“「自由」よ、さはれ爾の旗、裂かれて猶もひるがへり、
あらしに向ひ雷雲の狂ふが如く閃めくよ、
爾の鋭き喇叭のね、弱りて今は消えんとするも、
なほ烈風のあとに殘せる至高の聲。
爾の樹木は花を失ひ、其樹皮は
斧に切られて姿は粗し又賤し
されど樹液は猶のこり、其種北土の
胸にすら深く蒔かれて地にうもる、
かくて他日の優る春かく苦からぬ果(み)を生まむ。”
(バイロン『チャイルド・ハロルドの巡禮』より 土井晩翠譯)
幻想交響曲とほぼ同時期の作品であるが、知名度には格段の差がある。(とはいえ、現役盤は国内でも9種ほどあり、意外に多いと言えよう。)幻想交響曲に比べると、遥かに健全で穏やかな内容を持ち、「幻想」ほど病的でも劇的でもないからであろう。しかしその音楽的な価値は、決して劣るものではない。むしろ陵駕している面も少なからずあるのだ。
ベルリオーズの回想録によれば、この曲は、ストラディヴァリウスによるヴィオラの銘器を入手したパガニーニの依頼で着手された(ベルリオーズはこの楽器のことを良く知らないからと辞退したが、たっての所望に引き受けた)とのことであるが、これは今では疑問視されている。余談になるが、ベルリオーズの回想録(白水社から翻訳がでている)は、まことに面白い読み物なのであるが、とにかく信用できないのである。[;^J^] 意識的に嘘を書いているのではなく、記憶のまやかしなのであろう。ただ、その後の逸話は、如何にも「らしい」ので、真偽はさておき紹介しよう。第1楽章を書き上げたベルリオーズは、それをパガニーニに見せた。パガニーニは、ヴィオラ独奏部の長大な休止を見て、「これはいけない、私は絶えず弾いていなくてはならないのです」と、不満をもらす。するとベルリオーズは、「ですから、あなたが求めているのはヴィオラ協奏曲なのです。それを書けるのはあなたしかおりますまい」と答える。パガニーニは失望して去り、ベルリオーズはあらためて、この曲を「ヴィオラ独奏付き」交響曲として練り直しにかかったのである。
この交響曲は、バイロンの「チャイルド・ハロルドの遍歴」を下敷きにしており、ヴィオラ独奏が(幻想交響曲における固定観念の様に)ハロルドを演じ、各楽章が、物語の情景を表している、とされているが、実のところ、バイロンの作品との関連はほとんど認められない。世をはかなんでさすらいの旅に出て、自然を愛し、歴史を省察する孤独なヒーロー、という一点にのみ、バイロンの詩との接点がある。バイロンの作品のタイトルが借用された事情は、当時広く人口に膾灸していた、この作品の名声にあやかろうという気持ちもあったに違いないが、何よりも、ベルリオーズ自身が、ひどくロマンティックに感情移入(惑溺)してしまったからであろう。エピグラフに掲げた、この詩の中でも特に知られた、気高く誇り高い一節は、むしろベートーヴェンの音楽にこそ相応しく、ベルリオーズの音楽にはこの様なトーンはないのだが、青年ベルリオーズが熱狂したことは、断言出来る。
これはむしろ、「イタリアのベルリオーズ」と呼ぶべき作品なのである。ベルリオーズは、ローマ大賞を獲得後、2年弱、イタリアに留学している。音楽家ベルリオーズにとって、この期間は苦痛以外の何物でもなかったらしい。彼の目(耳)には、当時のイタリアの音楽水準は、パリよりもさらに酷かったからである。しかし、この留学期間中、留学生には自由時間がたっぷり取れ、(というか、まとまった講義も課題も無いに等しいのである、)金が無いなりに、山間部を探検にいったり、徒歩旅行をしたりして見聞をひろめていたのである。これらの小旅行記は、回想録の前半を彩る最も魅力的なページであるが、こうして蓄積されたイタリアの田舎の印象が、この曲に結実したことは確実である。
第1楽章 山の中のハロルド、憂欝と幸福と歓喜の情景 第2楽章 夜の祈りを歌う巡礼の行進 第3楽章 アブルッチの山人が愛人に寄せるセレナード 第4楽章 山賊の酒盛と前の情景の想い出
これらのエピソードは、(第1楽章を除けば)バイロンの作品中には無い。むしろ、イタリア旅行中のベルリオーズの体験なのである。さすがに、山賊に捉えられたり、その一味に身を投じたりしたことはなかったろうが、山賊たちの生活への憧れは、心の底にあったかも知れない。(「レリオ」では、はっきりそう語っている。)余談だが、この頃、剣や銃で山賊まがいの連中と戦ったことは、何度かあったようである。
この曲は、その循環主題である「ハロルドの主題」の魅力を抜きにしては語ることができない。第1楽章の序奏部で、ハープのアルペジオを伴うヴィオラ独奏で呈示されるこの主題を紹介する。
(強拍を●、弱拍を○で示す。階名の上の矢印は、その音符が、前の音符より高いか低いかを示す。アダージョ。)
