幻想交響曲の鐘について − 1992年3月20日の覚書



 幻想交響曲の第5楽章で鳴らされる弔鐘について調べてみた。

 久し振りにこの曲(の特に第5楽章)を集中的に聴き比べてみて、今更ながら、この作品の素晴らしさに魅了されてしまった。確かに、夢想を音楽事象として定着させる術としての管弦楽操縦技法に関しては、後年の作品群には及ばないのであるが、手法の若さ(ロマンティックなアイデアや素材の剥き出しの使用)が魅力的なのである。漫画的というか、ほとんどアニメ的な感覚の作品でもある。さらに言えば、江戸川乱歩的ですらある。(とすると、ヴァーグナーは横溝正史かな。[;^J^])

 この作品のプログラムを今更紹介することはしないが、第5楽章のみトレースしてみよう。(幻想交響曲に関する詳細については、「第1講 幻想交響曲」を参照していただきたい。)

 断頭台で首を落とされた主人公は、地獄で目を覚ます。地獄の沼(?)の陰欝な情景−この導入部の設定が秀逸である。作曲者自身の後年の最高傑作『ファウストの劫罰』、あるいはリストの『ダンテ交響曲』などに聴かれる様に、地獄の情景と言えば、まず、おどろおどろしいファンファーレで心胆寒からしめるのが通例なのだが、ここでは、ひっそりとひんやりと始まる。第4楽章終結部の「地上のエピローグ」の華々しいファンファーレのフォローとして、これほど効果的な導入部はあるまい。

 ここで、うめき、呟き、遠吠えを交わす怪物どものひそやかな描写は、直ちにヒエロニムス・ボッシュの絵画を想起させる。続いて、主人公の恋人が娼婦の姿で現われる。怪物どもは歓呼してこれを迎える。そして弔鐘が鳴り響き、主人公の葬礼のパロディが始まる。全曲中の白眉とも言うべき名場面である。

 厳粛?に鳴り響く弔鐘を背景とする、ディエス・イレーの変奏。主題呈示はバスーンとオフィクレド(普通はチューバで代用)のフォルテのユニゾン、第一変奏は金管群の猛々しいコラール、第二変奏は弦のピッチカートと木管群の、跳ね回る様な嘲りの音型。これが3セット繰り返される(小規模ながらABA’の形をとる)のだが、主題呈示の2回目(B)には低弦のピッチカートが、3回目(A’)にはテヌートの低弦と大太鼓が、オフビートで加えられる。非常にシンプルなスコアであるが、ボッシュ的な地獄の情景、悪魔どもの「悪ふざけ」を、まさに絵画的に描きだす。教皇の扮装をした怪物や、異形の聖歌隊の姿を目の当たりにする思いだ。

 主人公に対する嘲弄が一段落すると、いよいよ地獄の祝祭が本格的に始まる。フガート風のロンドが大きく盛り上がった後、一旦静かになると、遠くから再びディエス・イレーの響きが聞こえてくる。そして、大太鼓のピアニシモのトレモロを背景に、ミュートしたホルンの「醜い」叫びを交えながら、ロンドの主題が、また、じわじわと湧き上がってくる。亡父が「『ゲゲゲの鬼太郎』の大先輩だなぁ」と感嘆した箇所である。そして高潮しきったところで、熱狂的なロンドの主題を背景に、金管群がディエス・イレーを朗々と吹き鳴らす。(ブリテンの『青少年のための管弦楽入門』のクライマックスは、明らかにこの箇所を想起させる。)この神聖な旋律に対する愚弄の極みと言うべきか。そして、この音楽漫画の総仕上げとして、コル・レーニョによる骸骨のダンス。後は一気呵成のコーダ。



 さて本稿の主題である「葬礼」のシーンの「弔鐘」だが、これは「嘲笑」でもあるので、そういう邪心をもって響くべきだとも言えるし、逆にむしろ厳粛に響くことによってこそ、邪悪なパロディが効果的になるとも言える。

