1996年11月04日:「ヒーローズ」 1996年11月05日:“結果を出す”ということ 1996年11月06日:薬について 1996年11月07日:段取りの悪い健康診断 1996年11月08日:吾妻ひでお著作リストの提供依頼が来る 1996年11月09日:吾妻ひでお著作リストの簡略版を編集する 1996年11月10日:京極本を買う目次へ戻る 先週へ 次週へ
デヴィッド・ボウイのアルバム「ヒーローズ」は、学生時代に擦り切れるほど聴いた。どのピースも素晴らしかったが、中でも夢中になったのが、B面に収録されていた、3曲からなる(インストゥルメントの)小組曲である。
いずれも、通常の音楽進行の無い、サウンドスケープと言った風情の素描である。個々のタイトルは記憶していないが、こんな曲だった..
1曲めは、海岸の“イメージ”である。音素材は4つ。まず、波の音。これは当然だが、いかにも普通の描写的な波のSE(サウンド・エフェクト)に、時折、絶対に自然音ではありえないトレモロ(というよりは、刻み)がかかり、これが(シンセサイザーによる)人工的な音世界であることを暗示する。第二の音素材は、男声の低音の呟き。これには強烈に深いエコーがかかっており、しかも普通の“海岸風景”では、こんなエコーがかかるわけがなく、このサウンドスケープが、実は(それほど広くはない?)洞窟の中に存在していることを示しているかのようだ。そして、半音階で下降する、低音ピアノの短い動機と、彼方から響いて来るオルガンの切れ切れの和音が、第三と第四の音素材。
2曲めは、3つの音素材からなる。まず、途切れ途切れに掻き鳴らされる琴の音。(邦楽の語法とは全然関係のない、単に素人が出鱈目に弾いたような音型である。)ふたつめは、時折聞こえる犬の吠え声。この両者から、誰もが日本庭園の(あるいは箱庭風の)情景を思い浮かべるだろうが..3つめの音素材は、空を行くジェット機の轟音、それも地上から聞いている音ではなく、空中で「隣を飛んでいる」ジェット機の音を聞いている、そういう聞こえかたなのである。(恐らく)マッハの速度で飛んでいる遥か高空での情景に、静止的な日本庭園の情景が二重映しに重なっている..
3曲めは、もっとも音楽に近い。しかし、やはりリズムは存在せず、静止した和音からなっている。バックグラウンドで響く、ストリングスの重苦しい和音と、それを背景とした、サックスの暗いアドリブ..
もうお判りであろう、これは、ある種の「シュルレアリスム」の絵画の、実に見事な絵解きなのである。
海岸風景。そこに打ち寄せる波は、一見写実的なのだが、その端の方では、非現実的な形状に盛り上がって静止している。空中に浮かんで何かを呟いている、巨大な唇。その反対側の空には、飛行機。そこに重なる日本庭園の(カリカチュアライズされた)情景..
実に判りやすく、安っぽい絵画だ。(このチープさがまた、シュルレアリスムの真髄なのだが、それについては、いずれじっくり話そう。)そしてこういう安っぽくて親しみやすい絵画的情景を音楽にしてくれるのは、決して「現代音楽」などではなく、「(プログレッシブ)ロック」だったのである。
少しも芸術的ではない、しかし漫画的に判りやすい、この“シュールな”空間。私はこれに本当に熱中した。今思い出しても、胸が熱くなる。
しかし、二度と聴きかえそうとは思わない。
およそ10年前、このLPがCD化されたものを聴き..したたかな衝撃を受けたからである..
