ブラック・ジャック 10

*白い目

 大病院の手術室に、白い目で迎え入れられたブラック・ジャック。この病院の医師たちには、患者の奇病を治せず、ブラック・ジャックの手を借りるほか無いのだ。こともあろうに、無免許医の。主治医の酒鬼原は、無念やるかた無い..

 難しい肺塞栓の患者だった。血管の中に詰まった血の塊を、何度取り除いても、再発してしまうのだ。そして患者は、今度手術するのならブラック・ジャックに、と指名したのである。プライドを傷つけられた医師たちは、しかし、患者の希望を容れることにした。失敗しても、ブラック・ジャックの責任である..

 手術中のブラック・ジャックに対して、全員、徹底的に非協力的である。道具も手渡さないのだ。手術中、何度も患者の心臓は止まりかけるが、もう死んでいる、無駄だ、と主張する酒鬼原医師に対して、ブラック・ジャックは、今、中断すれば、それこそ患者が死んでしまう、と、手術を続行する。そして、酒鬼原医師が何度も切開した箇所の血管に、何か問題があるに違いない、と、そこを人工血管に取り替えた。既に脳波も心臓も停止していたが..手術を終え、切り取った血管は、調べたいのでもらっていく、と、退出したブラック・ジャックを、冷たいで視線で見送る医師たち..

 そのとき、患者が蘇生したのであった。

 後日、酒鬼原医師は、ブラック・ジャックに謝罪していた。あの患者の難病は、その後、再発しないのだ。彼の処置が正しかったとしか思えない。ブラック・ジャックの調査でも、確かに、血管のその部分に原因があったのだが..しかし、是非ともその資料をいただきたい、徹底的に調べてみたいので、という酒鬼原医師に対して、ブラック・ジャックは、資料など作っていない、と告げたのである。


「モグリの医者が資料なんかつくったって…、役に立ちませんよ。こんなりっぱな病院ではねえ」

 ..これは、どうにも納得が行かないところである。世の中のためになっていない。今も世界のどこかで、同じ病気で苦しんでいるかも知れない、他の患者を救えない。悪く言えば、ノウハウを独占してしまっているわけだ。最後の捨てぜりふは、自分を「白い目」で遇した連中に対する、単なる当てつけにしか聞こえない。

*土砂降り(原題:メス、土砂降り)

 離れ小島の校医、清水きよみを訪れたブラック・ジャック。かつて世話になった清水幾男医師に会いに来たのだが、彼は、一年前の豪雨の日、子どもたちを避難させようとして、校舎の裏の崖崩れで亡くなっていた。きよみは幾男の妹だった。

 以前、飛行機の中で、異物を飲み込んだ子どもを救おうにも、メスの持ち合わせがなかったブラック・ジャックに、メスを渡してくれたのが、清水幾男医師だったのである。その一本のメスのおかげで、貴重な命が救われたのだ。その時のお礼に、ブラック・ジャックは、自分の宝であるメスをプレゼントするために来たのである。高い費用をかけて、ある有名な研ぎ師に研いでもらっている、このメスの、切れ味を試していただきたかった..代わりに、きよみに使っていただきたい、と差し出すが、内科医の私には不用である、と、きよみは受け取らない。

 この島には、医師がふたりしかいなかった。診療所の幾男と、校医のきよみと。今はきよみが掛け持ちだ。本土まで帰る連絡船は明日まで無いので、ブラック・ジャックは、診療所に泊まることになった。

 その夜、集団食中毒が発生した。きよみは、診療所に泊まっているブラック・ジャックに、手助けを求めるが、ブラック・ジャックは、中毒は内科の担当でしょう、外科医の私が出る幕じゃない。あなたは内科医、さっきそういったでしょう?と、手伝わない。むかっ腹を立てながら、島じゅうを自転車で診察してまわるきよみ。へとへとになって診療所に帰ってきたら、重傷を負った校長をブラック・ジャックが診察していた。突風で、崖から自転車ごと落ちたのだ。ブラック・ジャックは、今夜は風が強く、道も悪いし足元も暗いので、何かおこる可能性がある、と、診療所に残って待機していたのである。

 今度は私の専門、と、ブラック・ジャックは、内科医のきよみには手を出させずに、手術を開始する。このメスの切れ味を見てご覧なさい、と。手際よく手術するブラック・ジャックに、きよみの熱い視線..