 スコアを紐解いてみると、このパートは「2 Campane in C.G. o Pianoforte」(全音楽譜出版社、Eulenburg社のポケットスコアとも。Barenreiter社の新全集版では、2 Cloches ou Piano)と記されており、下に代用のピアノパートが書かれている。Campane も Cloche も鐘である。いずれにせよ、チューブラーベルは指定されていないが、演奏会場で鐘を使うことは容易ではなく、チューブラーベルで代用されることが多い。

 代用のピアノパートであるが、音楽的にも内容的にもピアノで演奏する意味はないと思われ、従ってこれは、作曲当時(1830)の小規模楽団、小規模会場を念頭に置いた妥協であろうし、実際、こんにちではピアノが使用される機会は皆無に等しくもあるので、特に考察する必要はあるまい。..と、思っていたのだが、新全集版を調べていて、どうもそうとばかりも言えないことに気が付いた。確かに妥協には違いないであろうが、作曲者がかなり真剣にピアノパートに心を砕いた形跡があるのである。

 ベルリオーズはスコアに「もしも、十分に低い音の2つの鐘を見つけることが出来なければ、舞台前面に置かれた複数のピアノを用いる方が良い。その場合は、鐘のパートを記譜のまま、1オクターブ下と2オクターブ下で演奏せよ」と脚注している。つまり、十分に低い音を鳴らせない鐘よりはピアノの方が望ましいのであって、こんにち普通に使われているチューブラーベル、あるいはハイピッチの鐘の使用は、実は正しくないのである。この脚注は自筆譜にも自筆譜への註釈にも出版譜にもある。(面白いのは、新全集版の解説によると、鐘は舞台裏と指示されているらしいのに対し(スコアにはこの記載はない)、ピアノはステージ上と指示されていることである。音量バランスを配慮してのことであろう。)

 ピアノの台数の指定は一定していない。自筆譜と出版譜では「複数」だが、自筆譜への註釈では「少なくとも2台」、自筆譜と出版譜のパート譜のタイトルには「1台」とある。この矛盾は、ピアノパートについて色々と試行錯誤をしたり、考え直したりした証拠だと思う。1859年のある手紙では、鐘には一切触れずに、単に1台のピアノを要求したりしている。

 ピアノパートに対する指定でもうひとつ注目すべき点は、弔鐘の第一打の小節に「Grande Pedale」と書き込まれていることである。これは、ダンパーペダルを踏みつづけよ、という意味だと思われる。



 手持ちの幻想交響曲のCDについて、鐘、チューブラーベル、ピアノ、のいずれが用いられているのか調べてみた。(ライナーノート等に明記されている場合を除いてヒアリングチェックなので、事実誤認があるかも知れないが、その場合は勘弁して欲しい。[_ _])

 先にこのパートの詳細を説明しておくと、これは、

・ ・
ハ−ハ−ト
         ・

の繰り返しであり、ハは、各々付点2分音符×2(即ち、6/8拍子2小節)、トは、付点2分音符×3+付点4分音符(即ち、6/8拍子3.5小節)。これが11回繰り返される。3回目だけが、最初のハ音がp、次のハ音(と、ト音)がppであり、他は全てf。3回目を除き、全ての音にアクセント。つまり、作曲者によるダイナミクスの指示は、極めて単純なのである。代用のピアノパートは、鐘に対して1オクターブ下と2オクターブ下の音が重ねられている以外の違いは無い。また、上述の3種のスコア間の記譜上の相違も無い。以下、録音年代順である。