そのあまりの「音の悪さ」に。
誤解しないでいただきたい。私はオーディオマニアではない。「音が悪い」と感じたのは、その「音色のセンス」である。
何よりも、1曲めで神秘的に響く「オルガン・サウンド」。かつての私は、これに痺れたのだ。しかしCD化されたものを聴きなおした私の耳に響いたのは、神秘的でも何でもない、単に安っぽい、聴くに耐えない玩具のような音であった。
全体の構想は、安っぽくてもいいのだ。(マーラーの大交響曲など、安っぽさの極みであり、それがあれらに不滅の生命を与えている。)しかし、そうであればこそ、個々の素材は最高水準に磨きあげられていなければならないのだ。このオルガンサウンドは、違っていた。霊感がない。玩具の素材としての輝きがない。一体、学生時代の私は、何を聴いていたのだ..(LPとCDの差では、ない。それはこのアルバムに収められた他の曲が、変わらぬ感銘を与えてくれたことでも立証されている。)
誰しも認めたくないものである。若さゆえの過ちというものは..
目次へ戻るこれは確か、大昔の「奇想天外」誌上での、新井素子と岸田某氏の対談の中で出て来た話だと記憶しているが..
電算機のプロの岸田氏が、新井素子に「シミュレーション」というものを説明しているところで出された実例である。プロ野球のベストオーダーを計算機で求める、という課題だ。(計算したのはアメリカ人。)強打者にも色々なタイプがあるはずだが(足が速いとか遅いとか)、どういう順番に並べたら、一番勝率が高くなるか、それをシミュレーションで求めるのだ。
考えるまでもなく、恐ろしく複雑な条件の順列組み合わせになる。現代のスーパーコンピュータでも、解けるかどうか。それを30年(40年?)も前の、平凡な仕様の汎用機でどうやって解いたか。
思い切って、条件を簡略化したのである。例えば、打者がシングルヒットを打った時に、一塁にランナーがいれば、彼は必ず(何しろ“大リーガーは足が速いから”!)三塁に進む、と決めつけるなど。
そうして得られたベストオーダーは..「打率の高い順に並べる」、というものだったようである。
これは、我々(人間)の経験則とは、随分違う。無数の条件を切り落とした結果、“使えない”回答が出力された、と、まずはそう解釈できる。
しかし何よりも大切なことは、“出力が出た”ということなのだ。このシミュレーション結果は恐らく正しくない。ならば、計算方法に問題があったのである。すなわち、人間側で、次のアクションを取れる。その判断材料になる。もしも(これよりも遥かに“らしい”結果を得られるであろう)膨大な条件群を“最初に”与え、その計算量の多さによって計算が所定時間内に終わらず(こういうことは、よくあるのだ)、出力を手にすることが出来なかったとしたら..結局、何もしなかったのと同じである。
結果を出すことが、何よりも大事なのだ。それは直ちに使えなくても良い。次の結果を出すための踏み台・叩き台になる。どんなに素晴らしいシミュレーションも計算も企画も計画も、結果が出なければ、なんの役にもたたないのである。
目次へ戻るいきつけの薬屋のひとつは、硬派な薬局である。
薬を売ってくれないのである。[;^J^]
最初にその店を訪れたのは、あまりにも酷い胸焼けに苛まれ、その類の症状の対症療法の薬を買うためだったが..「あんた、こういうことはよくあるの?」「まぁ今日ほど酷いことは初めてですが、しばしばありますね(と答えつつ、口をきくのも唾を飲むのも苦しい状態)」「いつも薬で押さえているんだね」「はい」「じゃぁ、売れないね」「?!?!」「人間の体って正直なもんでね。薬が助けてくれるということを学習してしまうと、自分では何にもしなくなってしまうんだ。今のあんたの症状は消化不良だろうが、ここでこれまでのように消化促進薬を投与すると、あんたの体はますますさぼることを覚えるだけだ。まずは自分の体に仕事をさせることを思い出させなさい。薬はあげられない」。
私は(自分の商売のことを忘れているとしか思えない)店主の言葉に感銘を受け、それは今でも忘れられない。しかしその時、本当に苦しかったのも事実であり、感銘は感銘として、その店を辞すと、別の薬局に飛び込んで消化促進薬を買い、それを貪り飲んでことなきを得たのであった。
数多くの教訓が含まれている物語である。どの教訓を選ぶのも、読者の自由だ。
