「トロイ人」(あるいは「トロイアの人々」。原題名は“Les Troyens”で、複数形)は、ベルリオーズ晩年の超大作で、主としてその規模故に、作曲者存命中には部分的な上演しか行われず、「完全な」姿で上演されるまでに、100年以上を要した。1969年のことである。それ以来、この作品は、こんにち(1995年)に至るまで2回しかレコーディングされていない。
1995年、重要な新録音が登場した。
デイヴィス盤は、既にカタログから姿を消している。今回のデュトワ盤の価値は、だから何よりもまず、「レコーディングされた」こと自体にある。もうひとつは、これが「完全全曲盤」であることである。つまり、1969年の蘇演は、完全な姿ではなかったのだ。作曲者存命中の上演では、とにかく長すぎるということでズタズタにカットされてしまったのだが、最も早い時点でカットされ、失われた「シノンの場」が発見されたのである。(但し総譜は見つからず、ヴォーカル・スコアの校正刷りから復元された由。)これは重要な発見であった。詳細はすぐ後で述べる。
「トロイ人」はヴェルギリウスの「アエネーイス」に題材を取って、作曲者自身がリブレットを書いたものであり、トロイの陥落と、辛くも脱出したトロイ人たちが、約束の地、イタリアにローマ帝国を築くためにさすらう過程で、アフリカのカルタゴで引き起こした女王ディードーの悲恋物語を描く。詳しく知りたい方は、「第9講 歌劇 トロイアの人々」を、一読していただきたい。
「シノンの場」復元の意義について述べる。この復元によって、第一幕の脚本上の“欠陥”が解消されたのである。昔から、どうもおかしいとは思っていたのだ。省略のしすぎによって、ロジックが通りにくくなっているばかりか、登場人物たちの意味合いや重み付けまでも損なわれていたのである。
読者は「トロイの木馬」の故事を知っているものとする。第一幕は、ギリシャ軍が突然撤退したことに喜んだトロイ人が、木馬を発見し、これを城壁の中に引き入れる場面である。従来知られていた脚本では、「何故、木馬を城内に入れるのか?」が、今ひとつ明確ではなかった。
「木馬がある」 → 「ギリシア人の守り神、パラス・アテーネーへの供物だ」 → 「これに槍を放ったラーオコーンに神罰が下った」 → 「女神をなだめるために、城中に引き入れよう」
これでは、論理が通らない。さらに問題になるのは、トロイの王、プリアムスの立場で、彼は従来の版ではほとんど台詞が無いのであるが、それだけならばともかく、このシーケンスでの扱われようが、あんまりなのだ。(以下、歌詞とト書きは拙訳。)
アエネーアース 「女神がわれらをお守り下さるように、
この新たな危険を祓いのけよう!
まさに、パラスが神罰を下されたのだ。
この恐ろしい冒涜に対して」プリアムス 「女神を鎮めるために、
余の命令をただちに実行せよ」アエネーアース 「すでに巧みにコロの上に乗せられて、
木馬は各自が引くばかりとなっています。
さあパラディオンへ華やかに引いていこう!」
これではまるで、臣下であるアエネーアースの言葉が、王の言葉ではないか。王自身がそれを承認していて、アエネーアースの進言を引き取ってそのまま「余の命令として実行せよ」と言っており、さらに、王に承認されるのを見越した上で、アエネーアースは既にその命令(進言)を実行してしまっている。越権行為もいいところで、王を蔑ろにするのも甚だしい。
そうではないのである。カットされた「シノンの場」を補うと、この場の流れは以下のようになる。(これは、ヴェルギリウスの原作通りである。)
「木馬がある」 → 「ギリシア人の守り神、パラス・アテーネーへの供物だ」 → 「ギリシアの脱走兵(実はスパイ)シノンが、木馬の来歴を述べた」 → 「トロイ人がこれを破壊すればトロイには神罰が下り(滅び)、
これを城内に引き入れて祭れば、神の加護の下にギリシアを征服するであろう、と」→ 「これに槍を放ったラーオコーンに神罰が下った」 → 「女神をなだめるために、城中に引き入れよう」
見事に論理が通っている。そして、シノンを取り調べたプリアムスは、アエネーアースの進言以前に、以下の命令を下している。
プリアムス 「塔を破壊せよ
スカエアの門の塔を、
そして城壁の一部を崩せ!