↓ ↑ ↓ ソ ー ー ー ミ ー ー ー ー ー ー ー フ ァ ー ー ラ ー ー ー ー ー ー ー ● ○ ○ ● ○ ○ ↓ ↑ ↑ ↑ ↓ ↓ ↓ ソ ー ー ー ド ー ー ミ ソ ー ー ー フ ァ ー ミ レ ー ー ー ● ○ ○ ● ○ ○ ↑ ↓ ↑ ↓ ソ ー ー ー ミ ー ー ー ー ー ー ー ラ ー ー ー レ ー ー ー ー ー ー ー ● ○ ○ ● ○ ○ ↓ ↑ ↑ ↑ ↓ ↓ ↓ ソ ー ー シ レ ー ー ー ソ ー ー ー ミ ー ー レ ド ー ー ー ● ○ ○ ● ○ ○
なんという、素直で伸びやかな楽想か! 幻想交響曲の固定観念の、屈折した、まとまりのない旋律線(それがあの曲のダイナミズムの源泉ではあるが)とは比較にならない。特に6小節目に付せられたII7の和音が、甘酸っぱい、青春の追憶を呼び起こす。このII7の和音の用法は、メンデルスゾーン(この時期に、ベルリオーズと交友関係(と言っても、こと対ベルリオーズに限って言えば、相当裏表があった人物の様ではあるが、まぁいい[;^J^])を結んでいる)の「春の歌」の、あの懐かしい感傷を想い起こさせる。
第1楽章では、序奏部でこの主題が呈示/確保されたのち、ソナタ形式による活気のある主部に移る。風景の描写というよりは、幸福感を表現している。第2楽章は、巡礼の行進曲。和声とリズムに関する、革新的とは言わないまでも、確かに新しい感覚がある。第3楽章は、ひなびたセレナード。第4楽章は、ベルリオーズが生涯を通じて得意とした、バッカスの饗宴。前3楽章の主題を順次回想しては否定していくという、ベートーヴェンの第9交響曲の終楽章と良く似た構成の序奏部を持つ。
幻想交響曲に顕著に見られた、「シーンの並列」という特徴は、この作品ではさらにはっきりとしている。もはや、ストーリーは無いに等しい。同時に、「オペラ的発想」は、さらに円熟している。第2楽章では、クレッシェンド/デクレッシェンドして行く、単調な巡礼の合唱(ボロディンの『中央アジアの平原にて』を想起しても良い)と、それと「非同期」では無いが「無関係」に鳴り響く「鐘」の音(『幻想交響曲』を想起せよ)、そしてそれを傍観している、ハロルド主題、この3つの要素が、互いに独立し、かつ、渾然一体と融合しているのである。
「傍観」! これこそが幻想交響曲の「主人公」の特徴であったが、これはハロルドの「主人公」の特徴でもある。彼ら、ロマンティックな情熱と芸術への夢に胸を焦がす青年たちには、ついに、実行力が伴わないのであった。自然の中を彷徨し、俗界の醜さを嘆き、呪い、侮蔑し、歴史に想いを馳せ、しかし自らは何一つ生み出せないロマンティストたち..バイロンの主人公にも、明らかにこの性質がある。(そして私にも..)
“人間は夢みるとき神のひとりであり、考えるとき乞食である”
“あなたは人間を求めていたのではありません。一つの世界を求めていたのです”
“君は奴隷の勤めをする気がなかったために、何もしなかった。
そして、何もしなかったことが、きみを気むずかしく、空想家にしてしまった”
(ホルダーリン『ヒュペーリオン』より 手塚富雄訳)
もしもあなたが幻想交響曲の後半2楽章に、鬼面人を驚かす類の「ガジェット」、どぎついまでの「リアリズム」、意表をつく「アイデア」、といったもの以外の要素、
断頭台から頭部が落ちる音、
その直後の群集の歓呼の大騒ぎ、
地獄の怪物の唸り声や怪鳥の叫び、
娼婦と化した恋人の下品なダンス、
コール・レニョによる骸骨のダンス、
といった、皮相な描写以外の要素、つまり、ロマンティックな想像力が産み出した情景を、音響によって実体化しようとする意志と、不完全ながらもそれを実現した楽器法の冴え、に、価値を見出すならば、「ハロルド」の終楽章を聴き給え。それは山賊どもの饗宴であり、地獄の祭典に比較すれば「翔び方」は少ない(とにかく人間界の事象である!)が、このロマンティックな情景を音楽事象として実現する、その技法が、一段と向上していることがわかるだろう。
(念のために申し上げるが、上述したような「皮相な」要素を軽んじるものではない。これも幻想交響曲の重要な(価値ある)側面であり、これを重点的に味わう、というのも立派な鑑賞態度である。大体、音楽からこういう胡乱な要素を排除してしまったら、クラシック音楽はなんと貧しいものになってしまうことであろうか。)