 翌朝、食中毒の患者たちの症状も収まりつつあった。そしてきよみは、顔を赤らめながら、ブラック・ジャックに、「メス…、いただけません………?」(なんで、欲しいのさ。使い道は無いんでしょ?[;^J^])

 さて、土砂降りで、今日も連絡船が出ず、島に閉じこめられたブラック・ジャック。(最初に泊まった日の翌朝は晴れていたのだが、そのすぐあとから、降り始めたのだろう。)大型の熱帯性低気圧だ。

 雨で地盤が緩んで来たなか、きよみは、小学校の講堂完成セレモニーに引っぱり出された。彼女はスピーチで、この講堂を造った金の半分は、国庫からの、学校の裏の崖の補修をするための費用ではないか、と暴露し、こんな講堂よりも、崖の補修を、と、訴える。そして、ブラック・ジャックに対する恋心をつのらせる一方の、きよみ..きよみの気持ちを知ったブラック・ジャックは、やんわりと拒絶する。

 ついに、あの崖が崩れた。埋まりそうなった子どもを助けようと、きよみは子ども共々生き埋めになる。ふたりは掘り出され、ブラック・ジャックが手術をし..子どもは助かったが、きよみは、もとより手術に耐えられない体であったのだ..手術後、きよみは言い残した。


「もし先生のお顔を整形手術するんでしたら……、私の顔の皮フを使って……お願い……。そうすれば……先生といつも……、いっしょにいられ……ます…から……」

 雨が上がったのち、きよみの墓参りをするブラック・ジャック。彼は、整形手術はしなかった。きよみの想いを裏切るようだが..この皮は、ブラック・ジャックにとって、大事な皮。それに、きよみの美しい顔にメスを入れたくなかったのだ..

 きよみを死なせる必要は、無いように思える。が、ふたつの墓参り(それも同じ死因による)によって、シンメトリックな外枠を形成しては、いる。

*とざされた記憶

 トキワ荘の管理人、ヒゲオヤジ。彼の頭の古傷は、戦争の時に後ろから殴られた傷なのだが、いつどこで、なぜ殴られたのか、彼は全く憶えていなかった。それはひどく重大なことだったはずだ..そのことが気になって、道楽も結婚もしなかったのだ。それは、ロウソクに関係があることの様な気がするのだが..

 ある日、悪漢たちが管理人室に押し入ってきた。三十年前、軍が隠した埋蔵金ならぬ埋蔵ガソリンのありかを、吐かせに来たのだ。ヒゲオヤジは、そのことを忘れてしまっていた。悪漢たちの首魁であるランプによると、戦争の終わり頃、30万ガロンのガソリンが沖縄へ送られる予定だったが、沖縄が占領されたので、輸送船は途中から引き返して、どこか別のところへ、それを隠し..その後、この輸送船は敵機の攻撃を受けて沈没して、事情を知っている者は、全員死んでしまったのだ。ただ一人の生き証人、ヒゲオヤジを残して。

 思い出せないものは思い出せない。リンチされても駄目だ。悪漢たちはヒゲオヤジを、ブラック・ジャックのもとに引っ立てて行く。ブラック・ジャックの診断では、完全な記憶喪失だ。後頭部への強い打撃によって血の固まりが出来ており、それが脳を圧迫しているのだ。それを除去すれば、あるいは記憶が戻るかも知れないが..悪漢たちに強要され、選択の余地無く、ブラック・ジャックは手術を行い..そして、ヒゲオヤジの記憶は戻ったのだった。

 それは、伊豆七島のはずれの辺鄙な島であった。ヒゲオヤジと悪漢たちは島に上陸し、滝の裏に隠された洞窟へ。そこに、30万ガロンのガソリンが隠されていた。悪漢たちは大喜びだが、しかしヒゲオヤジは、この場所を思い出しただけではなかったのだ。

 ヒゲオヤジは、ゆっくりと思い出し始めていた..参謀閣下は、本土決戦時の最後の砦とするために、ここにガソリンを隠した..戦争は早く終わらせなければならない。本土を戦場にするなんて、とんでもない..このガソリンは燃やさなくてはならない..だから、わしはひとりでこっそりと洞窟に戻り、そこにあったロウソクを取って..ここでヒゲオヤジの記憶は現実とつながり、ランプの頭からロウソクを奪う! わしの後頭部を殴って海に突き落としたのは、参謀閣下だ。わしはお国のために、どうしてもこれを燃やさなくてはならんっ!

