マルコ・ポーロの 見えない都市(イタロ・カルヴィーノ,1972


 マルコ・ポーロが、フビライ汗に語る。彼が派遣師として訪れた諸都市の様子を。このヴェネツィア人の言葉が真実か虚構かは、誰も知らない。汗が彼の言葉を信じているか否かも、そもそもこの二人の存在が真実なのか虚構なのかも..


 ツォーラという都市がある。

 一度これを見たならばけっして忘れることができない都だ。何か特定のモニュメントがあるわけではなく、都市全体の印象が忘れがたい個性を放っているのでもない。個々の通りや窓や戸口や塔、それぞれが、格別の個性も美しさもないのに、ひとつひとつが記憶に留まるのである。心から消し去ることのできない都市の個々の事物は、連想記憶のアンカーとして、この世のありとあらゆる概念の記憶の喚起に用いられよう。従って、世界でもっともすぐれた賢者とは、ツォーラの都を完全に記憶している人々である。

「しかしこの都市を訪れようと旅立ちましたのも無駄でございました。できるだけ記憶し易いようにつねに変らず不動であることを強いられ、ツォーラはやつれはて、消耗し、消え去っておりました。地球はもはやツォーラを憶えてはおりません」

 フェドーラという都市がある。

 その中心にある金属の宮殿のそれぞれの部屋には、ガラスの球がそなえつけられている。それらの球の中には、フェドーラの模型がある。それは、フェドーラを理想の都市に改造しようとした、各時代各時代の都市設計者たちの手になる雛形なのだが、それらの雛形が出来上がる頃には、フェドーラ自身が以前とは同じものではなくなっており、それらのあり得べき理想の未来像は、ただの模型に過ぎなくなってしまった。フェドーラの住民たちは、今や博物館となった宮殿を訪れては、自分の住むべき理想のフェドーラを探し、そこに住まうおのれの姿を想像するのである。

「陛下の帝国の地図の中には、灰色の石の大いなる都フェドーラも、またガラス球のなかの無数の小フェドーラも、ともどもにその場所を得ておらねばなりません。いずれも等しく現実であるというのではございません、いずれも等しく単なる虚構にすぎないからでございます」

 エウトロピアという都市がある。

 これはただひとつの都市ではなく、波打つ高原の上に、互いに異なるところのない無数の都市が点在する、その総体を指す。エウトロピアの住民は、生活に倦み、疲労に悩まされると、全市をあげて隣の都市に移り住み、それまでの職業や家族を捨て、新しい職業と住居と家族を得て、新しい景色や新しい近所づきあいの中、新しい生活をはじめるのである。都市は無数にあり職務も無数にあるので、一生を通じて同じ職業に戻ることは、まれであるという。

「こうして都市はその虚な碁盤目の上をあちこちと移り動きながら、つねに変らぬその生活をくり返しているのでございます。住民は配役を取り替えながら同じ場面をくり返し、さまざまな抑揚の組合せで同じせりふをその都度、言い変え、替るがわる口をひらいては同じ欠伸をしてみせるばかりです」

 オッタヴィアという都市がある。

 峨々たる二つの山のあいだに張られた懸崖。オッタヴィアはこの、粗索や鎖や吊橋で両方の頂きに結わえ付けられた“土台”の下に吊り下がる、虚空のただ中の蜘蛛の巣都市なのだ。

「奈落の底の上に宙吊りになっているとは申しながら、オッタヴィアの住民の生活は、他の都市に較べてさほど不安なものでもございません。彼らは、時が来ればこの網も保たないことを承知しているのでございます」

 エルシリアという都市がある。

 都市の生活を支えるもろもろも関係を堅固にするために、家々の戸口から戸口へと、親族、取引き、権限、代理などの、関係の種類に応じた色の糸を張り渡す。糸が多くなり過ぎてその中を通り抜けられなくなったら、住民はその都市を捨て、別の場所にエルシリアを再建する。

「こうして、エルシリアの領域を旅してゆくと、彼らが捨て去った都市の廃墟にゆき会うのですが、城壁さえももはや姿を消し、風が転してゆく死人の骨とてありません。ただ錯綜する関係の蜘蛛の巣ばかり、それが一つの形を求めているのでございます」

 バウチという都市がある。

 それは、竹馬のような脚に支えられて雲間に姿を見せぬ都市である。地上とは梯子で連絡されているが、必需品はすべて用意されているので、わざわざ好んで地上に降りる住民はいない。