そこには、地獄の鐘の恐ろしい響きはない。しかし溢れんばかりの豊かな楽想がある。様々な独奏楽器に姿を変えて我々を幻惑する怪物たちはいない。しかし圧倒的に充実した全管弦楽の熱量があるのだ。これは正しく、ドラクロワの燃えるような油彩画の世界だ! ベルリオーズは、遂に管弦楽を自家薬籠中の物としたのだ。躍動するリズムにサポートされた輝かしい色彩感覚は、彼の生涯の武器となるだろう。その色彩には、のちの表現主義やバーバリズムの、原色のぎらめきはなく、後期ロマン派の、ニスで磨き上げられた様な豪華な質感とも無縁である。むしろベートーヴェンの田園交響曲の第1楽章の展開部に聴かれる、あの簡素でありながら鮮やかな、音楽史上(少なくとも交響曲史上)初めて、と言える色彩感覚を、ベートーヴェンにはなかった、楽器法に関する奔放なイマジネーションで拡大したものと言えよう。
そして、この曲の魅力のもうひとつの源泉は、第1楽章の幸福感である。大自然に抱かれていることの、沸き立つような喜び! そして(「ハロルド」主題に象徴される)素朴な輝かしさ! (これは何度も繰り返して言うが、ベートーヴェンの死後、まだ何年も立っていないのだ。ベルリオーズは、ヴァーグナーよりもウェーバーに近いのである。)そしてこの初々しい幸福感は、(管弦楽法がますます冴え渡っていくのとは逆に、)次第にベルリオーズから失われていくのである。
だからこそ、ハロルドを聴くべきなのだ。ここには、まだ多少未熟ながら(しかし幻想交響曲よりは遥かに円熟した)管弦楽の操縦技法の冴えと、未だ失われぬ甘酸っぱい青春のエコーの、絶妙なブレンドがある。こういう作品は、その作曲家の生涯に於て、そう何曲も創られるものではない−というより、ただ一度のチャンスがあるかないか、と言うべきであろう。もしもあなたが、「青春の感傷」に価値を認めないのならば、これ以上、この曲を薦めることはしない。
そう、幻想交響曲は、青春の陰画であり、イタリアのハロルドは、青春の陽画なのだ。前者は「愛と誠」の岩清水の世界であり、後者は「750ライダー」の世界なのである。(良く判らない人は、このパラグラフを読み飛ばしてください。[;^J^])
最後に、もうひとつ逸話を紹介して終ろう。初演の4年後、初めてこの作品を聴いたパガニーニは、楽屋にベルリオーズを訪ね、(のちに彼の命を奪った咽頭癌で、ほとんど声を出せなかったらしいが)「親愛なる友よ。ベートーヴェンは死んだ。再び彼に生命を与える者はベルリオーズの他にありません」という言葉と共に、2万フラン(今の貨幣価値なら、数千万円に相当するであろう)を送ったのである。ベルリオーズはこれを心からの感謝と共に受け取り、借金を清算して、長年暖めていたプラン、シェイクスピアのロメオとジュリエットによる大交響曲を作曲し、パガニーニに献呈した。しかし、ついにパガニーニの死には間に合わなかったのである..
作曲年代1834年初 演1834年12月23日:パリ編 成ヴィオラ独奏、フルート2(1人はピッコロ持ち替え)、オーボエ2(1人はコーラングレ持ち替え)、クラリネット2、バスーン4、ホルン4、トランペット2、コルネット2、トロンボーン3、チューバ1、ティンパニ1対、トライアングル、シンバル、弦5部、ハープ構 成全4楽章。詳細は略。本文参照のこと。所要時間約40分
いずれも優劣付けがたいデジタル録音である。どちらを聴いても間違いはないが、デュトワ盤には、フィルアップとして序曲が2曲収められているのが魅力。序曲「海賊」は、第10講で取り上げるが、一聴の価値がある名序曲である。序曲「ロブ・ロイ」は、「ハロルド」の主題の原形がいくつか含まれているという興味はあるが(ベルリオーズには、こういうケースがしばしばある。例えば序曲「宗教裁判官」の主題は、のちに幻想交響曲の固定観念となった)、よほどのマニアでない限り、特に聴く必要はない。コリン・デイヴィス/ロンドン交響楽団/今井信子
特に目立つ演奏という訳ではないが、見逃せない魅力が3点ある。ジャケットがターナーの美しいイタリア風景画であること。(この点で、インバルのベルリオーズ集成は糾弾に値する。)ヴィオラが今井信子であること。フィルアップに、第12講で取り上げる、「トリスティア」という美しい合唱作品のほとんど唯一の録音が収められていること。ミュンシュ/ボストン交響楽団/プリムローズ
「ミュンシュ/ベルリオーズ集成」という10枚組み(限定発売)。改めて聴きかえしてみると、少々アラも目立つのだが、勢いで押し切られてしまう。一聴の価値はある。
この他に、「バーンスタイン・フォーエヴァー」という3枚組(東芝EMI TOCE6751〜3)に収められたテイクの、両端楽章の面白さは見事であるが、中間楽章にさほどの冴えがないので、参考にとどめる。トスカニーニによるモノラル盤も、忘れがたい。
Last Updated: Feb 5 1998
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