新・ベルリオーズ入門講座 第5講

ロメオとジュリエット

− 合唱、独唱及び合唱レシタティーフのプロローグ付きの劇的交響曲(1839)



“まったく素晴らしい旋律の間に屑の山が積みあげられている。”

(ヴァーグナー)


 私は、この、ロマンティシズムの精華とも呼ぶべき傑作を聴くたびに、「ベルリオーズの栄光と悲惨」を想わずにはいられない。

 彼が、恐らくは満腔の自信を持って、1838年に「ベンヴェヌート・チェリーニ」でフランスのオペラ界に殴り込みをかけ、無惨な敗北を遂げたことは、前講で述べた。打ちひしがれた彼はその年の12月に、それでもなんとか自作(「幻想」と「ハロルド」)の演奏会を指揮した。第2講の最後に紹介したパガニーニとのエピソードは、この時のことである。天からの助けとも言うべき2万フランを手に入れた彼は、開けて1839年、フランス楽壇への復讐戦を開始した。「ロメオとジュリエット」の作曲である。この年の暮れに行なわれた初演に際しては、例によって大規模な編成であることもあり、経費節減のために練習回数は切り詰められていた。加えて、昨年の「ベンヴェヌート・チェリーニ」の失敗。これらの事情もあって、この初演には、彼の敵も味方も、文字どおり固唾をのんで臨んだのである。

 素晴らしい成功であった。3回に渡って行なわれた演奏会には、パリ中の文人、芸術家、貴賓たちが列席し、12月15日の演奏会には、無名の青年、リヒャルト・ヴァーグナーも出席していた。「交響楽作曲家」ベルリオーズは、確かに無敵だったのである。彼自身は「歌劇作曲家」たらんと欲っしていたのだが。これが、「ベルリオーズの栄光と悲惨」の、第1の意味である。

 「栄光と悲惨」のもうひとつの意味は、冒頭に紹介した、ヴァーグナーのこの作品に対する批判が的確に示している、彼の「天才とその限界」である。ベルリオーズは、遂に「完璧な」作品を書くことが出来なかった。彼のどの傑作にも(「レクイエム」にさえも)緊張が弛緩する瞬間がある。それが最も端的に表れているのが「ロメオ」なのである。(特に前半に問題が多い。)この作品を彼の最高傑作に推す人々ですら、ある瞬間には耳を被わざるを得ない想いを禁じ得なかったのである。ベルリオーズ自身、初演直後から何度も改訂を繰り返したにも関わらず。



 さて、作品の内容に移ろう。これは言うまでもなくシェイクスピアの名作を下敷きにしたものであるが、完全な音楽化ではない。粗筋は冒頭部と終結部の合唱(及びバス独唱)で追えるが、その他は、この作品の主要シーンを列挙したものとすら言えない。むしろ、ベルリオーズの心に強い印象を残した場面を、幻想曲風に接続したものと見なしたほうがよい。

 決定稿を作るのに7年もかかった作品であり、構成にもかなりのヴァリアントがある。1839年版のリブレットでは7部構成。1847年版のスコアでは、「ロメオひとり」から「饗宴」までを第2部、「愛の情景」を第3部、「マブの女王」以降を第4部とする、4部構成。現行の構成では、「ロメオひとり」から「マブの女王」まで(の主として器楽楽章)を第2部、「ジュリエットの葬送」以降を第3部とする、3部構成となっている。ここでは、初演時の7部構成に依って解説する。まず、論評抜きで構成を述べ、次にどこが魅力なのかを語り、最後に批判を加えよう。


第1部 [序奏:争い、喧騒、公爵の仲裁]

 フガート風の「争い」の音楽で活発に始まる。「公爵の仲裁」はトロンボーンとオフィクレドのユニゾンで荘重に描かれる。

プロローグ小合唱が物語の背景を歌い、管弦楽は第2部、第3部のさわりを予告する。
ストロフアルト独唱(ジュリエットではない)が二人の愛を歌う。
スケルツェット夢見心地のロメオをからかう友人たちの歌。