*Koussevitzky:ボストン交響楽団:AS:AS 552:1943
 ライヴ録音であるが、鐘を使っている。3回目は非常に小さく(遠く)、この回のみ舞台裏で叩いているのかも知れない。
*Monteux:サンフランシスコ交響楽団:RCA:ORG2011:1950
 チューブラーベル。ダイナミクスは譜面の指示に忠実。上述した様に変化に乏しい指定なので、この通りに演奏すると単調になりかねないのだが、とにかく圧倒的な名演奏であり、単調どころの騒ぎではない。
*Munch:ボストン交響楽団:RCA:6210-2-RC:1954
 チューブラーベル。3回目のp、ppを、あたかも舞台裏から聴こえてくるが如き距離感で表現し、4回目(の最初のハ音)を、1、2回目よりも強く叩く(あるいは近距離で鳴らす)、という、多くの録音で採用されている手法を取っている。
*Beecham:フランス国立放送局管弦楽団:EMI:CDC-7 47863 2:1957
 チューブラーベル。これといった特徴は無いが、ダイナミクスの変更はきめ細かく、ミュンシュの1954年盤を想起させる。
*Cluytens:フィルハーモニア管弦楽団:EMI:CDZ 7 62605 2:1958
 チューブラーベル。1回目から、異常に遠く小さい。3回目は殆ど聴こえない位だ。4回目から少しまともな音量になるが、前景で暴れまくるオーケストラに辛うじてかき消されない程度である。
*Ormandy:フィラデルフィア管弦楽団:SONY:SBK 46329:1960
 中音域のこもった鐘。ブラスにマスクされて、やや聴こえにくい。
*Munch:ボストン交響楽団:RCA:R25C1027:1962
 チューブラーベル。1954年の録音と同じ路線の演出。1、2回目からかなり大きく、従って、4回目はちょっと吃驚するほどの大音量であるが、5回目以降は、大体普通のfになる。
*Monteux:ハンブルク北ドイツ交響楽団:DENON:28C37-18:1964
 チューブラーベル。1950年の録音と同じく、ダイナミクスは譜面に忠実で小細工をしていない。音量はかなり小さい。チューブラーベルにしてはピッチがいまいちで、ト音がかなりフラットしている。
*Cluytens:パリ音楽院管弦楽団:KING:K32Y-183:1964
 チューブラーベル。東京文化会館でのライヴ録音。やはりピッチが悪く、ト音が非常にフラットしている。ダイナミクスは譜面に忠実。
*Karajan:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団:DG:429 511-2:1964
 中〜低音域の鐘。ベルリン・フィル的な響きとでも言おうか。ベルリオーズの想定した音域・音量に最も近いのではないかと思われる。
*Boulez:ロンドン交響楽団:CS:73DC257~9:1967
 チューブラーベル。バランスは控え目。全体に、暗く物憂げで極端に前進性に乏しい、ユニークな解釈の演奏である。(幻想交響曲を聴いていて眠たくなるというのも、珍しい経験ではあるまいか。)
*Munch:パリ管弦楽団:EMI:TOCE7008:1967
 チューブラーベル。明瞭なピッチの、硬質で輝かしい響き。この録音は、クラシックを聴き始めて以来、ほとんど四半世紀に渡って私の幻想交響曲のレファランスとなっているので、客観的な判断が難しい。
*Stokowski:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団:LONDON:K30Y1513:1968
 鐘とピアノを重ねている。スコアでは、いずれか一方を指示されているのにも関わらず、両方同時に使ってしまうあたりがストコフスキーらしい。実際、様々な意味で破天荒な演奏である。
*Solti:シカゴ交響楽団:DECCA:417 705-2:1972
 チューブラーベル的だが、おそらく鐘。定位は遠い。
*Martinon:フランス国立放送管弦楽団:EMI:TOCE6131~2:1973
 チューブラーベル。ミュンシュ/パリ管の響きに極めて近い。
*Davis:アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団:Ph:32CD156:1974
 鐘。非整数倍音群とは別に、基音がやけにはっきりと聴こえる。ピッチは明瞭で、ダイナミクスの小細工もない。
*Bernstein:フランス国立管弦楽団:EMI:TOCE6751~3:1976
 チューブラーベル。ミュンシュ/パリ管型。
*Barenboim:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団:CS:32CD533:1984
 鐘。銅羅のような倍音を含む、不健全極まり無い響き。
*Abbado:シカゴ交響楽団:DG:410 895-2:1984
 「広島の平和の鐘」である。実に深くて美しい響きだ。これは確かに話題性だけを狙った起用ではない。地獄で鳴らされた鐘の嘆きはともかく。[^J^]
*Kegel:ドレスデン・フィルハーモニー:DS:32TC174:1984
 鐘。ピッチが非常に低いが音色は丸く、あまり刺激的ではない。
*Dutoit:モントリオール交響楽団:LONDON:F35L50194:1984
 鐘。3回目まで(暗くざらついたp)と、4回目以降(明るいmf)で、かなりはっきり音色が違う。後者がチューブラーベルとも思えない。同じ鐘でも叩き方でこれだけ差が出るのか、ふたつの鐘を用意したのか。
*Muti:フィラデルフィア管弦楽団:EMI:CDC 7 47278 2:1985
 比較的ピッチが明瞭な、低音の鐘。ダイナミクスは安定している。
*Inbal:フランクフルト放送交響楽団:DENON:CO3218~9:1987
 鐘。安定したハイピッチのザラザラした音色。はっきりいって量感は軽い。材質が薄い感じだ。
*Norrington:ザ・ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ:EMI:TOCE5956:1988
 陰々滅々としか形容のしようがない、低くて、やや不明瞭なピッチの鐘。オリジナル楽器バージョンとして話題を呼んだが、あるいはピアノを使う方が、「当時の演奏の再生」としては妥当だったかも知れない。
*Dohnanyi:クリーヴランド管弦楽団:LONDON:POCL1060:1989
 音色から判断すれば、おそらく鐘。音程感が明瞭なので、もしかしたらチューブラーベルかも知れないが。定位は遠い。
*Plasson:トゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団:EMI:CDC 7 54010 2:1989
 ハイピッチだが、鐘かチューブラーベルか、自信を持って判別できない。全体に実になめらかな、不気味な色気を放つ演奏である。[;^J^]
*Levine:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団:DG:431 624-2:1990
 低くザラついた懐の深い音色の鐘。大量の空気を抱え込んで鳴らしている感じである。
*Davis:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団:Ph:PHCP174:1990
 ハイピッチの鐘。非常に余韻が長く、美しい。ビート(うねり)が聴こえるのは、珍しい。

