罪と罰

 本稿を書くために、ちょっと原作を読み返してみた..と書きたかったのだが、結構な長編なのである。[;^J^] 記憶に頼って書くことを、お許し願いたい。いずれにせよ、多くの読者は原作を読んでいるであろう。だからここでは粗筋を書いたりはしない。(原作と大きく異なっている箇所については(記憶と照合して [;^J^])触れる。)

 まず気がつくのは、序盤のちょっとしたテクニックというか趣向である。当時こういう技法が斬新だったかどうか、私には判らないのだが、まず、ラスコーリニコフの歩きながらの回想シーンが続くのだが、これは1ページを縦に4段に分割し、各段の右半分に(全く同じパターンの)歩行姿を、左半分に(フキダシの中の)回想シーンを置くもので、これを実に15回、4ページも繰り返す。そして4ページ目の最終段でパターンを変え、ポケットから斧を取り出したところで、次のページへ。ラスコーリニコフの苛立ちと逡巡を(明示的には一切描写せずに)完璧に表現している。そして次のページからは、殺しの前後の階段の場を、今度は横割りにして、11ページ、22回続けるのである。こちらの方は、心理描写ではなく、いわばのらくろ的、舞台劇的な単調な画面構成をもじったものと見える。

 あとは、御存知の通りの物語が(それなりに刈り込まれ、圧縮されて)進行していくのであるが、原作の根幹をなす、ラスコーリニコフの心理描写がいまひとつであるのが惜しまれる。ポルフィーリィ判事の「怖さ」の描写も、ドストエフスキーにはかなわない。これはやむを得ないか。

 面白いのは、原作では悪魔的な不思議な登場人物であったスヴィドリガイロフが、革命運動家となっていることである。彼を軸にして、終盤、大きく筋が変わり、一気に革命の騒乱となり、そのさなかでラスコーリニコフは、おのれの罪の告白を声高らかに叫び、(恐らくはポルフィーリィのもとに)歩き去ってゆく。この幕切れは、原作よりも遥かに印象深い。

 「青春時代に読んだ世界的な文学作品を、なんとかして当時(1953年)の子どもたちに、漫画という手法を通じて紹介したい」という、手塚治虫の熱意と高揚感が心地好い。


*手塚治虫漫画全集 10


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: May 5 1996 
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