 そして、ヒゲオヤジと悪漢たちもろとも、30万ガロンのガソリンは、大爆発を起こした。人間は、記憶が戻ると、ちょうど記憶を失った時の行動を、無意識に取ることがあるのだ..

 深刻な話だが、ランプの頭からロウソクを奪うという、劇画のシチュエーションでは描きようの無いギャグが、さりげなく差し挟まれている。しかも単なる息抜きギャグではなく、このシリアスなカタストロフィに、がっちりと組み込まれているのである。これが、劇画と漫画の違いなのだ。

 ヒゲオヤジは、何故か「トキワ荘」の管理人だし、トキワ荘に住んでいた漫画家たちも(チョイ役で)顔を出しているが、このネーミングに、特に意味はなさそうである。

*けいれん

 とある大病院で、弁状気胸の手術中に痙攣を起こし、執刀できなくなったブラック・ジャック。代わりの医者が執刀して、手術自体は大過なく終わったのだったが..実はこういうことは、今までにも何回か、あったのだ。「これで、私がまともに医師免許をとれないことがわかったろう!!」、と、手塚医師に叫ぶブラック・ジャック。(免許を取れない理由としては、新ネタである。)

 コーヒーも満足に持てず、俺ももう駄目か..と沈んでいるブラック・ジャックの様子を案じた山田野医師は、本間医師の診察記録を調べる。黒男少年は、酷い外傷を受けていただけではなく、開放性弁状気胸も起こしていた。これが原因だったのだ。弁状気胸のために死ぬような苦しみを味わったので、気胸の手術の時にはそのときの苦しみを思い出し、無意識の強迫観念に脅かされて、手術ができなくなってしまうのだ。

 これは精神的な問題だ。彼を救うために、山田野医師は、一計を案じる。気胸の患者を手配すると、気の進まないブラック・ジャックを呼びだして、執刀に当たらせる。そして手術中に、自分は心臓発作が起きたフリをして、ブラック・ジャックひとりに執刀させる。もしも患者が死にでもしたら、君を訴えてやるぞ、ろくでなしのドシロウトとしてな、という、山田野医師の言葉に発憤して、ブラック・ジャックは、ひとりで手術をやり遂げた。ブラック・ジャックの病気は、治ったのだ。

 このネタ(指の痙攣や麻痺)は、ゴルゴ13にもある。どちらが先だか、今は判らないし、先行例も(後続例も)いくらでもありそうである。

*イレズミの男

 あなたの手術された患者のことについてぜひ会いたい、という手紙で、R大学の法医標本室に呼び出されたブラック・ジャックは、外から鍵をかけられ、標本室の中に閉じこめられた。そこには、世にも見事な人間の“なめし革”が展示されていた。全身にイレズミを彫った、香取仙之助の皮だ。その部屋でブラック・ジャックを待っていたのは、仙之助の息子、洋一であった。

 香取仙之助は、配下七千人を持つ、日本の古いタイプのヤクザとしては、最後のひとりだった。腎臓癌になったが、何故か手術を拒み、思いあまった夫人や側近が、ブラック・ジャックを呼びだしたのだ。

 まさに世界にふたつとない、見事なイレズミの持ち主であった。自分は人間の屑でしかないが、さすがは香取仙之助だ、と感心されるものを、ひとつは残したい。それが、このイレズミなのだ。だから、傷を付けたくない。体を切るくらいなら、このまま死んだ方がましである..

