“神のお情けによって幸いに私の仕事を成就することができたら、その優越によってわが敵を皆殺しにできる。わずか一人の敵を相手にして怒りを発するよりも、その方がさらに大なる、もっと輝かしい復讐になるであろう。”
(ベンヴェヌート・チェリーニ『自伝』より 黒田正利訳)
彼の生涯の転機となったのが、1838年である。彼は、この年に初演する予定の初の歌劇「ベンヴェヌート・チェリーニ」の準備に、全身全霊を注ぎ込んでいた。当時のフランス楽壇では、歌劇で成功しなければ、第一級の作曲家とはみなされなかったからである。それを中断する形で飛び込んできたのが「レクイエム」の作曲依頼であり、これが大成功を収めたことは前回に述べた。1837年のことである。年が開けて、満を持して用意されたこの歌劇が初演された。結果は、無残な大失敗であった。主たる原因は台本の稚拙さであったと言うが、とにかく彼はこれにより、歌劇作曲家としては、ほぼ再起不能の打撃を受けた。上述した当時のフランス楽壇の風潮を考えれば、これが彼にとってどれほどの衝撃であったか、想像するに余りある。
これは駄作だったのだろうか? あるいは(良くある)時代に先行し過ぎた、早過ぎた傑作だったのだろうか? 初演された頃には、ベルリオーズは既にかなり多くの敵を作っていたが、この初演の失敗を、彼らの妨害工作に帰すべき証拠はないし、(概して被害妄想気味の)『回想録』にも、そうは記されていない。
ベルリオーズは1850年に(即ち、既に「ロメオとジュリエット」「ファウストの劫罰」「テ・デウム」と、代表的な傑作群を完成させたのちに)、このように述懐している。
“私はもういちど、この不幸なオペラの総譜を入念に、冷静かつ公正を心がけて読みかえしてみた。だが楽想の変化の豊かさ、生彩ある情熱、その音楽的色彩の輝きを認めざるをえないのである。それはおそらく今後の私の作品にも例がなかろうと思うほどであり、この作品がもっとよい運命をたどるべき価値があるということを思わざるをえない。”
(『回想録』第48章より)
私もそう思う。手元に総譜こそないが(なんと、少なくとも1985年の時点で、この歌劇の信頼出来る総譜は未だに出版されていないのである。それ以降現在までの間に、新全集の一環として出版されたか否かは、今は詳らかにしない)、この稿を書くために、ほとんど20回近く聴き返してみた。だからこそ断言出来るのだ、これほどまでに生気溢れる輝かしい音楽は、滅多にあるものではないと! ではそれほどの音楽が、何故、彼の生涯(と、恐らくはのちの音楽史)に重大な影響を及ぼすほどの、大失敗に終わったのか?