走れ、そしてカルカスの策の裏をかいて
城内に引き入れるのだ
このパラスへの奉納物を」
つまり、先に述べた「余の命令」とは、これのことを指していたのだ。アエネーアースの進言の追認ではない。これならば、プリアムスの威厳は損なわれず、アエネーアースの忠誠心に疑念をさしはさむ余地もない。ベルリオーズの脚本に対する、長年の疑問が氷解した。
さてそれでは、25年前のデイヴィス盤と、新録音のデュトワ盤のいずれが良いか。(レヴァイン/メトのLDは、この両者に劣る。)
結論:デイヴィス盤が良い。
録音は、もちろんデュトワ盤が優る。私の耳は、強度の耳鳴りと歪みを伴っているので、録音を云々出来る立場ではないが、それでも、デイヴィス盤の合唱の方が、デュトワ盤のそれよりも余裕が無く、歪みが余計に耳に付くのは確かだ。後者が前者よりも音響空間に余裕があることは、私の耳でも判る。また、前記の「シノンの場」の資料的価値は、デュトワ盤の大きなアドヴァンテージである。とはいえ説明的な場面であって、脚本的にはともかく、音楽的に重要だという訳ではない。
デイヴィス盤は、歌手で優る。三人の主要人物、アエネーアース/ディードー/カサンドラーを歌うのが、デイヴィス盤では、ジョン・ヴィッカース/ジョセフィン・ヴィージー/ベリット・リンドホルム。デュトワ盤では、ゲイリー・レイクス/フランソワーズ・ポレ/デボラ・ヴォイト。デュトワ盤の3人も、決して「悪くはない」。しかし、デイヴィス盤の3人の、声の厚みや役作りの密度には、及ばない。ある意味では鬱陶しいのだ、デイヴィス盤の大時代的な演劇空間と朗々たる歌唱は。しかし、神話/伝説の世界に、大時代的な演唱が似つかわしくない訳がない。
デュトワ盤に対してデイヴィス盤が決定的に優っているのは、しかしながら、歌手の優秀さによってではなく、ある“瞬間”の表現についてなのである。この歌劇には“魔の瞬間”があるのだ。これを説明するために、まず、ベルリオーズのリブレットとヴェルギリウスの原作との比較に立ち返る必要がある。
無論、ヴェルギリウスとの優劣論など、ほとんど問題にもならない。なるほど、「トロイ人」のリブレットは、「作曲者」によるものとしては大したものかも知れないが、やはり原作との格の違いは如何ともしがたい。特に問題を感じるのは、第2幕のトロイ陥落である。
ヴェルギリウスの「アエネーイス」全12巻は、岩波文庫に2分冊で収録されており(上・下、各6巻ずつ)、ベルリオーズが素材としたのは、1・2・4巻なのであるが、やはり前半6巻が素晴らしい。未読の方には一読をお薦めする。第2巻がトロイ陥落、第4巻がディードーの悲恋と自殺。第6巻はアエネーイスの地獄巡りであり、のちにこれはダンテの「神曲」の霊感源となって、ダンテはその作中にヴェルギリウス自身を登場させて敬意を表することとなった。
トロイ陥落を描く第2巻の力感たるや、まさに比類の無いものであって、ベルリオーズなどの遠く及ぶところではない。特にその決定的な瞬間に、ネプトゥーノス、ユーノー、ユーピテル、そしてアテーネーの諸神が、トロイの滅亡を承認して、その冷徹な視線を高みより、火の海に沈む都に注いでいる光景(幻視)は、文字どおり圧倒的である。
それに対して、第4巻を素材とする、ベルリオーズの歌劇の後半の幕は、その終結部において、ヴェルギリウスには無い趣向を盛り込んでいる。つまり、自害したディードーの、最後の幻視/幻聴である。ベルリオーズのこの独創は、実に素晴らしい。これが驚異的な(魔的な)効果を発揮しているのが、デイヴィス盤なのである。
センス・オブ・ディスタンス。途方もない時間的・空間的距離感。
「トロイ人」は、大規模な漂流譚である。前半の舞台はトロイ、後半の舞台は、地中海を渡ったカルタゴであり、ベルリオーズのリブレットには明記されていないが、ヴェルギリウスによれば7年の時を隔てている。そして、物語の最後にトロイ人たちは、再び地中海を越えて、イタリアへと旅立ってゆく。それはローマ帝国建国への旅路であり、今度は数百年の時を越える旅なのだ。真に巨大なものを描き出すために、それに先立って、それよりも遥かに小規模ではあるが、とはいえやはり巨大なものを併置するというのは、セオリーである。しかもヴェルギリウスの天才は冴えに冴え渡る! このセオリーを越え、規模を拡大して繰り返すのである。つまり、ディードーによる「ハンニバルによるローマ帝国への復讐(つまり、カルタゴ(ポエニ)戦役)の予言」。これは、遥かな未来のローマ帝国建国を、さらに数百年越える未来への旅だ!
