異次元を覗く家(W・H・ホジスン,1909


 この異形の小説は、ホラーの定型のひとつである“手記”という形をとる。

 それは、アイルランドの辺境の、鬱蒼たる森の中の、奇怪な廃墟で発見された。手記の発見者は、直径100ヤード以上、深さは底知れぬ、巨大な“クレーター”の周囲をサークル状に囲む廃墟の中で、これを見出したのだった。



 “私”(以下、手記の筆者の一人称である)は、この暗鬱な地方に建つ、巨大な“家”(ハウス)に、年老いた妹と猟犬と共に、ひっそりと住んでいた。それは数多くの部屋と広大な地下室を持つ、城郭に近い大きさの“家”であった。

 ある日、書斎で読書中の私は、不思議なビジョンに襲われた。まず、壁を抜け、空の彼方へ、そして宇宙空間へと漂い出し、地球からも太陽からも次第に離れ、きらめく星々の中を深宇宙へ疾空し、やがて..途方もなく広大な“平原”へと到達した。それは、鈍い赤色で縁取られる巨大な黒太陽に照らしだされる、陰気で寂しい平原だった。遥か彼方の地平線上には、異様な山脈が見える。この円形の平原は、巨大な“アリーナ”(闘技場)のように見えた。アリーナの上を浮遊していた私は、その中心に、自分の“家”とそっくりな、しかし大きさはそれよりも遥かに巨大な“家”と、遥か地平線上の山脈の上に、異様なものどもを発見する。カーリー、セト … 異教の神々だ! それら、神話の神々の他に、さまざま怪物や獣、不定形の妖怪たちの巨大な姿が、周囲の山脈の頂上を埋めつくし、“家”と私を見下ろしていたのだ。

 私は、さらに不気味なものを目撃した。それは“家”に侵入しようと試みる、ブタの貌を持つ怪物だった..



 この幻覚から醒めた数日後、私は家から300ヤードほど離れた場所にある、<窖>(ピット)を探検した。これは、木の間がくれに暗い小川が流れる、深さ150フィートほどの大地の亀裂であった。そこで私は、ブタの怪物と出会った。それは猟犬に傷を負わせ、森の中へと姿を消した。

 その夜、ブタの怪物は、書斎の窓に現われた。


「あのブタだ!」そうさけんで、わたしは立ちあがった。立ちあがったために、そいつをもうすこしくわしく観察できた。そいつはブタともちがっていた−−正体不明の生きものなのだ。あの大闘技場でうごめいていた怪物を、ぼんやりと思いだした。人間のそれを下手にまねた口とあごを持っている。ただしあご先がまるでない。鼻が獣のようにのびている。小さな眼と奇妙な耳を組みあわせたそのすがたが、ブタそっくりの異様な表情をつくりあげているのだ。ひたいはせまく、貌ぜんたいが不健康な白色を呈している。
 たかまる嫌悪といくばくかの恐怖をいだいて、しばらくそいつを見つめつづけた。口をもぐもぐとうごかし、いちどだけ、半分ブタみたいなうめき声を発した。なかでもとりわけはげしく興味をかきたてられたのは、そいつの眼だった。そいつの眼は、恐るべき人間知識を宿した輝きを、ときどき燃えあがらせるのだ。やがて相手は、こちらの視線に邪魔されたらしく、わたしの貌から眼をはなし、部屋の細部をみつめはじめた。
 鉤つめを生やした二本の手で窓しきいにぶらさがっているらしい。そのつめは、顔色とちがって土気色をしている。四本の指と一本の親指があって、どことなく人間の手に似ている。ただしアヒルがもっているような水かきが、第一関節までを覆っている。もちろんつめはあるけれど、長くて力づよく、人間のよりもむしろワシの爪にいちばん近い。
 前にいったとおり、わたしは恐怖を感じた。それもたんに個人的な恐怖ではない。なにかひどく非人間的でけがらわしい−−ちょうど、これまで想像もされなかった未知の存在態に属する不浄なものと接触したとき感じるような−−嫌悪と吐き気の感覚だった。

 やがて怪物は姿を消し、その夜は何事も起らなかった。



 一週間後の夕暮れどき、<ピット>で衝撃音が轟き、途方もない塵埃の柱が立ち上った。調査に出向いた私は、ブタの怪物の集団と遭遇する。追撃を振り切って辛うじて家に逃げ帰った私は、守りを固める。籠城戦の始まりだ。窓に、壁に、ドアに、執拗に攻撃をかけてくるブタの怪物たちに、銃弾を浴びせる。全く多勢に無勢だが、家は堅牢であり、怪物たちの侵入を拒み続ける..