「バウチの住民については三つの仮説が与えられております。すなわち、彼らは大地を憎んでいるのか、あるいは逆に、いっさいの触合いを恐れるほどにそれを尊敬しているのか、さもなくばまだ彼らの存在し始める以前とそのままの大地を愛しんでおり、遠眼鏡、望遠鏡を下にむけて、木の葉の一枚ずつ、小石の一つずつ、また蟻一匹ずつを順々に眺めまわしては、おのれらの不在にただ恍惚と見とれているのかでございます」

 エウドッシアという都市がある。

 それは雑然とした、混沌の都市であるが、そこには一枚の敷物が保存されており、その中にエウドッシアの姿の全貌を眺めることができるのだ。敷物に縫い込まれている形状は、まばゆいばかりの秩序と色彩に彩られており、現実のエウドッシアとは何の関係も無いように見えるが、敷物のあらゆる点には、必ず市中のひとつの場所が照応しており、敷物の上に見られるそれらの整然たる配列も、市中にいては見過ごしてしまう真の関係にもとづいているのである。敷物と都市という、全く異なるものの間の、この神秘的な照応関係について、かつて神託に問うたことがあるという。ふたつのもののうち一方は、天界の似姿である−−それが答えであった−−

「陰陽師たちは、敷物の調和ある図柄こそ神々のつくり給うたところだと、もう久しい以前より信じて来ておりました。そして神託の言葉はこのように解釈されて、議論の余地さえございませんでした。しかし同じようにして、まったく反対の結論を引き出すことも可能でございましょう。すなわち、宇宙の真の絵図面とは、現在あるがままのエウドッシアの都市である。ジグザグばかりの道、土煙をあげてつぎつぎに崩れ落ちてゆく家々と火事、闇のなかにあがる悲鳴など、形もなく拡がってゆく巨大なしみのことである、と」

 エウサピアという都市がある。

 この都市の住民は、死を恐れるあまり、エウサピアの完全な模型を地下に作っている。そこではミイラ化した死者たちが、生前同様の姿勢を取っている。無論、生前の仕事があまりに辛いものであったのであれば、仕事中ではなく、食事や踊りの姿勢を取っているし、死後の職業選択の自由もある故に、オペラ歌手や銀行家や貴族や将軍たちで込み合っているのだが。この死者のエウサピアは、死者たちによって絶えず改良されているという。それは気まぐれな変更ではなく考えぬかれたものあるが故に、生者たちも負けないように、死者の都市の新様式を採用するようになった。こうして、生者のエウサピアは地下の模型の模倣をするようになった。

「それに、これは今初めて起ったことではないということです。事実は、死者たちのほうが自分たちの都に似せて地上にエウサピアを建てたということにもなりそうでございます。彼らに言わせますならば、この双生児の都市ではもはや、いずれが生者か、いずれが死者かを知る術なぞないのだそうでございます」

 ペリンツィアという都市がある。

 それは、占星術師たちの計算によって、天界の秩序と調和を映しだすべく設計された都市である。彼らの計算に正確に従って建造された都市に、最初の世代の子供たちが生まれ、こんにち、ペリンツィアの通りや広場で見かけるのは、跛や傴僂や侏儒やでぶ。三頭や六脚の怪物たちは、穴蔵や物置小屋に押し込められ、そこからのども裂けよと吠え叫んでいる。

「ペリンツィアの占星術師たちは今や困難な岐路に立たされておるのでございます。すなわち彼らの計算がすべて間違っており、彼らの数字は天空の動きを語るには何の役にも立たないことを認めるべきか、あるいは神々の秩序とはまさにこの怪物の都市に映しだされているものに他ならぬことを打ち明けるべきかと」

 ..こうして、55の都市の報告が重ねられていくが、無論、それは書物であるが故の物理的な制約から来る限界であり、本質的には無限に続いていくのである。

 望むならば、無数の寓意を読み取ることが出来るし、あるいは都市論などの切り口から、果てしなく深読みをしていくことも可能だが、それはこの書物の懐の深さを示しているに過ぎず、著者の想像力は、そのような“アリバイ”も“目的”も、何一つ必要としていないのだ。

 全く無目的な想像力の遊戯。それが、真摯な目的に基づく真摯な想像や思索を遥かに凌ぐというひとつの実例が、ここにある。人間の頭脳は、遊戯のために最適化されているという証左が、ここにある。

 マルコ・ポーロとフビライ汗の対話はいつ果てるともなく続く。人間の想像力の尽きぬ限り。存在し得ない都市が尽きぬ限り..



*「マルコ・ポーロの 見えない都市」イタロ・カルヴィーノ 米川良夫訳 (河出書房新社)

(文中、引用は本書より)


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Last Updated: Oct 21 1995 
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