第8巻 第2章 ブリンナーの三蔵荒れ狂う梵天河の岸辺。人相の悪い渡し守たちを嫌った一行は、八戒たちを大きな船に変身させて渡ろうとするが、尋常でない荒波に、川底に引きずり込まれてしまう。川底の基地に住むデクノボウ公司のしわざであった。
公司は、世界一の知恵者になるために、人から脳味噌を吸い集めているのだ。そのために頭は巨大に膨れあがり、転んだら一人では起き上がれないほどである。唐の国の旅の僧の脳味噌は、さぞかしたっぷりあるに違いない。
荒れ狂う河の中で三蔵を見失った悟空たちは、化け物が三蔵を狙っているのは明らかであるとして、化け物を攪乱するために、全員、三蔵に化ける。偽の三蔵たちに悪徳渡し守たちが混乱している間に(やはり彼らは化け物の手先だったらしい)、石の巨鳥が飛来して、本物の三蔵をさらっていく。このシーンが、素晴らしくカッコイイのである! 即ち..
突然、岩山を無数の稲妻が襲い、二コマで、鷲の姿に岩山を彫り砕き、三コマ目で、鷲とプテラノドンのあいのこの様な石の巨鳥の怪物が、飛び上がる! 岩山が鷲に変貌する、マグリットの絵画作品(例えば「アルンハイムの領土」)の静謐感を、怪獣映画のダイナミズムと力感で置き換えた、あるいはもう少しわかりやすい比喩としては、ディズニーの「ファンタジア」の「禿山の一夜」で、岩山が魔王に変貌するシーン。
悟空は、三蔵をくわえた石の巨鳥を空中で破壊し、三蔵をくわえたまま岩山の中の毒敵山ビワ洞に落ちていった、巨鳥の頭を追って、洞窟に暴れこむ。公司の手下たちとの大立ち回りとなるが、穴の奥深くに誘いこまれて、生き埋めにされる。その間に、4人の三蔵(三蔵本人と、三蔵に化けた八戒、沙悟浄、馬)は、公司に首実検され、X線検査などで、本物の三蔵が見破られる。公司は三蔵の脳味噌を吸い取るために、三蔵と自分を脳味噌移植機械(椅子に座って、頭にパーマ型の端末を被るタイプである)にセットするが、オケラに化けて地底から脱出してきた悟空が、公司側の線をラジオにつなぎ、ラジオの電波を流し込んで発狂させる。巨大化した公司の正体は、南京虫の精であった。
悟空と戦うが勝ち目の無い公司は、掲載誌(漫画王)のページの外にまで逃げ出すが、結局、悟空に追い詰められる。公司を捕えた悟空には、たくらみがあった。脳味噌が足りなくて人間になれない悟空は、公司の脳味噌をいただこうというのである。これを知った天界では、悟空が天竺にも行かずに人間になるつもりだと、大騒ぎになるが、天帝は、人間の世界のつらさを判らせるためには、それもいいだろう、と、事態の推移を黙認する。
下界では、三蔵が悟空を説得している。
「悪いことはいわん。苦労してはじめて人間になれるのじゃ」しかし悟空は、人間になれる嬉しさに、聞く耳持たずである。スイッチオン! 悟空の姿は消え、三蔵たちの耳には、しばらく悟空をあずかるという、観音の声..
