カシオペアのψ(C・I・ドフォントネー,1854


 それはひとつの世界であった。



 4つの太陽を持つ星系の、惑星“スター”。本書は、地球人からはカシオペアのプサイと呼ばれている、その星系の自然と歴史と芸術の完全な記述である。それはヒマラヤの山頂で発見された、稲妻と共に天空から落下してきた手記を解読/翻訳したものである。



 第1巻では、スター星の自然が語られる。それはまさに、夢のような美しさだ! 枝先が流れる雲にまで届く巨大な植物、シフュス。鳥のように空を飛ぶ植物、ブラミル。妙なる音楽を歌い続ける青い鳥、シト。気球のごとく膨らんで空を飛ぶ白い四足獣、プサルジーノ。巨大にして美の精髄をきわめた花、セルシノール。

 その都市も、魔法のような色彩変化を示す天空のもとで、幻想的な外観を見せる。その住人であるスター人は、男性は強壮、女性は優美である。スター人と共にこの世界を構成しているのは、劣性種族のルプルゥであり、奴隷階級である。彼らは背が低く、体毛が濃く、巨大な耳を持っている。スター人とルプルゥの混血人は、セトラシトと呼ばれる。



 第2巻は、古代史である。神話の時代からはじまって、やがて3つの主要な帝国が形成されてゆく様子が語られる。

 ネムセードと呼ばれる長寿族がいる。彼らはほとんど不死に近く、性別を持たない。その姿は優美であり、長い年月を思索と自己研鑚に費やしてきたために、聡明で思慮深く、全スター人の敬意を集めている。中でも有名なのは、コスマエル、セールヴェスト、ムンダトールの3人であり、コスマエルは自然科学と物理学を、ムンダトールは美術を、セールヴェストは哲学と文学を究めた。スターの全地域を何世紀もかけて遍歴して、スター文明の産み出したもののことごとくを吸収した彼らは、のちに重要な役割を果たすことになる。

 やがてスター史上最大の災厄が訪れた。それは“緩慢なペスト”と呼ばれる不治の流行病で、10年間苦しみ抜いて死ぬのである。しかし真の災厄は疫病そのものではなく、人間によってもたらされた悪夢だった。40年以上もペストが続いたのち、ひとりの狂信者が現われ、全ての苦しみを断ち切るために、人類は死滅しなければならないと説いた。彼の自殺教団は瞬くまに信者を集め、殺戮教団としてスター全土を蹂躙したのち、集団自殺した。

 スター人を滅亡から救ったのは、一人の天才科学者である。彼の名はラムズュエル。反重力宇宙船を発明していた彼は、アバールと呼ばれるその船に、貴重な書物や資材を携えた3人のネムセード人、コスマエル、セールヴェスト、ムンダトールと、妻、妻の妹、そして4人の子供たちを乗せて、教団の魔手をのがれ、スター星から飛び立って行ったのだった。



 第2巻と第3巻の間に、短い断章がはさまる。それは、スター人がいなくなったあとのスター星を支配した、セトラシトとルプルゥの愚行の歴史を記したものである。



 第3巻は、ラムズュエルとその子孫たちの、天界の遍歴譚である。彼らは数世紀にわたって、スターの4つの衛星を歴訪していったのだった。

 第1衛星、タシュル。白から灰色にかけての色調に覆われた星。そこは鮮やかな色彩に彩られた鳥たちの世界であった。タシュル人は両性具有である。

 ラムズュエルはこの星で、数百人の子孫を残して死んだ。すべての知識の守護者である3人のネムセードのおかげで、彼らスター人の文学と芸術は隆盛をきわめていた。ラムズュエルの最後の言葉、「敬愛せよ、我が血を!」は、スター人の永遠のモットーとなった。長い歳月が過ぎて人口過密に悩まされたスター人たちは、次の別天地を求め、第2衛星に向かった。

 第2衛星、レシュール。黄金色の空の下のその自然は、まさに美の極地であった。美しいレシュール人たちは、セックスによらずに子供を産む。完全に共感できる両性同士の精神感応によって、身ごもるのである。