まず、この歌劇の主役である実在の大芸術家、ベンヴェヌート・チェリーニについて述べる。Peter & Linda Murray 著の「西洋美術辞典」の、彼についての項目から引用しよう。
“Cellini, Benvenuto(1500 - 71)。フィレンツェの彫刻家、金銀細工師、漁色家。その「自叙伝」(1558 - 62)によってとくに知られる。これは偉大な自叙伝のひとつであり、(後略)”
彼はレオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェッリ、ラファエロに僅かに遅れた世代であり、同時代の知友にはティツィアーノと、偉大なるミケランジェロがおり、特にミケランジェロとは敬意を抱きあう間柄であった。彫刻家としては、まさに当時の世界最高の天才だったと言ってよく、主としてパリとフィレンツェで活躍した。特に有名な作品は、小品の「食卓塩入れ」と、メドゥーサの首を捧げ持つ、雄渾極まりない「ペルセウス」像である。後者の困難極まりない制作過程は、前記『自叙伝』で見事に活写されており、ベルリオーズの歌劇も、これの制作過程に題材を取っている。
さて、単なる天才彫刻家、というだけなら、世間に波風を立てることもなかったのだが[;^J^]、彼はまた、当代無双の暴れ者でもあったのである。腕っぷしも強い。抜き身の剣を振り回して、数十人を相手に大立ち回りを演ずるなどは、珍しくもなく、殺人に及んだことも二度や三度ではない。その度に逃亡である。彼ほどの芸術家であるが故に、ほとぼりがさめる頃には恩赦が与えられるのだが。また、自分を裏切った情婦を半ば強引に裸体彫刻のモデルとすると、毎日数時間も苦しいポーズを取らせて痛めつけたあげく、犯しまくる。まぁ道徳の基準が現代とは違うのではあるが。[;^J^] 自らの芸術の価値を熟知しているが故に、雇い主である専制君主たちに対しても、要求すべき報酬は要求する。(とはいえ、満額回答は、滅多に得られはしなかった−これは必ずしもフランス国王やフィレンツェ大公の吝嗇に帰すべきではない、当時はどこの国も戦時経済であり、芸術家に正当な報酬を支払うには、国庫が苦しすぎたのだ。)口八丁手八丁という奴である。敵を作るために生れてきたようなものだ。エピグラフに掲げた物騒な台詞は、執念深く自分を妨害する“敵”に、路上で出会わせた際、顔面蒼白の相手に対して、一刀両断にせんとばかりに剣の柄に手をかけながら、自らに言い聞かせたものなのである。
読者諸氏よ、ベルリオーズと二重写しにはならないか? 彼の姿が。エピグラフに引用した台詞などは、ベルリオーズの肉声だと言っても、誰も疑わないはずである。バイロンのハロルドもそうだったが、ベルリオーズは、恐らくは感情移入の天才(あるいは、感情移入した対象を作品としてまとめあげる天才)だったのである。
さて、ベルリオーズの歌劇に帰ろう。前記『自伝』に取材して、オペラ・コミックの形でまとめられた粗筋の概略を、まず示す。実はこの概略の中に、失敗の原因が既に読み取れるのであるが..
“法王財務官の娘テレサに想いをよせるチェリーニと、彼を憎からず想うテレサ、そして彼女に横恋慕する老彫刻家フィエラモスカ。謝肉祭の雑踏に紛れてのチェリーニによるテレサの誘拐。彼女の父の怒りと枢機卿の仲裁。チェリーニが制作中だったペルセウス像がその晩のうちに見事に完成すれば結婚を許すが、失敗すれば絞首刑。職人達を指揮しての、チェリーニの大奮闘。恋敵のフィエラモスカも、同じ芸術家として意気に感じ、協力する。遂にペルセウス像は完成し、チェリーニはテレサと結婚を許される。”
どこか違和感を感じないだろうか? 形としては、これはチェリーニの恋物語であり、それが成就するのだから、喜劇と言ってよい。(“劇”にはふたつの形式しかない、葬式で終れば悲劇、結婚式で終れば喜劇である−という極論は、ここでは置いておこう。)しかし、それではフィエラモスカは何をしているのだ? 最後の最後まで女を争わずに、あろうことか、土壇場では恋敵の恋を成就させるべく?協力しているのだ。いくらなんでも、これはおかしい。そう、彼は「恋敵に結婚させるために」協力したのではない、「チェリーニの偉大な芸術を完成させるために」協力したのである。つまり、女のことなど、どうでも良くなってしまったのである、芸術の前には。