 番外として、
*Nikolai Petrov:Franz Liszt,Nikolai Petrov 編:A&E:TECC30104:?
 これは、録音年不詳。リストの編曲にペトロフがさらに手を入れたピアノバージョンであり、当然、鐘のパートはピアノで代用されている。[;^J^] ただ、作曲者が書いたピアノ代用譜ではオクターブ重ねだったのだが、この編曲では、ハ短調の主和音を鳴らしている。


 傾向としては一目瞭然、昔はチューブラーベルが多く用いられていたのに対して、1980年代以降、ほぼ全面的に鐘に切り換えられているのである。これは録音技術の進歩によるものであろう。

 特に優劣を付けるべき筋合いの物でもないのだが、この中では、アバド盤の広島の鐘と、デイヴィス/VPO盤が、もっとも美しいと感じる。無論、曲が曲であるから、醜い方が相応しいという考え方もあろう。ならば、インバル盤かノリントン盤か。以上全て”鐘”バージョンであるが、ミュンシュ/パリ管盤のチューブラーベルの輝かしい凶々しさも、忘れる訳にはいかない。



 ベルリオーズが代用のピアノパートに気を配ったのは、(空想上のマンモスオーケストラではなく)現実のコンサートに於て、より良い効果を得ようとした苦心の現われである。低音にこだわった彼が、こんにちしばしば用いられるハイピッチの鐘やチューブラーベルの使用を容認するかどうかは判らない。しかし、現代の録音では、彼の望んだであろう低い音はもちろん、予想もしなかったかも知れない音をも聴くことができる。この可能性の豊かさこそが再生芸術の存在理由であり、命でもある。

 黄金時代なのだ。



MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: May 18 1998 
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