第8巻 第3章 天漢道士依然として尻尾があり、お尻も真っ赤であるが、毛が三本に増えた悟空は、既に人間である。立派な人間であるなら、誰も(尻尾があることを)馬鹿にしはしない、と、観音に励まされて、悟空は都会の中に飛び込んでゆく。
街角で、あるギャングに出会った悟空は、人間ならブラブラしていないで仕事をしろ、と、どやされ、仕事がないのなら、このピストルであの紳士を撃て、と、そそのかされる。その紳士(ヒゲオヤジ)のあとをつけて行くと、紳士はマンホールの底へ潜り込み、変装を解いた。なんと三蔵に生き写しである。三蔵法師であると決めつけて、お師匠!僕です!と、悟空。しかし“三蔵”は悟空(口をきく猿)のことなど知らず、驚き呆れるばかりである。悟空は、“三蔵”を狙わせたギャングをやっつけると、三蔵を連れてキント雲でその場を逃げる。“三蔵”は、いい迷惑である。
実は彼は、“ブリンナーの三蔵”という、名探偵であった。(無論、三蔵法師とは、全くの別人である。)ギャングに狙われたのも、彼がこの町の悪者たちの敵だからである。ブリンナーの三蔵は、やむを得ず、悟空を助手として置いておくことにするが、人間の姿になってこい、と、悟空に言いつける。
悟空が出ていったのと入れ違いに、悪者たちが押し入り、ブリンナーの三蔵をホールドアップするが、そこに現われた四郎少年が、逆にギャングたちをホールドアップする。ギャングの親分、カポネは、煙幕を張り、戦車で堂々と引き上げていく。カポネの威光は物凄く、警官たちも最敬礼。敵対する新聞社は、砲撃で粉々にしてしまう。
四郎少年もまた、ブリンナーの三蔵に押し掛け弟子入りする。そこに戻ってきた悟空。ブリンナーの三蔵は、助手は四郎に決めた、と、悟空を追い出す。しおしおと出ていく悟空。そこに、カポネが銀行を襲ったという電話。ブリンナーの三蔵と四郎は飛び出してゆくが、ポンコツタクシーで足留めをくらい、先回りした悟空は、髪の毛でブリンナーの三蔵と四郎を作り、銀行強盗どもを、術であしらう。
しかし、カポネの邸宅でカポネとの駆け引きに失敗した悟空は、町を木っ端微塵にされてしまった。天国まで吹き飛ばされた悟空の前に現われた、四郎。彼の正体は観音であった。悟空は観音に、人間の世界は難しい、お前はまだまだ苦労が足りない、と諭されて、恐縮する。
いくつかある“現代編”のエピソードのひとつ。“三蔵”が探偵というのは面白いのだが、どうも脚本が練り足りない。四郎少年が観音であるという“種明かし”が、いまひとつなのだ。彼が悟空のお目付訳として機能していないからである。
しかし、この程度の“おっちょこちょい”ぶりを、“人間になるにはまだまだ苦労も修行も足りない”とされるのは.. その評価基準では、過半の人間は“人間失格”であろう。[;^J^]
第8巻 第4章 天竺一行が辿りついた国では、どの家も、赤ん坊を駕籠に入れて、玄関先に出していた。この国の王の病気を治すためには、千百一人の赤ん坊の生き肝が必要で、毎日数人づつ献上していたのである。
生き肝が必要であると言っているのは、道士の天漢。悟空たちは彼の化けの皮をはぐべく、赤ん坊に変身して駕籠に入り、城へ潜入する。それはそれとして、三蔵もまた捕えられる。[;^J^] 天漢道士の嗅覚に引っ掛かったからである。国王の病気は、鹿のごとき巨大な角が生えてきたこと。天漢道士は、今日は特別に僧の生き肝を献上する、と述べる。しかしこれが真っ赤なペテンで、道士は贋の生き肝を王に食わせて、町から狩り集めてきた赤ん坊の生き肝は、自分が食べていたのである。無論、三蔵の生き肝も彼が食うのである。潜入した悟空たちに退治された道士の正体は、シマウマ。彼が退治されると同時に、王の角も消える。
さすがにネタギレか [;^J^] と思わせるのは、シマウマの化身だという点。悟空も「こいつあめずらしいや」と言っているが、正体の珍しさでしか新規性を出せなくなっているかのごとくである。草食動物のシマウマが、赤ん坊を食うと言われても。
「悟空…なんだか、かぐわしいかおりがしてきたのう…」
「はいおししょう、果物屋へはいったようなかおりですね」
