲は掃いて捨てるほどあるが、ビオラ協奏曲は極めて珍しい。たまに美しい旋律を朗々と弾く段になると「照れて困ってしまう」というのが、ビオリストの感性。完全に「縁の下の力持ち」なのである。

 「ビオラジョーク」というのは、その「ビオラ」と「ビオリスト」を、徹底的にコケにして笑い飛ばすジョークである。普段から損な役回りの人間を笑い者にすることなど、許されるのだろうか?

 許されるのである。それがジョークというものだ。(これを編集している人もビオリストである、ということを、蛇足ながら付け加えておく。)

 ビオラジョークのサンプルは、是非、実物を拾い読みしていただきたい。今日は、その中でも、特に私が好きな作品を紹介するのだが、その他のビオラジョーク、数十編程度に目を通しておかないと、オチが少々、理解しづらいかも知れないからだ。


ある男が(仮にホレースと呼ぶことにする)は現地ガイドを何人か連れた黒アフリカのサファリツアーに参加していた。ツアーは徒歩でジャングルの奥深くに分け入っていき、鳥の鋭い鳴き声や猛獣や野生動物の吼える声が聞こえた。

2、3日の行程のあと、ホレースは遠くからずっと太鼓を叩くような音がすることに気がついた。彼はガイドのリーダーにその太鼓の音が何なのか尋ねたが、リーダーは石のように押し黙って何も答えなかった。その太鼓の音はその後数日昼夜をわかたず聞こえていた。聞こえていた、というよりはジャングルの奥に進めば進むほどその太鼓の音は大きくなっていくようだった。ホレースは他のガイドにももう一度太鼓の意味を尋ねてみたが、やはり答は返ってこなかった。

何日もこの太鼓の音の向かって行軍したある朝、この頃には太鼓の音はかなり不気味に響いていたのだが、突然太鼓の音がやんだ。現地ガイドは悲鳴を上げてジャングルにかけ込んで下草に身をひそめた。リーダーは責任を感じている風で残っていたが、恐怖に震えていた。ホレースは尋ねた。「何があったんだ?なぜ太鼓の音が急にやんだんだ?」

「旦那、かなりまずい状態です。」ガイドは答えた。

「何なんだ?」もう最悪の事態が来たのかとホレースは重ねて尋ねた。

「本当にまずい......太鼓の音がやむと.....次はびよらソロなんです!(;_;)」
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*1998年06月13日:Oさんと会う


 ルーマニア国立トゥルグ・ムレシュ交響楽団の常任指揮者のOさんと、駅前の名鉄ホテルの喫茶店で会う。今度「幻想交響曲」に取り組むことになり、その関係で、私の「新・ベルリオーズ入門講座」を通読されたのだが、浜松に宿泊する機会ができたということで、連絡をいただいたのである。

 つまり、ホームページの縁で..と言いたいところなのだが、実は、私の中学生時代以来の(27年来の)親友のT君と、音楽大学で同期だったというのである。(Oさんも、あとから気がついたらしい。)これではホームページの縁とは言えない。[;^J^] 世間は(ときどき)ひどく狭いことがある。

 時間は1時間半しか取れないので、新全集版のスコアなどを読みながら、突っ込んだ議論を、てきぱきと交わす。私が全く気がついていなかった問題点も、指摘された。すぐには時間をとれないが、これは宿題として調べておこう。時間がなかったので仕方が無いが、ルーマニアの音楽事情などを聞けなかったのが、残念であった。(テミルカーノフの、お弟子さんである。)まぁ、メールアドレスはわかっているので、ゆっくり情報交換すればいいのだ。

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*1998年06月14日:掲示板システムについて


 私は、Webの掲示板を、あまり読まない。常時スキャンしている掲示板は、両手で数えられる。理由はいろいろあるが、「読みにくい」掲示板が多いのだ。内容が面白ければ(あるいは、知人が多く書き込んでいれば)問題にならないが、そうでもなければ、わざわざ読みづらい掲示板を読む理由は無い。

 掲示板のアーキテクチャは、基本的にふたとおりに分類できると思う。「完全時系列型」と「スレッド表示型」である。

 「完全時系列型」は、コメント(「レス」とも言う)の連鎖とは無関係に、時系列に(ほとんどの場合、新着順に)表示するもの。「スレッド表示型」は、コメントチェーンでまとめるもの。多くの場合、他の発言へのコメントでない、独立した発言は、新しい順に並べ、その発言に対するコメントは、その下に並べる。つまり、コメントトゥリーの中を、時系列に読もうとすると、上へ下へ、スクロールを繰り返して拾い読みすることになる。

 発言数が比較的少ないか、あるいは、他のコメントチェーンと排他的な複数のコメントチェーンが成長することが少ないのであれば、「完全時系列型」の方が、遥かに読みやすい。発言を読み落すことが、まずない。

 複数のコメントチェーンが(活発に)成長する場合は、「スレッド表示型」の方が、特定チェーンに着目する時には、便利である。しかし上述のごとく、このアーキテクチャでは、発言を時系列に読むのが、実に面倒である。微妙な議論が発生している時、発言の前後関係は極めて重要なのだが、この方式では“目で”タイムスタンプを(上に下にスクロールして)追いながら、拾い読みしなくてはならないのである。

 最近になって、現時点では極めて理想に近いと思えるアーキテクチャの掲示板を発見した。それは、唐沢なをきの公式Web「からまん」の掲示板、「鉄鋼倶楽部」である。(「からまん」自体は、以前からリンクしていたのだが、「鉄鋼倶楽部」は、つい最近まで読んでいなかったのである。)

 これは基本的には「スレッド表示型」なのであるが、各スレッドのルートをクリックすると、そのスレッドの全発言が一括表示される。また、これとは別に「最新一括」というボタンを押すと、スレッドとは無関係に、新しい順に最新発言が表示される。

 つまり、両アーキテクチャのいいとこどりなのだ。発言の読み落しをする恐れが少なく、また、新規発言を拾い読みするために、いちいち(BACKボタンを押しながら)クリックして回る必要がない。実際、手数も経過時間も、非常に節約できる。グラフィックも必要最低限で、軽い。画面も広く使っている。

 新規15発言に「New」マークがつくのだが、この「15」という数をコンフィグできないか、とか、毎回指定できるようにならないか、とか、一括読み出しの範囲を日付指定にできないか、とか、改善提案はいくらでもあげられるが、そういうことをすると、ほとんどの場合必要のない入力ボックスが現われることになるかも知れない。

 100点満点で82点くらいの出来であるが、他のは良くて70点。ほとんどは落第なのだから(先述のとおり、内容その他の理由により、やむを得ず読んでいるケースがほとんどである)、私としては、非常に高く評価しているのである。

 掲示板システムは、最低でもこれくらいのものは作っていただきたい。>市井のプログラマ諸氏。

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*解説


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jun 17 1998 
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