 切らねば手術は出来ない。背中も腹も、全身にイレズミが彫られているのだ。イレズミが無いのは顔くらいなのだが、なんとか手術をして助けてやってくれ、という夫人のたっての願いで、ブラック・ジャックは、手術を敢行した。絶対に傷をつけない、と、香取仙之助に約束して。そしてブラック・ジャックは、背中のイレズミの真ん中を切った。それを察知した子分たちは殺気立つが、夫人が制止し、私の目の黒いうちは、子分たちに手出しさせない、と、ブラック・ジャックを送り出したのであった。

 その後、いったん全快した香取は、二年前に死に、その時、あまりにも見事なイレズミを惜しんで(あるいは、香取の遺言によって)、その皮は大学で剥がされ、ナメして保存されたのである。香取は生前、手術の跡を、誰にも見せなかった。死んでからも、誰ひとり、傷跡を調べたものはいない。秘密を知っているのは夫人だけだが、彼女も五日前に亡くなった。今こそ、傷跡を確かめるべき時が来たのだ。洋一自身はヤクザではないが、父が一番気にしていた傷が皮に付いていたら、息子として許すことは出来ない。ブラック・ジャックを、子分たちに引き渡す..

 なめし革を壁から下ろして、調べる洋一。しかしなんと、傷が見当たらないのである! 覗いていた子分の話では、背中をまっすぐ切ったはずなのに。一体、本当に手術をしたのか?

 ブラック・ジャックは、傷を残さないように、切ったのである。鋭利な刃物で、皮膚や筋肉の走る方向に沿って、素速く正確に切れば、ふさがれた傷口は無くなってしまうものなのだ。しかしやはりイレズミを切ったことには間違いない。オヤジを裏切ったんじゃないか、オヤジはきっと先生を憎んで死んだに決まっている..しかし皮の隅に、あとから彫り足されたらしい、小さなイレズミがあった。「ブラック・ジャック先生よ、ありがとう」。それは香取仙之助の遺言だった。洋一は、だまってドアを開けて、ブラック・ジャックを送り出した..

 なめし革を作るとき、誰も確認しなかったのか? 子分たちは、誰もこの標本室に調べに来なかったのか? というのは、つまらない突っ込み。ここでは、ブラック・ジャックのメスさばきだけがテーマである。

*侵略者

 病院のベッドでサトル少年は、自分の周りの人間たちが、何か人間以外の侵略者に入れ替わってしまっていることに、気が付いていた。彼は監視されているのだ。彼のママも、ママにそっくりだが、ママじゃない。おやつを置いていったが、これにも毒が入っているに違いない。主治医も看護婦も、贋物だ。

 二ヶ月前から、サトルの体に異状が発生していた。お腹の片方だけが奇妙な腫れ方をし、みるみる巨大になって..そして入院したのだ。ママはとても優しかったが、昨日の朝から、別人のように態度が変わってしまった。ママだけじゃなく、看護婦も主治医の田口先生も、見舞いの人も..昨日をさかいに、変わったのである。こんな小説を、彼は読んだことがあった。人間がひとりずつ消され、侵略者に入れ替って行く..この病院は、いや、病院だけでなく、町全体、東京全体が、宇宙人にすりかわっているのかも知れない..彼は、よそよそしい態度の主治医に逆らって、夜の病院の病室から廊下に逃げ出し、走り出す。そこはガランとしていて、ひとけがなく、まるで悪夢の中の情景のよう..そして息を切らして意識を失う寸前、彼が見た無気味な人影は..

 意識が戻ったとき、サトルはまた、病室に戻されていた。そして再び意識を失って..病室のドアを開けて、謎めいた少年が入ってきた。サトルを助けに来たというのだ。喜びいさんで、彼について病院の外へ逃げ出したサトルの前に、深い地割れが。そこを思い切って飛び越さなければ..しかし足がすくみ..そこで目が覚めた。夢だったのだ。あの少年は誰だ? 救い主だろうか? そして侵略者である医者たちが、少年を検査する機械を病室内に用意しはじめた時、少年は、いよいよ実験台にする気か!?と暴れ出すが、その時室内に入って来たブラック・ジャックに、はり倒された。それは、いつか、廊下で意識を失う寸前に見た男であった。

 ブラック・ジャックは真実を告げた。少年の病気はウィルムス腫。病院で匙を投げて、ブラック・ジャックが呼ばれたのだ。それほど、サトルの病気は悪いのだ。あとせいぜい一週間しか生きられない!