目次へ戻る会社で健康診断を受けるが、これがなんとも、段取りが悪い。
まず、身長・体重・視力・血圧まではいいとして、次に(たっぷりの)採血。「2〜3分間、しっかりと押さえていてください」というわけで、しっかり押さえたら、ガーゼに消毒薬を含ませ過ぎで、押さえた瞬間に大量に絞り出され、ダラダラと流れる。
さらにそのあとに、(待ち時間無しでテキパキと)内科検診、心電図、レントゲン、と、続くのだが、どれもこれも右手で左手を押さえていることが出来ないメニュー。おかげで初期段階での止血に失敗し、結構出血してしまったじゃないか(、と、ほんの2〜3分“ライン”から外れて、じっとしていれば良かったことに思いいたらなかったことを棚にあげている)。
目次へ戻るあるフリーの編集者から、現在「とり・みき」の対談本を編集中だが、対談相手の漫画家たちの著作リストを掲載したいので、「吾妻ひでお著作リスト」を提供していただけないか、というメールが来る。(吾妻ひでおも対談しているのである。)
無論、異存は無いが、先方の考えている共通フォーマットが、(サブタイトルを個別に標記せず、連載物は一行にまとめる、など)かなり現行のリストと異なるものなので、向こうで編集するとは言っているが、これは私が作業(圧縮)するしかあるまい。機械的な変換だけではすまず、編集ミスを極小にしようとすれば、かなりの工数が必要になるから。
目次へ戻る吾妻ひでおリストの圧縮編集を行なう。逃避である。[;^J^] 他にやることがいくらでもあるというのに。
スナックRに久しぶりに寄ってみたら、陽気で美人で聡明なホステスのEは退職していた。これで、ここに通う理由は、ほぼ無くなったな。
目次へ戻る原則として、新書(サイズの本)は買わないことにしている。部屋が狭く、収まりが悪いからである。文庫に落ちるのをひたすら待つ。まぁそれを言えばハードカバーも同じなのだが(一般に、ハードカバーの方が、さらに場所をくう)、ある種のハードカバーには、スペースファクターと引き替えにしても見合うだけの美的価値があり、その場合には問題なくこれを購入する。それに対して、多くの新書には、美的価値を感じられないのだ。中途半端に大きい割りには安っぽい、と、これがまぁ私の主観であったのだが..
休日出勤の途上、(最近開店したらしい)見慣れぬ書店を発見する。まぁ十人並みというか十軒並み(?)の店であるが、買い逃がしていた「手塚治虫物語」(朝日文庫)の上巻を確保して気を良くして、普段は立ち寄らない新書コーナーに回ってみたら..京極夏彦の4冊(「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」「狂骨の夢」「鉄鼠の檻」)が山と積まれていた。(5冊目の「絡新婦の理」が置かれていてしかるべきスペースが虚ろだったところを見ると、どうやら売り切れか?)
上述したように、原則として新書は買わない。一方、京極夏彦のこれらの作品は異様に世評が高く、しかも洩れ聞こえて来る作品内容は、どうやら強烈に私好みらしい。こうなると、図書館で借りて読むことも出来ない。何故なら「所有してから、読みたい」からである。
かくして、あっけなくデッドロックに陥ってしまったのであった。なまじハードカバーであれば「高いなぁ」と嘆きつつ、さっさと買って読んでいたろうに、新書であるばかりに買うに買えず、読むに読めず..(笑わないでいただきたい。私は(この性癖に)真剣に困っているのである。)
文庫に落ちるのをじっと待っていたのであるが..どうやらこの作者は、分冊せずに1巻本で出す、という美意識を持っているらしく、とすると、これらが文庫落ちする可能性は、極めて低い。(本の背の高さよりも厚さの方が勝ってしまいそうである。[;^.^])
仕方がない、筋を曲げよう、それに値する作品なのであろう、と、一財産と引き替えに4冊(と「手塚治虫物語」を)抱えて店を出たのであった。
こんなの読んでいる暇、無いんだが。[;^.^]
目次へ戻る 先週へ 次週へLast Updated: Nov 16 1996
Copyright (C) 1996 倉田わたる Mail [KurataWataru@gmail.com] Home [http://www.kurata-wataru.com/]