これこそが問題だったのだ。従来、「リブレットに問題があった」と言われ続けてきており、それは「あまりお上品ではない言葉が使われている」ことを暗に指していたものだったが、おかしいとは思っていたのだ。私にはフランス語の微妙なニュアンスまでは判らないので、直接にはリブレットの「言葉遣い」の評価は出来ないのだが、仮に下品な言葉が使われていたとしても、これは「オペラ・コミック」の形式なのである。少々俗語が使われていたとしても、おかしくもなんともないではないか。
そうではなかったのだ、「リブレット」に問題があったのは間違いない。しかしそれは「言葉遣い」の問題などではなく、「ストーリー」が問題だったのである。この“芸術至上主義”が! この“格調高い”主題には、当時の(今でも?)聴衆は、到底、感情移入出来なかったのである。
もうひとつ、重大な問題があった。この歌劇は、当時のフランス人が、この形式に期待するものとは、余りにも異質だったのである。…と言い出すと、マイアベーアを頂点とするグランドオペラ形式と比較せねばならず、この時代のこのジャンルに明るくない私がボロを出すのは明白、一応逃げさせていただく。(大体、この時代のこのジャンルの音源が少ないのである、と、苦し紛れの言い逃れもしておく。[;^J^])それでもはっきりと言えることは、「定型」を外していること。アリアやデュエットに相当するものは確かにあるが、非常に“比重が低い”のである。形式を整えるためだけに、用意されているかのごとくである。同時に、一番、二番、と数えられるような、拍節構造の整った歌も、ごく少ない。何よりも、バレエがない。一言で表現すると、“散文的”なのである。定型を整えた“韻文芸術”を観に来た聴衆が、“散文芸術”を観せられて腹を立てない筈もなかろう。
そして、この“散文的”歌劇こそ、未来の歌劇の先取りであったことは、今更いうまでもない。
では、この歌劇の価値はどこにあるのか?
まず、リブレット面から述べると、その、内容の重層性、混交性である。これは喜劇であると同時に、殺人を伴う悲劇でもある。猥雑極まりなく、厳粛でもある。甘い恋の語らいもあれば、“女”など意識の彼方に飛び去ってしまう、“芸術”への熱狂と献身がある。これら全てが同時進行している。(またしても“多様性”だ。)
読者諸氏は、こういう作品を知っているはずである。そう、偉大なる「ドン・ジョヴァンニ」である! ドン・ジョヴァンニは、真の芸術家であり、思想家でもあった。それは何も、窓の下でマンドリンを弾けるからなどという低いレベルの話ではない。あそこまで女に打ち込める男は、女に関する芸術家でなければならなかったはずだ。「カタログの歌」こそは、その臨床記録であり、それが、あれほどまでに心浮き立つ、沸き上がる様な音楽になっていることこそ、モーツァルトの天才性の絶対的な証明に他ならないのであるが、それはさておき。ドン・ジョヴァンニは、芸術家/思想家/哲学者であった。女に関する。そして当然言うまでもなく、肉欲の追求者であった。男も女も、このように頭脳と肉体に引き裂かれており、それを絶妙なバランスで、僅かに肉体側に比重を移し、その至福と地獄を描き切ったのが、西洋音楽史上の最高傑作のひとつ、「ドン・ジョヴァンニ」であった。「ベンヴェヌート・チェリーニ」は、これのアンチテーゼに近い。同様に、頭脳と肉体に引き裂かれている芸術家は、ここでは、芸術側に身を倒すのである。テレサの結婚生活は幸福なものとなるであろうか? よし、肉体的には満足させられるとしても、夫は、ついには芸術の、精神の世界に去ってゆくだろう..
この歌劇のもうひとつの価値は、言うまでもなく、活気に満ち溢れた音楽である。「ローマの謝肉祭」「ベンヴェヌート・チェリーニ」、このふたつの名序曲を聴いた人には、ストーリーを伝える必要すら、ほとんど感じない。確かに、「ピーク値」では、「ロメオとジュリエット」に及ぶまい。「ロメジュリ」は、恐ろしくムラの多い作品だが、部分的な「ピーク性能」は、19世紀を通じて例の無いほどのレベルに到達している。また、全局面のバラエティと、各ピースの完成度の高さでは、「ファウストの劫罰」に及ぶまい。この歌劇は、定型的な「二重唱」などで、しばしば退屈になるが、「劫罰」には、退屈な瞬間は、一瞬たりともない。
しかしこれは比較する相手が悪すぎる。例えば、第1幕フィナーレの爆発的な活気に匹敵する音楽を、余人の誰が書き得たであろうか?