 このことが判ったのは、昨日の朝だったのだ。サトルに真相を気づかせまい、と、みんな苦労したのだ。だから、全員よそよそしい態度になったのだ。インベーダーだからでは、なかったのだ。一方、ブラック・ジャックには信念があった。死ぬ人間には、はっきり死ぬと言う方が、残り僅かな人生を有意義に使える。

 ブラック・ジャックに、あと一週間、生きる努力を出来るか?と聞かれたサトルは、出来る!と答える。手術も受ける! 手術中、再び、あの夢の少年が現れた。そして、思い切って、この地割れを飛び越せ、と誘惑する彼は、死神の本性を現した。彼こそがインベーダーだったのである。サトルは、僕は死なないぞ!と、死神を追い返す。

 序盤のシチュエーションは、SFとしては非常にありふれた、親しみやすいものであり、それと「死の告知」の問題が、水際だった巧みさで組み合わされている。

 周囲の人間が(親も含めて)全て「本物では無い」のではないか、という「インベーダー幻想(妄想)」は、少年期ならではのものであって、多くの読者は、身に憶えがあるのではないか。(少なくとも私には、ある。)

*浦島太郎

 大正13年の炭鉱事故で、炭鉱内の父に弁当を届ける最中だった、当時15歳の少年・Cさんは、それ以来、実に55年間、生きる屍として、意識を取り戻さずに眠り続けていた。肉体的には、全く歳を取ることなく..!

 病院は、発育と老化現象が止まってしまった、この患者を、出来ればずっと研究し続けたいのだが、研究費は出ず、しかも月に60万円もかかる。つまり病院のお荷物と化してしまっていた。安楽死させる他はない..

 そこで、ドクター・キリコが呼ばれたのだが、その前に最後の手術を試みるために、ブラック・ジャックも呼ばれていた。今までに、このような植物人間を、5回も脳手術で救っていたからだ。診察の結果、ほとんど治癒の見込みがないと見限ったブラック・ジャックは、無駄な手術はやりたくない、と、引き上げるところだったが、ドクター・キリコも呼ばれていたということを知るに及んで、手術費は度外視で手術をすることにした。キリコに、明晩12時、と、時限を区切られて。

 18時間に及ぶ難手術を終えたブラック・ジャック。そしてCさんは、ついに意識を取り戻したが..かけつけたブラック・ジャックたちの前で、自分が55年間眠っていたあいだに、お父さんも家族も、皆死んでしまったということを知らされて、一気に老化し、老衰死してしまった。そのことを知らされたキリコ共々、ブラック・ジャックは、自分たちの無知・無力に、打ちひしがれる。

*身の代金

 誘拐事件。犯人は、左腕に銃弾を受けながらも、身の代金の受け渡し場所で待ち伏せしていた警官たちの追跡を振り切って、身の代金・一千万円を奪って逃走することに成功した。

 指示に逆らって警察に連絡され、こんな傷も負わされた以上、人質をこのまま帰すわけにはいかない、もう一稼ぎさせてもらう、と、隠れ場所の山小屋の中で、誘拐犯と人質の少年との、奇妙な共同生活が始まった。少年は、なぜか誘拐犯に馴染み、逃げられるチャンスがあっても、逃げないのだった。少年は、この「おじさん」を見捨てられず、誘拐犯も、少年に対して親身になり..そして、少年の脚の傷が化膿して悪化した時、(こんな立場の人間でも治療してくれるという)ブラック・ジャックを、山小屋に呼びだしたのだった。

 ブラック・ジャックは、このふたりが、誘拐犯と誘拐された少年であることに、すぐに気が付いたが、だまって治療を開始する。治療費は、1000万円! 誘拐犯は、せっかくの稼ぎの1000万円を、全て差し出した。(ブラック・ジャックは、何を思う?)