 タシュルで過剰になった人口をレシュールに移し、さらに2世紀にわたって発展を続けたスター人は、次に第3衛星をめざした。

 第3衛星、リュダール。そこはしかし、荒涼たる湿原の世界であった。厳しい自然の中で死と向かい合って生きるリュダール人は、痩せて骨ばって、陰鬱な性格を持っている。

 スター人は、第3衛星には植民しなかった。そして第4衛星にも。

 第4衛星、エリエール。それは“透明な星”であった。植物も鉱物も大洋も大気の蒸気も、完全に透明なのであり、大地を通して反対側の空の星々すら見えるのである。人類と高等な動物だけが、わずかに半透明の乳白色を帯びている。

 ラムズュエルの死後8世紀。ついに現れた天才マリュルカールに率いられ、スター人の大船団がタシュルとレシュールから、故郷・スター星へと飛び立ったのだった。



 第4巻は、現代史である。

 衛星群から帰って来たスター人たちは、彼らなきあとのスター星を支配して愚行を繰り返したあげく、野性に近い状態に退行してしまっていたルプルゥを、たやすく征服した。そしてマリュルカールの指導の元、スター人の文明と国家が再建されていった。それは新時代に相応しい新たな宗教、新たな哲学、新たな政治制度を産み出すことでもあった。

 ラムズュエルの偉大な遺言、「敬愛せよ、我が血を!」は、以下のようなスター人の信仰綱領に昇華された。


「人間性の尊重」
「人間性の完成」
「人間の神性化」

 そして、スター法の全てを包摂する三原則が確立したのである。


「全体に対する個の独立」
「土地私有の制限」
「苦痛は背徳、戦争は冒涜」

 ヒマラヤ山頂で発見された文献のここまでは、セセロという名のスターの高官の一人が、隠遁生活を送りながら密かに書き記した歴史書であり、それが恐らくはスター星の火山の大爆発によって宇宙空間に吹き上げられ、地球に落下してきたものである。

 この叙事詩には、それぞれの時代に作られた詩や戯曲がさしはさまれ、さまざまな時代のスター人の姿が、生き生きと描きだされている。

 第2巻の“緩慢なペスト”の痛ましいページには、「緩慢なペストの下での大虐殺」と題された4章からなる長編詩が、第4巻のスターの国家と文化の再建のページには、「レシュールに取り残された者たち」と題された一幕の喜劇が挿入されている。そして最後の第5巻はセセロの著作ではなく、セセロの書物や草稿のあいだにはさまれて発見された、誰か他の文筆家の手になる小品である。



 「一タシュル人のタスバール旅行記」と題されたこのエッセイは、衛星タシュルの旅行者がスターの芸術都市、タスバールを旅行した、その見聞記であり、その中にさらにふたつの作品を含んでいる。ひとつは、とある無名の戯曲作家の手になる二流の家庭劇で、もうひとつは、タスバールの詩人、イスリーシュの新作である。


ああ、この都市では毎日が祝祭のようだ! 至福と高潔と精気が大気の中に充ち、私たちの胸をいっぱいに膨らませてくれる。ここでは、記念建造物、美しい垂れ幕、さまざまの装飾、柱廊や街のたたずまい、そして人々の顔立ちまでが、至福にあふれた知性をたたえている。まさしくこれこそ都市タスバール、スターの驚異なのだ。

 彼はタスバールの芸術、風俗、建築、交通機関、歴史、政治、宗教、ファッションを、ようするにその諸相のことごとくを熱烈に語る。これらは、第4巻では多少とも(いや、おおいに)鳥瞰的に記述されていたのに対し、この“付録”に至って、虫瞰的な地に足の付いた視点で語り直され、目覚ましい効果をあげている。

 「セルシノールの樹」は、一幕の家庭劇。優れた作品ではないという設定で引用されているのだが、確かにたいした戯曲ではない。ここでは、スター人とルプルゥとセトラシトの、微妙な関係や家庭内における地位、奴隷種族の心理傾向などが、それなりに手際良く描き出されている。これは「旅行記」よりもまた、一段と視線の低い報告である。

 第5巻の悼尾を飾る「エリア」こそが、全編中の白眉である。この“史詩”が傑作だから、というわけではない。別に駄作でも凡作でもないのだが、ただ、読んでいて余りにも“気恥ずかしい”のである。これを顔を赤らめずに読める(大人の)読者がいるだろうか?

