ジェイムズ・ティプトリーJr.「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」(1972)


 言わば、「片思い」の話である。

 人類は宇宙に進出し、その宇宙ステーションには、様々なエイリアンが訪れるようになった。地球人類は、熱狂的にエイリアンに擦り寄る。(しばしば性的に。)しかしエイリアンたちは、実は地球人のことなど、気にも止めていないのである。

 いくつもの博士号を持っている地球人が、宇宙ステーションで、エイリアン達のために、清掃夫の仕事に甘んじている。強制されて、ではない。いやいややっているのでも、ない。ただただ、エイリアンにしがみつきたい、美しくも力強い彼らに、ついて歩きたい(歩かせてもらいたい)からである。そしてエイリアンたちは、彼のことなど、気にも止めていないのである。

 これは、エイリアンを持ち出さずとも、国家と国家、都市と都市、個人と個人など、およそ人間界で考えられる、ありとあらゆる組合せで起こりうる事態であり、それは結果として、悲劇か喜劇か悲喜劇を生み、人類の文化を豊かにしてきたのではあるが…。

 本編ではアボリジニが例に引かれる。別にアボリジニに限ったことではないのだが、欧州人が差し出すガラクタ同然の「宝物」(ビーズ、コカコーラの瓶、テレコ、などなど)と引き換えに、土地や、金鉱や、その他ありとあらゆるものを差し出して来たのである。ここで本質的なことは、欧州人は、そのことになんら罪悪感を持たず、アボリジニはアボリジニで、(すくなくとも、かつては)被害者意識を持つに至らなかったということである。これは、ごく自然な関係だったのだ。しかも一方が他方に、全てを吸収されて捨てられて行く。(もちろん、現在のアボリジニを取り巻く状況は、大きく異なっている。)

 無論、欧州人がエイリアンであり、アボリジニが地球人なのである。仮にそのことが地球人に判ったとしても、どうしようもない。理屈は理屈として、彼はエイリアンに好かれたいし、抱かれたいのだから…。

 ひんやりとする読後感。しかしそのリアリティは(上述したように、身近な例に引き寄せることが出来るが故に?)圧倒的である。私はこの短篇が、少しも好きではない。しかしこれは(それまでに人類が滅亡しなかったとして)300年間は通用する作品であろう。



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MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Apr 4 1996 
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