この後に続く合唱が、二人の死と両家の和解を(暗欝に)予告する。
第2部 [ロメオひとり、かなしみ、遠くにきこえる音楽会と舞踏会の音、キャピュレット家の宴会]
 ロメオの孤独な姿の描写のあと、ロメオとジュリエットの、各々の主題と呼ぶべきものが呈示され、遠くの舞踏会の雰囲気がそれに重なる。そして、舞踏会の喧騒。
第3部 [澄みきった夜、静かで人気のないキャピュレット家の庭、キャピュレット家の若者たちが宴の間を出て、舞踏会の音楽を口ずさみながら通りすぎる、愛の情景]
 舞踏会の余韻の描写のあと、ヴァーグナーが「今世紀における最も美しいフレーズ」と激賞した、名高い旋律による愛の情景。
第4部 [マブ女王または夢の妖精]
 第1部のスケルツェットで歌われた妖精の女王マブを描くエピソード。本筋にはなんの関係もないが、極めて重要な間奏曲。
第5部 [ジュリエットの葬送]
 ジュリエットの(偽りの)死を悼む合唱。
第6部 [キャピュレット家の墓のロメオ、祈り、ジュリエットの目ざめ、忘我のよろこび、絶望、最後の苦しみと愛しあう二人の死]
 タイトルのすべてが、管弦楽のみを用いて描写される。
第7部 [終曲:人々は墓地にかけつける、キャピュレット、モンタギュ両家の口論、ロランス神父のレチタティーヴォとアリア、和解の誓い]
 オラトリオ的終曲。第2部以降(第5部を除いて)管弦楽だけで進行してきた物語に、声楽(言葉)による説明と決着が与えられる。

 なんといっても、第2、第3、第4部と続く器楽楽章が、この作品のコアである。第2部冒頭、キャピュレット家の宴会場の外の闇に(ジュリエットを想いつつ)潜むロメオの描写に続いて、ジュリエットの主題(遠目に彼女の姿が見えた!)、そして遠くかすかに舞踏会の華やかなざわめきが聞こえる..このシチュエーションが、まさに魔術的とも言うべき楽器法で描き出される。そして視点は一気に宴会場にズームイン! 華麗なる舞踏会へようこそ!

 これは、ベルリオーズの書いた最も輝かしい饗宴の音楽である! そしてこれに続く第3部が、これもまた最も美しい愛の情景である! これに匹敵するのは「トロイアの人々」におけるディードーとアエネーアースの愛の二重唱位しかない。後者共々「トリスタン」に比較される箇所である。

 第4部の「マブの女王のスケルツォ」は、全曲中最も異色のページである。なにしろ、本筋に何の関係もないのである。[;^J^] 逆にそれだけに、「愛の」第3部から「死の」第5部への、唐突な場面転換のクッションとしての間奏曲の役割を、良く果たしているとも言える。この辺の思い切った簡略化(次回に解説する「ファウストの劫罰」で、さらに顕著に見られる)が、ベルリオーズの「うまい」点である。単独の管弦楽作品としてみても、彼の全作品中、最も注目すべきもののひとつである。なんという夢のような精妙さ! そしてここでも、楽器法の「簡素さ」に着目したい。

 これは繰り返し強調しておくが、ベルリオーズの楽器法というのは、非常に節約された、無駄のないものである。ベルリオーズといえば、大管弦楽でドンガラガッシャン、というイメージがあるが(事実、そういう作品も多少はあるが)、これは大部分の作品の大部分の局面では当てはまらない。むしろ、必要最小限の楽器しか用いていない、とすら言えるほどだ。彼のスコアを紐解くと、とにかく段数が少ないページが多いことに驚く。これは、彼が、様々な音色の楽器の様々なラインを同時に組み合わせ、複雑な音色を合成してゆく後期ロマン派より、ひとつ手前の世代に属していることをも意味する。(別に後期ロマン派の管弦楽が無駄が多いだとか、ドンガラガッシャンだとか言っている訳ではないので、穏便に。[;^J^])

 第6部にもコメントしておく必要がある。これは、ベルリオーズによる「描写音楽」の、ひとつの極点である。タイトルを読み返して欲しいのだが、これだけの複雑な状況が「本当に」管弦楽だけで、精確に表現されているのである。

 しかし、ここでシェイクスピアの原作を想起しながら聴いている人は、何か違和感を感じるかも知れない。ロメオの姿を見出したジュリエットの、歓喜の爆発の音楽が、数秒間長過ぎるとは思わないだろうか? 実は、この音楽は、シェイクスピアの原作というよりは、当時パリで上演された演出に依っているのである。