 そして少年の手術が無事にすむと、ブラック・ジャックは、続いて、誘拐犯の左腕の診察と手術を、強引に開始した。少年の脚よりも症状が酷かったのだ。止血のためにきつく縛りすぎており、完全にひからびて、使い物にならなくなっていた。切断する他ない。切断手術を終えたブラック・ジャックは、麻酔で眠っている誘拐犯を置き去りにして、おじさんがひとりぼっちになっちゃう、と、心配する少年を連れて、共に逃げる。目が覚めて、少年が逃げたことを知った誘拐犯は、どうして自分を捨てたんだ、と、泣く..

 後日、誘拐事件のことなど忘れて無邪気に遊ぶ少年の姿を、密かに見に来た誘拐犯。犯人が犯行現場に帰ってくるかも知れない、と、張り込んでいた警官たちは、彼が怪しいと気が付くが、唯一の証拠である銃創を確認するために、左腕を見せてもらおうとしたら、左腕が無い。立ち去る彼の後ろ姿を、警官は恐縮して見送ってしまうのであった..

 左腕が無い、というだけでも、それなりに怪しいと考えるべきなんですけどね。まぁ、いい話だから、いいか。

 誘拐(または人質)事件の被害者が、犯人へ感情移入(意気投合)してしまう「ストックホルム症候群」とは、少し異なるようである。この無邪気な少年は、最初から犯人に対して、ほとんど全く警戒していない。

*落としもの

 父親は、息子に深刻な相談を持ちかけていた。ママの命を救うためには、ブラック・ジャックという、ものすごくお金のかかる医者にかかるほかはない。そのためには、家も家財道具も一切合切売り払って、無一文になってしまうが、それでもいいかい? 幼い息子は、もちろん、住む家が無くなっても、ママがなおった方がいい!

 しかし、物忘れ(というか置き忘れ)のクセがある父親は、ものの見事に、全財産を売り払った3千万円の小切手を、駅のトイレに置き忘れ、それは駅のゴミの山の中に紛れ込んでしまったのだ。半日以上かけて、必死になってその山の中を探したが、見つけることが出来ない..

 子どもに会わす顔が無い..それでも彼は、ブラック・ジャックの医院に、重い足を引きずって行くが..ブラック・ジャックの提示していた手術料を、作るには作ったが、紛失した、という父親に、手術料をもってこなければ話にならん、それとも、他に手術料を作るあてでもあるのか、と、ブラック・ジャック。父親は、俺の体を売る! 内臓でも手足でも持って行け! どんな人間の手術にも使えるぞ、全部先生に売る! これで足りなければ、因果を含めるから、息子の体も持って行け!

 ブラック・ジャックは承諾し、父親に、いつなんどきでもブラック・ジャックに肉体を提供する、という契約書を作らせた。そして、本番の手術にかかる前に、いったん車で町まで出かけるが、途中で、先ほど受け取った契約書を、窓から(わざと)落としてしまう。そして警察にかけこむと、大変なものを落としてしまった、それがないと、私はただ働きをしないといけない、と、落とし物の届け出をする。その隣で警官たちが、3千万円の小切手が見つかったけど、落とし主には、まだ連絡がつかないのかい?と話している。こんな奇跡的なことは滅多に無いので、あまり期待しないように、と警官に諭されたブラック・ジャックは、うらやましいですなぁ、その人、と呟いて、交番を出て行った..

 家族の命を助けるためには、自分の体だって売る、とまで覚悟した意気に感じて、敢えてただ働きするブラック・ジャック。

 この父親は、ブラック・ジャックに対して、まことにもっともな疑問をぶつけている。


「なぜ先生は、あんなに高く請求なさるんです。ムチャクチャだ!!」
「ムチャクチャ…? 高いと思いなさるかね。そりゃァあんたが、死ぬほどの苦しみをしていないからですよ。苦しがってる病人は、命さえ助かるなら全財産手ばなしたって、かまわないと思う……。なおしてもらうありがたみは、本人しかわからないもんです」

 いまだに、いまいち納得できない論理である..

