深い霧の中、毛布を被った若い娘が、ミッドナイトのタクシーを拾う。この霧が晴れるまで、どこでもいいから走ってくれ、と言うのだ。
霧の底を走るタクシー。彼女は窓を開けて、何かを思い出したがっている。彼女の心の中にあるのは、灰色の世界だけ。気が付いた時から、ずっと病院に閉じ込められていて、さまざまな検査を受けても、何も思い出せないのだ..記憶喪失に加えて夢遊病だ!病院へ帰りな! と、冷たく突き放すミッドナイト。
いや、今夜のこの深い霧..今夜こそ何か思い出せそうで、それで病院を抜け出してきたのです..そう、この霧の深い所で、あなたのような若者と会っていたことが..そうだ! 川音だ! 石! 谷! そこで私は倒れていたのだ! 谷へ行ってください!
この時刻に何を無茶な..丹沢か秩父へ行きましょうか..ぼやくミッドナイトの車は、山中の奥深くへ進み..霧はますます深くなり、走るのが危険なほど。そして、この濃密な霧は、何か生き物のようにタイヤに絡み付き、どこか凶凶しいのだ..
谷川に臨む崖の上で車を止めさせた女は、記憶を取り戻すために、崖を走り降りて行った。ミッドナイトは、車中に残された彼女の持ち物から、抜け出してきた病院の電話番号を探り出し、近くの電話ボックスから電話をかけて、彼女の素性を聞く..
もう半年も前に、山から降りてきた記憶喪失症の娘で、どこか異様に古風で、現代の娘とは思えないところがあるのだ。また、彼女を検査しようとすると、必ず医具が壊れるのである。しかし彼女自身は、きれいでやさしくおとなしく、病院の子供たちの人気者でもある。だから彼女が病院の外を出歩いているからと言って、危険なことはないのだが、とにかく病院に送り返してくれまいか..
..ふと、電話ボックスの外を見ると、彼女が中を覗き込んでいる..
崖の下に降りた彼女は、ほとんど全ての事情を、思い出したのだ。彼女が谷底で倒れていた時、そばに男も倒れていたのだ。彼の喉はかっさばかれており、そしてそれを切り裂いたのは、彼女だったのだ..!
悪い冗談はよせ、と、帰ろうとするミッドナイト。しかし、霧の中、彼の車は止めたはずの場所に見当たらない。探し回る彼の前方、霧の中に、あの女の姿が..
その顔は、変貌していた! 狂乱した老女の顔! 山姥(やまんば)だ!
若い娘に化けて男に近づき、夫婦になることを断った男を殺して食う、山姥! 山姥はどんどん巨大化し、怪物化しながらミッドナイトを捕らえ、夫婦になることを迫るが、ミッドナイトにはねつけられ、それならばと彼を殺そうとして、逆に崖から投げ落とされて川へ転落し、滝から落ちて流されて行った..
霧が晴れ、命拾いをしたミッドナイトは、先ほどは見つけられなかった車を発見し、山中から逃げ降りる。そして病院に電話を入れると、なんと、あの女は、記憶喪失のまま、帰って来たという! 川に落ちたショックで、また、山姥の記憶を無くしたのだ! ミッドナイトは、山中の霧の中での出来事を話すが、もちろん信用される訳がない。彼の捨て台詞は、
「記憶喪失の山んばの方が安全だ。どーぞ、ご勝手に」
怪奇マンガの傑作である。
まず、漫画の本分というか、ビジュアルな面での恐怖の表現の力強さを、特筆しておきたい。異様に深い霧。電話ボックスの外から中を覗く娘の微笑の、やや異常な目の色。そして山姥の顔のアップ! やはり、漫画は“絵”である。(この、ふたつの(異様な表情と顔の)コマへの移行のタイミングがまた、実に素晴らしいのだ。特に、電話ボックスのシーンでは、背筋が凍った。)
そして、崖から河原へ、あるいは滝底へ転落して、(脳震蕩で?)記憶を失い、人間の病院に送り込まれて看護を受ける山姥、という、ひょうきんな設定が、絶妙である。しかも、同じドジを2回繰り返すのだ。(医者の話の「異様に古風」のくだりで、ふむふむ江戸時代あたりからのタイムスリップね、などと“先が読めてしまう”読者は、見事にフェイントを食らってしまう。)
単に暗いだけ恐いだけの物語は、実はたいして恐ろしくない。恐怖は笑いと結びついた時に、その最大の威力を発揮する。この山姥の間抜けさが、彼女自身の恐ろしさを最高に引き立てているのである。
そしてもちろん..筋が通らない。霧の中で姿を消したタクシーが、霧が晴れたら同じ場所にあった、というのは、言うまでもなく、不合理である。霧の中で谷底へ降りていった女は、(随分距離があるはずだが)そのまま病院に帰り着き、ミッドナイトはその間、霧に眩惑されて悪夢を見ていたのだ、と、解釈すれば出来るのであるし、その方が筋が通る。いわば“逃げ道”が用意されているのだ。この二義性もまた、数多の傑作怪談の例にもれない。
繰り返し強調しておくが、これは、怪奇マンガの傑作である。
(文中、引用は、少年チャンピオン 1987年1月9日号より)
Last Updated: Apr 30 1997
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