 当時はシェイクスピアに“大幅な手直し”を加えて上演することなどは珍しくもなく、この種の改変者としては、シェイクスピア俳優として名高いデイヴィッド・ギャリックが知られている。青年ベルリオーズが観た「イギリス劇団」による(1827〜8年にパリで上演された)版には、ジュリエットの葬送の行列のシーンが加えられたことの他、極めて重大な変更として、ロメオが毒杯を仰いだその瞬間、ジュリエットはわれに返る。ロメオは歓喜と驚愕のあまり、自分のしたことも忘れ、ふたりは天にも昇る気持ちで抱き合う。しかし、次第に毒がまわり始め、ロメオはジュリエットの胸に抱かれて絶命する。ジュリエットは、激しい絶望のうちに胸に短剣を突き立て、愛するひとに覆いかぶさるようにして、こと切れる。この“改変された”情景を思い浮かべながら、改めて聴いてみて欲しい。秒単位の精度でストーリーをトレースしていることが判るであろう。

 管弦楽法も、冴えに冴え渡る! 特筆すべきは「リズム」と「間」の自在な取り扱いで、一例をあげれば「歓喜の音楽」が「絶望の音楽」に変わるはざまの、一瞬の「驚愕の音楽」、ここでの休符の効果は目覚ましい。聴いていて、思わずジュリエットの驚愕を共感してしまう「魔術的」瞬間である。

 第7部(終曲)も見事である。突然、オラトリオというか殆どオペラになってしまう点に驚かれるかも知れないが、この「一貫性のなさ」については、すぐ後で述べる。ロランス神父の歌の、いささか無骨ではあるが、素晴らしく「ロマンティック」な旋律の魅力と、生気溢れる合唱! ベルリオーズはことの他合唱を重視した作曲家で、大規模な物語作品に於て、物語の進行(あるいは説明)を合唱に委ねることが非常に多いのだが、この終曲の合唱が、(レクイエムは別として)その最初の成功例と言えるだろう。



 この作品の、様式上の混乱というか混交は、ほとんど前例がないものであり、様々な様式(交響楽的器楽、独唱歌曲、オラトリオ風レシタティーフ、オッフェンバック風アンサンブル、グランドオペラ的フィナーレ(ソロと合唱))のサンプラーとすら言えるほどである。これは、(再三強調している)「多様性」の顕れであることはもちろんであるが、むしろ「実験音楽」としての側面もあったのではないか。(だとすると、こんにちもてはやされている「多様式主義」などは、ベルリオーズに遅れること150年の追試に過ぎない。)

 「実験的作品」ではないかと考えられる理由のひとつは、これが「合唱付き交響曲」と銘打たれていることにある。現代(日本)でもそうだが、当時のフランスでは、「合唱付き交響曲」と言えば、ベートーヴェンの「第九」を一意に指したのである。つまり、ベートーヴェンとの「差異」が問題になる。

 ほとんど最初から合唱が導入される点も異なるが、何よりも、声楽が「脇役」である点が決定的である。(器楽楽章である「愛の情景」の“前奏”としての合唱に着目せよ。ここでは、古来からの器楽と声楽の役割が逆転している。)また、ここには、ベートーヴェン的な「理念」や「思想」や「統一感」などは、無い。あるのは、音楽と文学(ドラマ)のハイブリッドの試みである。

 この“ハイブリッド”性こそが、本質的ではなかろうか。この作品は、音楽としても文学(テクスト)としても自立していないのである。「幻想」「ハロルド」で器楽交響曲の革命をなしとげたベルリオーズは、ベートーヴェンの“声楽付き交響曲”というアイデアを借用して、「ロメオ」で「声楽交響曲」というジャンルを発明したのである。(第九は、特異解と言うべき作品であり、“声楽交響曲”の嚆矢とは呼びづらい。)



 この作品の納得できない点についても述べなくてはならない。それは必ずしもヴァーグナーが言うような“屑の山”ではないのだが、しばしば、最も美しい部分に隣接して、凡庸な部分がみられるのである。ヴァーグナーはそこにいらつき、きつい表現をしたのではないだろうか。「どうして、感動を長続きせてくれないのか?」と。