「デパートの食堂へはいったみたいなにおいだ」ついに天竺に着いたのである。お釈迦様のいるライオン寺へわたる、薄いガラスの橋を踏み抜いて転落する三蔵。しかし彼には羽根が生えていた。天国の住人になったのである。
万巻のお経の内容を吹き込んだテープを、授けられた三蔵。悟空、八戒、沙悟浄は、望みどおり人間となり、馬もまた望みどおり天竺に住み着く。三蔵は空を飛び、人間になって一切の術が使えなくなった悟空たちは地上を歩いて、唐への帰路を行くが、三蔵はテープを落して、羊に食われてしまう。三蔵の嘆き。そこへ観音が現われて、
「心配するでない、三蔵よ。あのテープは何もふきこんでないのよ。なまのテープですよ。お経のもんくはおまえの頭の中じゃ。おまえは長い苦労のあいだに、自然にそれをおぼえたはずじゃ」
これで手塚治虫版・西遊記、全巻の終わりである。手塚治虫の、名作の換骨奪胎の手腕は、全く見事なもので、このエンディングも、ある意味では原作(私が読んだのは「真詮本」)よりも、鮮やかで判りやすい。(これは「罪と罰」などにも言えることである。)悟空たちが天界の役人になるよりも、ただの人間になる手塚版の方が、物語としては味わい深いし、原作にもある「お経が白紙だった」ネタも、見事にトランスレートされ、原作ではあまり意味のない悪戯だったのを、ここでは大長編全体が、三蔵の心の中に、尊い(それは、天竺に保存されている万巻のお経にも匹敵する、いやそれ以上の価値を持つ)お経を編み上げるための過程であったという、実に素晴らしい結末に結び付けられた。これは原作よりも完全に優っている点である。
三蔵法師たちの長い旅は、人生の比喩である。これらの荒唐無稽な冒険を、人生において体験する人間は、まずいないが、それが戦いの連続であったという意味では、まさに普遍的な“旅”なのだ。そしてその旅路の果てに、“与えられるのではなく”自ら真理を獲得するのだ、という、作者の“願い”。これが手塚治虫のヒューマニズムの本質ではなかろうか。
最後のページ、唐の国への長い長い帰路につく、三蔵、悟空、八戒、沙悟浄の4人の後ろ姿。私はミルトンの「失楽園」の最後の四行、
「安息のところを選ぶべき世は、眼前に
ひろがる。摂理こそかれらの導者(しるべ)。
手に手をとって、さ迷いの足どりおもく、
エデンを通り、寂しき道をたどっていった」を、想起した。
手塚治虫のあまたの傑作群の中で、本書がベストテンに入ることは、恐らくあるまい。しかし登場人物の個性が、生き生きと(そして何よりも重要なことには)漫画的に描き分けられた、この長編は、いつまでもその輝きを失うことはないだろう。
西遊記・外伝と言うべきか。孫悟空の出生から天竺への旅立ちまでを、リンリンという雌猿の視点から描いたものである。
孫悟空が石から生まれた時から、ふたつの勢力(善と悪と言ってもよい)が、彼を奪いあう。前者はリンリンというお転婆な女の子であり、後者は魔王の手下の小悪魔である。悪魔は悟空を悪に染めようとし、リンリンは彼を悪から遠ざけようとする。
弱虫悟空がリンリンに励まされて、猿の王になるべく滝壺に飛び込んで、水蓮洞の主になる。これが悪魔の罠であった。王になった悟空は、すっかり増長してしまったのである。人間になりたいと願う悟空は、悪魔に吹き込まれて仙術を習いに行き、それを身に付けると天界で暴れ、罰として岩山の中の牢獄に閉じ込められる。牢の中の悟空に、献身的に食糧を運ぶリンリン。ある夜、観音に示唆されて、取り掛かった旅の僧(三蔵)に、悟空を天竺への旅に連れていってもらう。
途中から悪魔の影が薄くなってしまうなど、バランスは良くない。といって、これ以上長く続けようにも、悟空の旅にリンリンがついて行くという話にも出来まいし、留守を守る話にするには、悟空の旅は長すぎる。ここで終るしかなかったのである。(少女誌に7回連載。)着想は悪くなかったのだが、結果としては凡作である。
(文中、引用は本書より)
(「楽園の喪失」からの引用は、新井明訳(大修館書店)による)
Last Updated: Jun 8 1996
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