第三に、ベルリオーズの個人史的/内面的な点でも、重要である。私は、「幻想交響曲」と「イタリアのハロルド」の主人公は、単に傍観するだけの夢想家であると述べた。それが、これまでのベルリオーズの「主人公」の特徴であった。それがここで逆転するのである。チェリーニは極め付きの行動家である。そしてこの「行動家」としての性格は、続く「ロメオとジュリエット」「ファウストの劫罰」にも引き継がれるのである。ベルリオーズ自身、若い頃から、決して「傍観者」ではなかった。実生活においては、強烈な「行動者」であった。それが、彼の作品世界にも反映されだしたのである。夢見る頃は過ぎたのであろうか..
最後に、フランツ・リストの素晴らしい言葉を引用して、本講を終える。
“汝、チェリーニよ、誇るべし。汝は、困難な作品を見事に完成したのだから。そして汝、闘う戦士よ、汝もまたゴルゴーの首を打ち落とした。汝、熱血漢よ、汝もまた怪物を退治し、アンドロメダを手に入れ、美を征服した。汝の名は、不滅である。さて、われらが時代にも第二のチェリーニが現れた。彼もまた、理想を再興し、一から築き直そうとする偉大な芸術家である。チェリーニが目に訴えたとすれば、彼は耳に訴え、新たな輝きに包まれた理想を夢見てペルセウスに題材を求め、先に名をあげたふたりにも負けない、偉大で、完全な、非の打ちどころのない作品を創造した。汝、ベルリオーズよ、誇るべし。汝もまた、不屈の精神で戦っているのだから。そして、汝がまだメドゥーサを退治していなくとも、蛇どもがまだ汝の足下でしゅるしゅると音をたて、ぞっとするような舌をちらつかせて汝に挑みかかろうとも、また、嫉妬や嘲笑、悪意、卑劣な行ないが汝を取り囲み、その数を増すように見えようとも、何も恐れることはない。神々は汝の味方であり、ペルセウス同様、汝にも、兜と、翼と、盾と、剣を、すなわち力と、敏捷さと、知恵と、強靭さを与えたのだ。……チェリーニと同じく、ベルリオーズも無数の困難に直面している。碌な才能もないのに時の運に恵まれたライヴァルたちは、彼に牙を剥いた。彼の天才を認めざるを得なかった人々も、軟弱で煮えきらない反応を示すにとどまった。ベルリオーズも、チェリーニのように盲目的な偏見や執拗な悪意と戦っているが、その作品を公平な世論の前に、つまり民衆の前に直接示すことができず、彼の作品を敵視している連中の手を通さなければならないという点では、チェリーニよりも不幸である。”
作曲年代1838年初 演1838年9月10日:パリ編 成フルート2(1人はピッコロ持ち替え)、オーボエ2、クラリネット2、バスーン4、ホルン4、トランペット4、コルネット2、トロンボーン3、オフィクレド1、ティンパニ1対、大太鼓、シンバル、トライアングル、タンブリン2、小鉄床、ギター2、弦5部、ハープ2。構 成全2幕4景。詳細は略。本文参照のこと。所要時間約160分
国内発売されていないのだが、(他に外盤はあるのかも知れないが、私の知る限り)唯一の録音であるので紹介する。文献的価値にとどまらぬ、優れた演奏である。他に比較できる演奏が無いのがもどかしいが、素晴らしい生命力に溢れた演奏であり、これこそベルリオーズと、ベンヴェヌート・チェリーニの炎の様な生き方に相応しいものである。デイヴィスのベルリオーズシリーズは、ほぼ全てCD化され、大部分が国内発売されたのだが、これだけが国内発売されなかった。国辱ものである!
Last Updated: Dec 28 1995
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