 エリア。彼女は天使のように美しい、タスバール最高の芸術家である。女優として、詩人として、音楽家として、舞踏家として、画家として、戯曲作家として、頂点を究め、その個性も知性も豊かな精神性も、比類のない水準に達していた。


その卓越した個性のあらゆる魅力をすでにスターリァの役一つに封じ込めていたエリアは、人間としての美と優雅さの理想形を、再びここにおいても、その舞いのあらゆる局面の中に展開することができた。物質はすでに魂にとっての単に感知され透過されるだけの衣裳に過ぎなくなり、神的な調和の中で絶妙に平衡が保たれているその舞いの一つ一つの型を前にして、全観客は、もはや拝跪し、敬慕の念に打たれるより他なすすべを知らなかった。

…………

ついに劇は終った。人々の心は喜悦と激しい昂奮にずたずたに引き裂かれていた。
幕が下り、オーケストラが最後の音を引き取ると、人々は沈黙したままじっとそれぞれの席に釘付けになっていた。作者の名前がこれから発表されようとしていたのである。
事実、前景に近いボックスから劇の進行を見守っていた劇場理事の一人がゆっくりと立ち上がり、感動に声を顫わせながら、その劇は、装飾から舞踏、台詞の詩句そして音楽に至るまですべてがエリアの手になるものであると述べた。
その芸術家エリアが再び舞台に姿を現わすと、女性という女性は歓喜の叫びとともに手を振り、男性は一人の例外もなく、床にひざますき、彼女に対し三度盛大な喝采を送ったのだった。

 アバシュール。アバール(反重力宇宙船)の革命的な性能向上をもたらす発明をした、若き天才科学者にして、大胆な宇宙飛行士。タスバール市民の誇り。

 アバシュールには親友がいた。その名はグライミール。彼はエリアに恋していた。アバシュールには許嫁がいた。その名はネリリス。彼女はアバシュールを愛していた。しかしアバシュールとエリアは、運命的な恋に落ちた。アバシュールは心ならずもグライミールを裏切り、心ならずもネリリスを苦しめた。

 恋に落ちたふたつの魂は共鳴しあい、偉大な芸術家として互いを高めあい、輝かしい作品を産み出した。しかし、ネリリスの涙がアバシュールの目を覚まさせた。今なおネリリスを愛していたアバシュールは、ネリリスと婚礼の式をあげ、それを知ったエリアは失踪し、それを聞いたアバシュールはアバールで彼女を追った。

 エリアを求めて天界を駆け抜けたアバシュールは、その途上で偉大な発見や観測を行なったが、エリアを見出すことは出来なかった。彼は、死の恐れを忘れ、半ばは死を願いつつ、大彗星の核に向かって大胆な飛行を行なったが、死は彼を拒絶した..やがて旅路の果てに、それまで知られていなかった小惑星に漂着し..そこでエリアの歌を聴いたのだった。

 彼はその小世界で、奇蹟のようにエリアと巡り合った。ふたりの心と魂は、詩心と愛の欲望の完全な充足を見出し、甘い愛の生活に入った。しかしやがて、スターに残してきた人々、特にネリリスの不幸を想い、この夢の生活を終えることを決心した。

 そしてスターに帰ってきた彼らが見出したものは、同じ苦悩によって結びつけられた、グライミールとネリリスの婚礼であった。


アバシュールのタスバール帰還は、彼に新たな栄光を加えずにはおかなかった。大胆きわまる探検行と天文学的に貴重な観測の記録は全スターに伝えられ、彼はその若さにもかかわらず枢機会の一員に迎えられることになったのである。
彼は、美しい妻エリアとともに永い間タスバールに住み、二人ながら全タスバール人に敬愛され親しまれた。
だが彼らは、エリアと命名された彼らの所有になるあの蠱惑の小惑星に、スターの煩しさを逃れて二人だけの時を過すために、しばしばアバールを走らせた。エーテルの海に浮ぶこのエデンの園へは詩と愛をたずさえて赴くだけで、大空の至高天にきらめく星々の中に正確に約束されている純粋な幸福の予兆のように、かつての二人の愛の陶酔がつねに見い出せるからだった。(−−「エリア」並びに第5巻完)

 ...まず、ふた昔前の少女漫画か、現代のレディスコミックでなければお目にかかれないような、徹底した願望充足物語である。その馬鹿馬鹿しさを指摘することは、たやすい。しかし、この途方もなく甘い夢想の切実な美しさもまた、忘れがたいのだ。