 物忘れ(というか置き忘れ)のクセについては、全くもって、人ごとではない。これは私の業病でもある。とにかく、いま、手にしているものを、次の瞬間、どこに置くか予想することが出来ず、その場所は、全く記憶に(意識に)残らないのである。「老化現象さ」と嗤う人々に対しては、これは小学生時代にまで遡るものであり、従って、「老い」に由来する物ではあり得ない、と主張しておく。

*おばあちゃん

 ブラック・ジャックは、とある一家がドライブ中、エンストで困っているところを、車で拾った。その一家の主人は、ブラック・ジャックの名前を知っていた。うちの年寄りが、日本には名医がふたりいて、ひとりはブラック・ジャック先生、もうひとりは甚大先生だ、と、時々噂していますよ..

 ブラック・ジャックが送り届けた彼らの家で、その年寄り(主人の母親であるおばあさん)は、ブラック・ジャックの顔をじろじろ見て、なおしてくれさえすりゃいいけど、ふんだくり過ぎるよ、と、面と向かって失礼なことをいう。このおばあさんはまた、やたらとひがみっぽく、金にも汚く、ふたことめには、お金、お金。留守番代を息子夫婦にせびるし、ウナギでも食べに行こうと誘えば、行かないから、そのかわりにウナ丼代をおくれ、と来る。息子がこっそり調べてみても、手許にお金は置いていないし、貯金もほとんどしていない。どこかに寄付しているとも思えない。何に使うんだろう? 時々出かけては、ガックリした顔をして帰ってくるが..

 一方、帰宅したブラック・ジャックは、甚大の名に興味を持って、調べていた。名医で変人で一匹狼。そしてべらぼうに高い診療代を取る。まるでブラック・ジャックみたいだが、20年前に亡くなっていた..甚大医師の医院を訪ねたブラック・ジャックは、彼の未亡人から話を聞くが、聞けば聞くほど、ブラック・ジャックにそっくりである。この世に、私ほどがめつい医者はいないと思っていたが..さぞかし、名医だったんでしょうなぁ..

 その頃、またしても、お金の事で嫁と喧嘩したおばあさんは、機嫌を直させるために息子が差し出した小遣いを握って、出かけていった。息子は、今日こそ行き先をつきとめてやる、と、あとをつけていったが、そこは..甚大医師の医院であった。

 おばあさんは、甚大未亡人に、最後の支払いをすませたのだ。これで肩の荷が下りました..と、ふと、よろけながら、おばあさんは帰って行く..

 甚大未亡人がブラック・ジャックに説明するには..あのおばあさんの息子は、赤ん坊のときに、ほとんど助からない難病にかかり、それを甚大医師が治したのだが、彼は、1200万円要求したのである。一生かかっても支払う、と約束した母親は、身の回りのものを全て処分しても足りず、血の出るような内職を続け、誰にも知らせずに、こっそりとお金を作っては、甚大医師が亡くなってからも、支払い続けたのである。この頃はどこにも出ず、息子夫婦からもらう小遣いを、そっくり支払いに充てていた。そして今日、ついに払い終わったのである。三十年がかりで。

 その話を窓の外で立ち聞きして、真相を知った息子は、泣きながら母の後を追う。自分のために、一生を捧げた母の後を。彼女は歩道で倒れていた。脳溢血だ。気が緩んだとたんに、大脳に出血したのである。ブラック・ジャックは、甚大の医院に彼女を運び込ませると、治療を開始する。なんとしてでも、母を助けてくれ、という息子に、ブラック・ジャックは、90パーセント、生命の保証はないが、もし助かったら、3千万円いただく..


「あなたに払えますかね?」
「い、いいですとも! 一生かかっても、どんなことをしても払います! きっと払いますとも!」
「それを聞きたかった」

 「ブラック・ジャック」の、もっとも中心的な主題を扱っているエピソードであると言える。命は(必ずしも)金では買えないし、愛情を金に換算することも出来ない。しかし、現実の人の世では、「命」と「愛情」は、しばしば、「金」に換算されざるを得ず、「金」で表現されざるを得ないのである。多くの場合、(多くの作家は、)ドロドロとした「嫌な」物語としてしか提示し得ないこの問題を、実にすっきりと、感動的に、しかも「容赦なく」突きつけてくる。これが、「ブラック・ジャック」の素晴らしさの本質(のひとつ)ではないかと思う。


*手塚治虫漫画全集 160

(文中、引用は本書より)


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Feb 22 2000 
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