ヒチェンズ「魅入られたギルディア教授」


 GREAT!! 見ることも聞くこともかなわぬ(しかし、触られる=触感を通じて感じられる)ある恐ろしいものの愛に耐えねばならない、というアイデアが素晴らしい! しかもそれがどのようなものであるかは、「それ」を見ることが出来るらしい鸚鵡による、「それ」の物真似を通じてしか知ることが出来ず、その声音もしぐさも、実に白痴的でいやらしい、という不気味さ! 「それ」が屋敷に侵入してくる時と出ていく時の(闇の中ではっきりとは見えない)うずくまった姿勢も、「大地の歌」(マーラー)の猿、「暗黒神話」(諸星大二郎)の餓鬼などを想起させて、雰囲気抜群である。

 私は従来から、鸚鵡や九官鳥の類に、不気味さを感じてきた。きっかけとなったのは、学生時代に味噌の訪問販売のアルバイトをしていた時の出来事である。とある閑静な住宅街を歩いていると、突然、背後から、「数人の主婦の」笑いさざめく声が聞こえてきたのである。振り向いても誰もいない。不審に思ったが、深く考えずに、元の方向に歩き始めると、今度は子供の大声である。また振り向いても、誰もいない。どうも気になるので、その「声」のしたあたりに歩いていってみたら、「頭の高さから」「自動車の急ブレーキの音がした」!! そこには、鸚鵡の入れられた鳥籠があったのである!!

 つまり、鸚鵡は「人真似をするのでは、ない」のである。ただのテープレコーダー、サンプラーに過ぎない。知能程度は知らないが、こと「物真似」に関して言えば、白痴なのだ。そこには、「音響」から「声」を聞き分けて、選択的に「覚える」という知的過程は、ない。受信した信号をメモリに置いているだけなのだ。「帝都物語」の「学天則」が出てくる巻の書評に、「『魂の暗黒』としてのロボット(人工知能)を、見事に描いている」というのがあったと思うが、それを思い出した。(少なくとも現在の)人工知能は、魂がある振りをしている自動人形に過ぎず、その「知的」振る舞いを覗きこんでみると、それが「知的」に見えれば見えるほど、底知れぬほど不気味である。鸚鵡の「物真似」も同じこと。それが「賢そう」に見えれば見えるほど、実は「白痴」なのである、という事実を、不気味に思わずにはいられない。それ以来、私は、鸚鵡や九官鳥を「避ける」ようになった。

 この作品に感じた、底知れぬ不気味さと恐怖は、この、「鸚鵡を媒介(メディウム)とする」、というモチーフによるところが、大である。「鸚鵡恐怖症」でない人に、どの位アピールする作品であるか、私の知ったことではない。

*『幻想と怪奇』早川ポケットミステリ


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Jul 15 1995 
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