映画「死国」


 惜しい。追い込みが足りない。こぢんまりとまとめてしまった。

 私は原作を読んでいないのだが、この展開ならば、原作では恐らく(「死国」と化した)四国全土に、復活した死者が蘇えり、充満したのではあるまいか。結界を解いてしまったのだから、そうなるべきである。(それを暗示するシーンはある。役場の上司が(復活した?)死者たちを目撃する箇所である。)そのスケール感が無い。

 莎代理の復活がまた、良く判らない。復活させた母親としては、彼女を「跡継ぎにする」「血筋を絶やさない」ことが目的らしい。だから望むならば文也を婿にすれば良かろう、というスタンスである。それに対して、復活した莎代理本人としては、文也に対する執着しか無く、跡継ぎになどなりたくない(そもそも、この村から逃げ出したくて逃げ出したくて仕方がなかった)のである。文也を婿にする、という一点でのみ一致しているが、このヴェクトルの「ずれ」が、「死者の復活」の“恐怖”を減殺している。

 特に序盤のカメラワークには参った。手持ちなのだと思うが、目が回るほど、グラグラと揺れまくるのである。私は本当に、気分が悪くなってしまった。どうしてこんなことをするのだろう? “現場”のリアリティを感じさせるためだろうか? いくらなんでもやりすぎだと思う。序盤の内容である、四国のお遍路の(ある種の)不気味さと、莎代理をシャーマン(霊媒)とする口寄せの儀式の気味悪さは、確かに表現されているし、映画全体の通奏低音として効いているだけに、惜しいと思う。

 怖さが足りない。

 実に自然にさりげなく現れる莎代理の「幽霊」は、なかなか良い。しかし、全ての怪異現象が、この手法で処理されているわけではない。例えば、日浦家の空き家を訪れた比奈子が目撃した、「窓の内側の人影」である。このシーンを単独で取り出せば、確かにそこそこ怖いのだが、この「幽霊」が誰だったのかと考えると、これは莎代理以外ではあり得ず、だとすると、上述した「他のシーンでの、さりげない現れ方」と、ミスマッチなのである。

 最悪なのが、肉を得て復活した莎代理の「饒舌さ」である。「肉体」があるのだから、もはや「幽霊」ではなく、だから、不気味さが消失してしまうのは、ある意味で論理的な帰結なのだが、しかし、喋るほどに「怖さ」も「不気味さ」も薄れていってしまうのには、参った。大体、会話の内容が、ほとんど痴話喧嘩レベルである。

 舞台は良い。決して隔離されているわけではないのだが、人里離れた山村、というイメージがあり、こういう土地柄ならば、この位のことは起こるかもな、と、思わせる、良い意味でのリアリティがある。

 しかし結局、この映画全体を支えているのは、莎代理でも文也でもなく、比奈子の存在感である。素晴らしく“いい女”なのだ。実際、上記の不満たらたらも、彼女の顔を見ていると、なんとなく許せてしまったりするのである。[;^J^] いきなり一般論に大風呂敷を広げるが、これこそが、映画の「罠」ではあるまいか。少々難ありの演出も脚本も、俳優ひとりでカバーできてしまうのである。



*映画「死国」(東宝)


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jan 27 1999
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