まずは、この映画に対する「プロコン(pros and cons:賛否)」の、「コン(否)」から取りあげよう..といっても、私自身の「コン」ではないが、少なくともネットではしばしば目にする、ある程度一般的な「コン」ではないかと、思うからである。
「ゴジラは何をしているのだ/何をしにきたのだ/何故存在するのだ」「定型通り、海から2回上陸し、倒されるだけではないか」「ゴジラ自体に「物語」がないではないか」..全て、ごもっとも [;^J^]。しかし、庵野秀明が、己の「思想」を全力で具現化したときに、これらの「特性」は、自動的に発生してしまったのである。その意味では、確信犯なのである。
私自身も、この「シン・ゴジラ」を高評価するにあたって、全く忸怩たる思いがない、と言えば、嘘になる。私は常々、「怪獣映画」とは「幻想映画」だと考えてきた。少なくとも、「日本の怪獣映画」は..別に、他の国には(「幻想映画」としての「怪獣映画」を)作れないなどと、傲慢で不正確なことを言うつもりは、ない。ただ、たとえばハリウッドは、いかにも苦手としているなぁ..とは、考えてきた。
しかるに、「シン・ゴジラ」は、「幻想映画」では、ない。(唯一「幻想的な存在」といえるのは「ゴジラ」それ自体だが、それ以外には、幻想的な要素が、ほぼ皆無と言ってよい。)これでは、「日本の怪獣映画」とは、言えないではないか..
..日本の怪獣映画を知り尽くしている庵野秀明がこんな映画を作ったのには、もちろん、理由がある。この映画には、「幻想」を入れる余地がなかったのである。
彼は、現代日本(あるいは世界)という「現実」に、「ゴジラ」という巨大な「虚構」を、「ガチ」で「等身大」で「同じ重み」で、ぶつけようとした。そのためには、「ゴジラ」という「虚構」サイドには、「現実に負けない“虚構力”」が必要だ。具体的には、あの、観ているだけでも痛々しい「皮膚」に象徴される、おそらく史上最恐クラスのおぞましい姿と、これは毎度お馴染みだが、光線兵器の恐るべき破壊力。そして、「現実」サイドには、「ゴジラに負けないだけの“リアリティ”」が必要だ..だから、「幻想」などの入る余地は、ないのである。(オカルティズムとか、超兵器とか、古代文明とか、宇宙人とかは..)
別の言い方をすれば、「ゴジラ」という「圧倒的にあり得ない、途轍もない“虚構”」を生かすためには、「それ以外の全ての要素は、徹底的にリアルでなければならない」のである。これはもちろん、SFの鉄則であり、そして、庵野秀明が、この大原則を知悉していないわけがないのである。
あと、これも絶対に指摘しておかなければならないだろう..日本の怪獣映画史上、これまで、もっとも「幻想」が少なかったのは、昭和29年版の、初代「ゴジラ」であろう。だから、「シン・ゴジラ」は、「原点回帰」「初心回帰」と評される運命にあるのだが..(あるいは、制作陣自体、そのように考えていたかも知れないが..)私は、そういう言い方は、したくない。監督たちが「リアル」を(正確には、「ゴジラ」対「リアル」を)追及した結果、必然的に、昭和29年版に近づいてしまったのだ。(思えば、当時、あの映画がいかに「リアル」だったことか..!)(← ここで微妙に「リアル」の意味をスライドさせています。一種の詭弁、あるいは省略(飛躍)。試験に出るのでアンダーラインを引いておくこと。(← こういうのを、メタと言います。[;^J^]))
その、「ゴジラ」という「虚構」を成立させるための「リアリティ」たるや、半端なものではない。政界も、自衛隊も、米国も、その他の諸外国も国連も、まさに、「ゴジラが本当に日本に上陸したら、このように動くだろう(このようにしかならないだろう)」..と、強く想像されるほどのリアリティである。徹底的な取材の賜(たまもの)だろうが..言うまでもないことだが、もちろん、実際のところはわからない。その筋の専門家が観れば一発でわかる嘘臭さも、たくさん含まれているのかも知れないが..しかし、大多数の観客に「リアリティ」を感じさせられれば(嘘がばれなければ)、フィクションとしては、実は、それで必要十分なのである。(これ以上は、いっそ、「過剰品質」「過剰取材」と言い切ってしまってもいいほどだ。)
そして、当然、これにも触れなくてはならないだろう..庵野秀明らがどの程度意識していたかはわからないが..ギャレス・エドワーズ監督による、「GODZILLA ゴジラ」(2014)! ハリウッドがついに作り上げた、素晴らしいゴジラ映画! 昔のエメリッヒ監督による「GODZILLA」(1998)は、もはや、ネタ扱いされているが [;^J^]、エドワーズ版は素晴らしかった! 本物の「怪獣」映画だったのである。私は長らく、「日本の怪獣映画における怪獣」の概念は、アメリカ人には理解できないのだろう、と考えていたのだが、エドワーズ版で、その固定観念を覆された。思えば、日本文化が世界に広まるに連れて、その理解者が増えるのも当然。「怪獣の本質」を理解したハリウッドの監督とスタッフたちが、日本の映画界とは桁違いの資金力で作り上げた映画..日本映画界の実力では作れない「ゴジラ」映画..単に物量だけの問題ではない。原発事故後の立入禁止区域のシーンなど、日本人には痛ましくて撮れない(それも、興味本位ではなく、本質的な)シーンがきっちりと組み込まれている..日本人には作れない映画..当時の複雑な想いは、今でも鮮明に憶えている。このままでは、怪獣映画の、ゴジラ映画の「本場」は、ハリウッドになってしまう..