 長い一夜が明けた時、怪物の死体は、ひとつも残っていなかった。

 翌日、いまだ足を踏みいれていなかった、巨大な地下室を探検する。もしもここに侵入路があれば大変だからだ。地下室は家の真下の広大な空間全体に広がっており、それはひとつの大きなホールであった。その中心に、上げ戸を発見する。それを開けて下を覗きこみ、底知れぬ空虚を見出し、遠くからかすかに響いて来る嘲笑を聞く。私はこの上げ戸を厳重に閉じた。

 襲撃の夜が嘘のような平穏な日々が続いた9日後、痺れを切らした私は、戦場となった庭園と<ピット>を偵察する。<ピット>の森は荒々しく裂け、洞窟が出現していた。(あの轟音と塵埃の柱の理由が、これで判った。)

 さらに一週間後、好奇心を押さえることが出来ない私は、<ピット>に開いた(恐らくそこを通じてブタの怪物たちがやってきた)洞窟の中への探検を試みた。その地下の洞窟は家の方へとのびており、家の真下あたりで、直径100ヤード以上はあろうかと思われる、巨大な陥没孔に通じていた。石を落しても反響音がしない、底知れぬ奈落だ..このとき突然、洞窟を洪水が襲い、私は命からがら脱出した。それは、ときならぬ豪雨が、洞窟の入り口に隣接する湖水を増水させたからであった。

 この冒険の疲労とショックで数週間寝込んだのち、<ピット>に行ってみたら、そこはもはや谷間ではなく、湖であった。ブタの怪物の侵入路は封印された..安堵と一抹の(知識欲が満足させられなかったという)口惜しさ。

 私は地下堂に戻り、上げ戸の蓋を開け、下が洪水状態であることを確認し、<ピット>が上げ戸を通じて、この地下堂と連結していたのだということを、すなわち、ブタの怪物は、この家の真下の奈落の底からやってきたのだということを知ったのだった。



 (ここで、「眠りの海」と題された、不思議な章がはさまる。)

 これらの恐ろしい事件が起きてからずいぶん時間がたってから、最初に、あの“アリーナ”へと連れていかれた時と同じような幻影が、読書中の私を襲う。私は「眠りの海」と呼ばれる不思議な空間(異次元に広がる海の、広大な岸辺)に漂い、そこで、私がかつて愛した女の幻影と出会う..



 そしてさらに数週間後。いよいよ、一連の怪事の最終段階に至る。


 とつぜん、明白な震動が家を揺るがした。弱々しく遠い、うなるような響きが聞こえたかと思うと、それが急激に、口ごもるような金切声に変わった。その物音は、ぜんまいが切れて、バネがもどったとき時計が発する、あの金属音を思い出させた。

 この“音”をきっかけに、時の流れが急激に加速しはじめる。はじめは太陽や月の動きが目に見えるようになった程度だったのだが、次第に加速し、空を走り始め、やがてそれは長く光の尾をひく光点となり、その軌道が円環として空を覆い、昼と夜の急激な交替による世界の明滅は、ついには、光も闇もひとつに溶けあう薄明境にいたる..

 部屋も調度も急速に古びて行き、鏡に写った私の姿も老いさらばえた。地表の風景は、膨大な年月の経過に、完全に崩壊する。(それにしては、“家”は古びて廃墟と化したとはいえ、大地を襲った、数百万年、あるいはその数十、数百倍の時間経過に対して、驚くべき抵抗力を示し、そのことが、この“家”の特異性を改めて明らかにしている。)眠っていた猟犬も、塵芥に帰した。そして私は、塵埃となった自らの死体を見出した。

 終末が迫ってきた。

 急激な地球の自転は徐々に減速する。太陽が死滅に向かう。地表には永遠の雪が降り積もり、夜空からは星々も消え、世界は暗闇に閉ざされる。

 果てしない時間の経過ののち、太陽系は、ある途方もなく巨大な“緑の太陽”=“中央太陽”へと接近して行く。

 完全に荒廃した地表に残った、廃墟に帰した“家”を、ブタの怪物の群れが占拠する。私は辛うじて身を隠す。


 それから、とつぜん大地に大きな陥没が起こったようだった。不潔な化けものどもをすがりつかせたまま、<家>が地中の深みへ消えていった、奇妙な血色の雲を高く噴きあげながら−−
 そのときわたしは、家の下にうがたれていた地獄のような<窖>(ピット)のことを思い出した。

 いつしか私は、宇宙空間を漂っていた。われわれの太陽は、“中央太陽”に落下し、消滅する。これが宇宙の全ての天体の終焉なのだろうか?

 (ここで再び、不思議な挿話が入る。「眠りの海」で出会った、かつて愛した女(の幻影)と再開し、そしてその幻は消え去るのである。)

 やがて“中央太陽”は、“緑の太陽”と“白い太陽”の二重星であることが判る。想像を絶する天体現象が繰り広げられる。

 永劫の時が流れ去る。ある不吉な暗黒星雲が接近してくる。それを構成する暗い天体の中には、それぞれ、永遠の悲嘆にくれる貌が見える。

 そして空間と時間の果てを究めた私は、あの“闘技場”に帰ってきた。広大な“沈黙の平原”と、それを見下ろす魔神たち。その中央に聳えたつ、巨大な“家”。空を漂いながら、ゆっくりとその家の中に入った私は、ブタの怪物の襲撃のあとが、(とてつもないスケールに拡大されているが)そっくりそのまま残っていることを確認する。

 これは一体、何を意味するのか..?