第2巻では原作のエネルギーに圧倒されていたベルリオーズも、この第4巻の幕切れでは、あるいはヴェルギリウスに匹敵するほどのアイデアを盛り込んでいる。つまり、ヴェルギリウスのプラン、「はるけき未来への視点の移動による、(もはや三一致の法則など忘れ果てた)劇空間の果てしなき拡大」を、駄目押しに「もう一度、繰り返す」! そう、ディードーの、いまわの際の最後の予言、「ハンニバルによる復讐は成就せず、カルタゴはローマ帝国に滅ぼされるであろう」、という、さらに未来への旅! そしてこの時、彼女は栄光のローマ帝国の幻を見るのだ。これが実に簡潔なリブレットで、見事に表現されている。そして、ここに付けられた音楽こそ、問題になろう。
女王ディードーが自らの胸を刺す。群集が驚愕と恐怖で凍り付く中、死の予感を込めた不吉な低弦のトレモロをバックに、女王の妹アンナが、断末魔のディードーに囁きかける。
ディードー (肘で支えながら身を起こし)
「ああ!(Ah!)」
(再び倒れる)アンナ (薪の山に登って)
「お姉さま!(Ma Soeur!)」ディードー (身を起こして)
「ああ!……(Ah!...)」
(彼女は空を仰いで、再び倒れる)アンナ 「私です。(C'est moi,)
あなたの妹が呼んでいるのです……
(c'est ta soeur qui t'appelle...)」ディードー (半ば身を起こしながら)
「ああ!(Ah!)」
ディードーは、自らの直前の予言を覆す最後の予言を、絶望を込めて、呟く。
ディードー 「敵意ある運命で……(Des destins ennemis...)
執念深い怒りで……(implacable fureur...)
カルタゴは滅びよう!(Carthage perira!)」
この「perira!」が吐き捨てられたとき、突如、舞台裏の遥か彼方から、凶々しくも輝かしいファンファーレが鳴り響く! そう、この瞬間! これはディードーの幻聴である。ここで鳴り響く音楽は、このオペラで唯一、ライトモチーフ的に扱われている「トロイ人の行進曲」であり、これは具体的な行進曲というよりは、トロイを旅立ってイタリアにローマ帝国を建立することを神々に義務付けられた、トロイ人たちの運命の象徴として、扱われているものである。つまり彼女は、遥かな未来の栄光に包まれたローマ帝国の姿を幻視し、その光輝を象徴する音楽を聴いたのだ。
この(幻の)ファンファーレをバックに、ディードーが、驚愕と、絶望と、永遠の諦観と、果てしなき憧憬を込めて、この世に残した最後の言葉(予言)が、
ディードー 「ローマ……ローマ……不滅の……!
(Rome... Rome... immortelle!)」
(彼女は倒れて息を引き取る)
そして、ローマの栄光を称えるファンファーレと行進曲(しかしカルタゴ人たちには聞こえていない)をバックに、未来のローマ帝国への、群集の呪いと復讐の誓いの輝かしき大合唱で、全曲の幕を閉じるのである。
デイヴィス盤のディードー(ジョセフィン・ヴィージー)が、まさに苦悶を込めて「perira!」と叫んだ次の瞬間に聴こえてくる、トロイ人の行進曲のファンファーレ! 私はこの瞬間、魂が宙に消し飛んでしまう! まさに音楽の魔力だ! この、はるけき未来から響いてくる勝利の行進曲を聴く時、人は、この歌劇、登場人物に取っては、7年間(トロイ戦争の勃発から数えれば17年間、ローマ帝国建国まで数えれば数百年間)、聴衆に取っては4時間余の旅路が、この一瞬に集約されていることを知るであろう。この歌劇全体は、ひとつの前奏曲でしかなかったのだ。ローマ帝国への旅路の。この膨大な音楽が、このファンファーレに集約され昇華され、ディードーの幻視/幻聴という形で、一気に数百年の時を越えて未来に送り込まれ、「そこから時間を遡って響いてくる」! これを音楽の奇蹟と呼ぶ! これを魔の音楽と呼ぶ! そして、これほどの「センス・オブ・ディスタンス」を感じさせてくれるのは、デイヴィス盤だけなのだ。
私は何十回も聴き比べた。そして得た結論は、ディードー(ジョセフィン・ヴィージー)のいまわの際の演技力もさることながら、決定的なのは、舞台裏のファンファーレの「音色」なのだということだ。デュトワ盤のそれは、要するに遠くから響いてくる音/音楽に過ぎない。それ以上の意味合いはない。しかし、デイヴィス盤のそれは、繰り返すが、凶々しくも輝かしいのである! これこそが幻想/幻聴/幻視の真実というものだろう。ローマ帝国はカルタゴを滅ぼすのである! 彼らの勝利の行進曲が、どうして不吉に響かないことがあろうか!
カタログから消えているデイヴィス盤を、推薦する。しかし、一方はカタログから消えているとはいえ、この歌劇を「聴き比べる」ことが出来るとは、いい時代になったものである。(メトのLDについては、ここでは触れない。語るに値せずという訳ではなく、評価の基準を変えざるを得ないからである。)デュトワ盤の出現には、心から感謝したい。また、これも繰り返すが、「シノンの場」の復元は、重要な功績であった。
(歌詞とト書きの翻訳は、拙訳による。)
Last Updated: Dec 28 1995
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