 以上で、スター星から落下してきた書簡の翻訳は終りである。最後に付せられた「終章」は、この書簡をヒマラヤ山頂で発見したという設定の“私”ではなく、作者自身の言葉で語られている。いわば、作者あとがきに近い。これは、3編の散文詩からなっている。作者はここで、“夢見ることへの賛美”を高らかに歌い上げている。


「夢幻の世界」
「輪廻の希望」
「読者への訣別の辞」

 なんと古色蒼然たる物語であろうか..なんとかび臭いユートピア物語であろうか..そう思ったあなたは、正しい。これは、1854年、ポーの「ハンス・プファアルの無類の冒険」(1835)やヴェルヌの「地球から月へ」(1869)とほぼ同じ頃、極めて初期の(ほとんど神話時代とすら言える)SFの黎明期、まだ科学小説という概念も曖昧だった時代に書かれたのであるから。

 初期SFとして特に注目に値するのは、早くも反重力宇宙船が登場していることで、これはH.G.ウェルズの「月世界最初の人間」(1901年)に登場するケイバーリット宇宙船(やはり重力遮断で飛行する)に先立つこと、47年である。また、書簡の発見者であり物語全体の“語り手”である“私”(と、プロローグに登場した若干の脇役)を除いて、ただの一人も地球人が登場しない。全ての登場人物がエイリアンであるという点でも、異彩を放っている。そして、その舞台の時間的・空間的広がりにも注目したい。

 時代を感じさせる点も多い。特に気になったのは、ユートピアにおける奴隷階級(種族)の存在に対して、完全に肯定的であることであって、作者はこのことに、一辺の疑問も感じてはいないようである。

 シャルル・フーリエの思想やネルヴァルとの関係なども問題になるようであるが、このあたりになると巻末解説の受け売りにしかならないので、省略する。ひとことだけ述べると、当時のユートピア文学作家や空想的社会主義者たちが、来るべき社会の制度や仕組みを緻密に論理的に描写したのに対し、ドフォントネーは、それらの側面は倫理や道徳に置き換えて比較的簡単に片付け、むしろその社会における学芸に興味を向けているのである。

 いずれにせよ37歳で早世したドフォントネーの生涯には、火災で書簡の多数が失われたことなどの不運も重なって、わからないことが多いらしい。残された作品も、「プサイ」の他は、4編の戯曲があるだけである。



 私が「カシオペアのψ」を読み返すたびに感嘆するのは、それがひとつの、完璧な“音楽”であることである。

 全編の構成を読み返してみて欲しい。これはロマン派後期の大交響曲の“崩れた”ソナタ形式楽章に他ならない。第1巻は序奏部。第2巻は呈示部。第3巻が展開部あるいは中間部。第4巻が再現部。第5巻が長大な終結部。そして終章。第3巻を経過部とみなして、第4巻を展開部、第5巻を再現部兼終結部と見立てることもできよう。

 第5巻の長大なコーダは、第4巻までのソナタ形式の宇宙を回顧し、それを再び歌い上げる。「エリア」の章の甘い旋律と舞踊、永遠というよりは“永遠の現在”への夢想こそ、この長大なソナタ形式の楽章を閉じるのに相応しい。そして、さらにこれら全体を終章で回顧する。このエリアと終章の二段構えの“はるけき余韻”は、実に素晴らしい。



 この小説は、エスケーピズムの完璧な具現化である。ドフォントネーは、夢のように美しい自然と、美しい男女を必要としていたのだ。だからその世界にあるのは、けっして“未来への希望”ではない。“現在よ美しくあれ”“なんと美しいのだろう、現在のこの瞬間は!”という想いに満ち溢れている。それは脆く、はかない。この、美と夢と芸術から構成されている星系には、ほとんどなんのリアリティもない。それはまさに空中楼閣であり、最高に美しい夢中楼閣なのだ。

 「読者への訣別の辞」は、次の言葉で終わっている。


読者の方々が別世界のこの物語によって現世の様々の悲惨を一瞬でも忘れるようなことがあればとねがいつつ



*「カシオペアのψ」C・I・ドフォントネー 秋山和夫訳 (国書刊行会)

(文中、引用は本書より)


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MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 16 1995 
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