 そのとき、まばゆい陽光に襲われ、なつかしい書斎へ戻っていることに気がついた。全ては夢だったのか? いや、猟犬が塵芥となっている! すなわち、あの時空の彼方への驚異の旅は、現実のものだったのだ。では何故ここに戻っているのか?



 そして最後の事件が起こる。それは、ブタの怪物の再訪だ。

 夜の闇の中、ただ一人でやってきたブタの怪物は、猫を焼き殺し、犬に不気味な緑色に光る傷をつけて、去ってゆく。その傷は蛍光色を発して、手の施しようもなく徐々に広がり、犬は衰弱していく。犬を、その穢らわしい傷から銃殺で救った私は、犬からその穢れを移されていたことに気付く。私は、死を恐れはしない..

 その時、地下室の上げ戸を開ける音が聞こえてきた..

 手記はここで終わっている。



 このあとにプロローグと対応するエピローグ(手記の発見者の短い物語)が置かれ、ある日突然陥没した、この廃墟の来歴が語られる。ここは不浄な土地、悪霊や妖精たちが棲みついていた土地だったのだ。手記の発見者たちは、そうそうに逃げ帰るが、この土地の森の中には、“今でも”何か得体の知れない生物がいること、“地の底から”何かの物音が聞こえて来ることが、暗示される..



 “コズミックホラー”の始祖のひとつとされるこの小説は、傑作と言えるかどうか、判断に迷う点がおおいにある。少なくとも“出来が良い”小説では、全くない。

 個々のモチーフの意味が、はっきりしない。ブタの怪物とは? 何故“家”に侵入しようとするのだ? 何故“家”が、ここにあるのだ? 何故“家”は崩壊したのか? “家”は、異次元からの侵攻を食い止めていたのか? 数え上げればきりがないこれらの疑問は、作者によって故意に残された“余韻”というよりは、“そこまで深く考えていなかった”ように思えるのである。

 さまざまなレベル(階層)に属するモチーフやビジョンが、まさしく混交しており、そしてそのひとつひとつは、素晴らしく魅力的なのだ。

 まず、形而下の怪物物語である。ブタの怪物との戦い。最後の“光る傷”のモチーフも含めて、これは堂々たるB級ホラー映画の魅力に満ち溢れている。

 次に、これは遠未来の終末テーマのSFである。後半の暗鬱な超時空幻想は、やや古色蒼然としてはいるが(時代が近接していることもあろうが、私はポーの「ユリイカ」を想起した)、SFの最も魅力的なテーマのひとつである“宇宙の終焉”の夢を紡いでいる。

 これらに加えて、異教/邪教のモチーフ。“闘技場”を見下ろす“非・キリスト教の神々と怪物たち”。また、最後に明かされる、妖精伝説との結びつき。後者はもちろん、土地の無学なものどもの伝承という設定であるのだが、著者が“異次元”と“妖精”を結び付けることを意図したのは、間違い無い。

 細かく分析すれば、まだまだ探しだせるのだが、これら“次元の異なる”要素をひとつの物語に畳み込む時、腕のいい作家であれば、作品を“何重にも読める”ように仕立てあげる。つまり、どの階層に着目しても、首尾結構の整った作品として。ところが本書はそうではない。ある階層にだけ着目して全編を通読することは不可能であり、結局、全部の階層を上下(右往左往)しながら読むことになる。それが、読後感を混乱させる。

 それにしても部分部分はまことに素晴らしく、これらの“(根拠が良く分からない)ぎくしゃくとした連接”が、また独特の効果をあげている。もっとも驚くべきは“闘技場”の描写であり、このイメージは、まさに圧倒的である。



 最後に一言。再度の引用になるが、


 前にいったとおり、わたしは恐怖を感じた。それもたんに個人的な恐怖ではない。なにかひどく非人間的でけがらわしい−−ちょうど、これまで想像もされなかった未知の存在態に属する不浄なものと接触したとき感じるような−−嫌悪と吐き気の感覚だった。

 これは、ラヴクラフトと同じ精神、同じ魂の風景である。

 “未知の存在”に対する、不浄の感覚。これは私には、ほとんど痛ましくすら思える。ラヴクラフトは、素晴らしいスケールの、異教的=非キリスト教的宇宙観を創造しながら、結局、キリスト教徒の視点を脱し切れていない。そこに彼の無惨な限界があり、しかしあるいはそれ故に、彼の作品が一種異様な倒錯的な魅力を帯びているのかも知れないが、少なくとも今の私には、そういう“魅力”を感じ取れないのだ。

 こんにちのSFや幻想文学、いや、広く文学一般においては、この、“未知なるもの”を“忌避すべきもの”とする認識は、全く通用しないであろう。(この対極である、“未知なるもの=人類のフロンティア”的精神は、それはそれでまた(残念ながら)オールドファッションであろうが。)

 ラヴクラフトの心象風景の原光景を、私は「異次元を覗く家」に見る。それは、ある時代の精神の限界を示しているのかも知れない。



*「異次元を覗く家」W・H・ホジスン 団精二訳 (ハヤカワ文庫SF)

(文中、引用は本書より)


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Last Updated: May 14 2002 
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