 まず、第1部の構成が「変」である。(読み返してみて欲しい。あなたはそうは思わないだろうか?)ストロフは大変美しいし、軽妙なスケルツァンドも面白いのだが(しかしこれとて、(真の霊感に満ち溢れた)第4部と同じ主題を扱っているのだから、全体としてみれば冗長である)、どうも、余った材料を並べた様な感がある。一番問題なのが「公爵の仲裁」で、(ここまでの争いと喧騒の音楽の活力には見るべきものがあると思うが)どう考えても長過ぎる。楽想も貧困である。しかしこれはまぁいい、第1部を飛ばして聴く、という手もある。もっと罪が深いのが(こともあろうに、全曲中最も精彩ある)第2部と第3部のイントロの凡庸さである。いずれも、時間的にはごく短いのでちょっとだけ我慢すればいいのだが(または、私みたいに百万回ほど聴いて耳を慣らしてしまえばいいのだが)、特に第2部のイントロはほとんど信じられない。どうして第2部本編の輝きと、この様な鈍重さがひとつの作品中に同居し得るのか。(これ以降は、それほど大きな傷はない。しいて言えば、第7部で突然オラトリオになる、というバランスの悪さだが、これは作曲者の信念にもとづくものらしい(回想録による)ので、どうこう言うべきものでもないだろう。)

 “まったく素晴らしい旋律の間に屑の山が積みあげられている。”とヴァーグナーが批判したこの欠点はどこから来るのであろうか? 私は、結局は訓練不足なのだと思う。彼が作曲の勉強を始めたのは20を過ぎてからで、最初のヒット作「幻想交響曲」は、27の時の作品である。彼は何よりも霊感に頼って作曲した。それはどんな作曲家でもそうかも知れない。しかし普通の(長く苦しい)訓練に耐えてきた作曲家ならば、霊感がとだえた時に、技術で補うことが出来た筈である。ベルリオーズには、その技術が足りなかった。いかに天才とはいえ、1時間半もかかる曲を埋め尽くすだけの霊感がそうそう湧いてくる訳が無い。どこかで、糸が切れる。彼にはその瞬間をつなぐことが出来なかったのである。

 しかし、これら全ての欠点にも関わらず、これはなんという美しい瞬間に満ち溢れている音楽であろうか! 「緊張の糸が切れてしまったら、凡庸な楽想しか出てこない」点ですら、真の天才の手になるからだと思えるほどだ。美点も欠点も一切合財含めて、最もベルリオーズ的な作品と言っていいだろう。


*データ

作曲年代
1839年
初  演
1839年11月24日:パリ
編  成
フルート2(1人はピッコロ持ち替え)、オーボエ2(1人はコーラングレ持ち替え)、クラリネット4、バスーン4、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ1、オフィクレド1、ティンパニ2対、大太鼓、シンバル、古式小シンバル、トライアングル2、タンブリン2、弦5部(第1及び第2ヴァイオリンは、各最低15、ヴィオラ最低10、チェロ最低14、コントラバス最低9)、ハープ2、アルト独唱、テノール独唱、バス独唱、混声合唱(最低84)。
構  成
全7部。詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約95分

*推薦CD

* レヴァイン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/他
 (ポリドール グラモフォン POCG4181〜2)
 現行のCDでは、最上位におく。ベルリン・フィルの潤いのある響きが素晴らしい。歌曲集「夏の夜」が併録されているのも、魅力である。
* インバル/フランクフルト放送交響楽団/他
 (日本コロンビア デンオン COCO75763〜4)
 優れた演奏には違いないが、やや「重い」。私の聴いた限りにおいては、インバルの演奏には、概してこういう傾向がある。「レクイエム」や「テ・デウム」の演奏では何の問題もないのだが、「ロメオ」や「ファウスト」では、ちょっと気になる。
* ミュンシュ/ボストン交響楽団/他
 (RCA GD60681)
 本講座では、(前回の「ベンヴェヌート」のように国内現役盤がない場合は別として)読者のCD/LD購入ガイドとしての便宜を考慮して、国内現役盤(一部、廃盤)から、推薦盤を選んでいるのだが、敢えて外盤を選ばせていただく場合もある。今回がそうである。「ミュンシュ/ベルリオーズ集成」(RCA BVCC−8138〜47)にも収録されているが、これだけのために10枚組みを買うのは、しんどい。96年12月に限定発売されたので、既に入手困難かも知れない。
 傷はある。もちろん、これは「完成度」よりも「一期一会の燃焼度」を取るミュンシュの持ち味とも言うべきものである。全く、なんという熱気か! 技術的というか物理的に言えば、活気のあるリズムと、ソロ楽器(群)の鮮やかなクローズアップがポイントではあるまいか。後者の例を挙げると、第1部におけるハープ、第2部における木管群。局面が変わる度に、次の「主役」が、標準的なそれよりもややフォルテ側に倒したバランスで現われる。これが、局面の移り変わりのリズムを作り、「わくわく感」を持続させる。特に「舞踏会」におけるこの効果は目覚ましい!


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Last Updated: Feb 5 1998 
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