..と、庵野秀明が考えたかどうかは、知らない。いかにしてハリウッドを凌ぐのか、日本人にしか作れない怪獣映画とは何か、と、考えたかどうかは..
キーは、「破壊」。「破壊シーン」だ。エドワーズ版のゴジラ(及び、敵怪獣ムートー)は、確かに、合衆国の都市、たとえばサンフランシスコを破壊した。しかし、それは、「ビルや交通網などを壊した」に、留まる。「(放射能の)業火で都市を焼き払う」ことは、しなかった/できなかった(あるいは、「その必要を感じなかった」)のである。
「シン・ゴジラ」の序盤の被害は、もちろん、さほどのものではない。中盤、さらに後半、ゴジラが最終形態になってからも、都心のビル群は、結構、まだ、無事である..このまま..このまま、なんとか、ゴジラを倒してくれ! 自衛隊! ..と、観ているこちらも、思わず祈る..が、そんな観衆の想いを嘲笑うかのように、「圧倒的な」炎と光が、ゴジラの口と背鰭から放射され、高層ビル群はズタズタに切り裂かれ、東京は地獄の業火に包まれる..ああ、やはり..
おそらく、これこそが、「日本の怪獣映画」の「凄味」なのだ。関東大震災、東京大空襲、広島、長崎、3.11..大災厄/大破壊に何度も何度も襲われ、その度にゼロから建設しなおし、また破壊され..これが、日本なのだ。これが、日本の強味であり凄味なのだ。だから、ゴジラは、炎で都市を焼き尽くすのだ..
(..長くなりすぎている [;^J^]。そろそろ終わらせよう。[;^J^])
面白いと思ったのは、ゴジラの誕生の経緯は(いちおう)「説明(推測)」されるものの、それにまったく、「重きがおかれていない」ことである。ここは、重要なポイントである。つまり、「そんなことは、どうでもいい」のだ。さらに言えば、退治方法にすら、さほどの重きが置かれていない。「ゴジラを血液凝固剤で、止める」ことはわかったが、その原理はいまいち釈然としないし、また、説明も「流している」感があった。要するに、「止められれば、それでいい」のだ。適当な理屈で。「ゴジラが出現し、日本(とその背後から世界)がゴジラに対峙し、状況を切り抜けた」ことが重要(本質)なのであって、それを成立させるための理屈は、相対的に軽く描かれている。ここに力を入れすぎると、バランスを逸するという判断が働いたのかも知れない。
..あとは、軽い話題(ネタ)を、いくつか書いて、終わることにしよう。
個人的に気に入っているのは、ゴジラに対する無人列車群の突撃である [^J^]。前例はあると思うが、絵的にも結構、面白かった。
次回作はあるのかなぁ..あるいは、ゴジラではなくてもいいから、「幻想映画」としての「怪獣映画」は。
どなたも指摘している、猛烈な情報量。畳み掛けるような食い気味の「早口」の応酬。[;^J^](「庵野病」(今作った造語)である [;^J^]。時間内にセリフが収まりきらない場合、普通はセリフを削ると思うのだが、庵野秀明は、早口にするのである。[;^.^])日本語ネイティブにとっても、日本語のヒアリング能力が問われるところである [;^J^]。これ、日本語検定の試験問題に使えるぞ。[;^.^]
Last Updated: Aug 25 2016
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