新・ベルリオーズ入門講座 第11講

荘厳ミサ曲 (1824)



“人生は歩く影法師、
あわれな役者だ。
束の間の舞台の上で、
身振りよろしく動き回ってはみるものの、
出場が終れば、跡形もない。
白痴の語るお話だ、
何やらわめき立ててはいるものの、
何の意味もありはしない。”

(シェイクスピア『マクベス』より 小津次郎訳)


 ほとんどありとあらゆる文献で、「破棄された作品」とされている、最初期の作品である。若書きも若書き、作曲者20歳の作品であり、まともな音楽教育を受け始めてから、2年たっていない。にも関らず、こんな大曲を書くと言う神経が尋常ではない。しかも、これ以前に、カンタータ、オラトリオ、オペラ、劇的情景を、各1曲ずつ作曲していたのである。これら一切、数年後に、忸怩たるベルリオーズによって火中に投じられたはずだったが、「荘厳ミサ曲」の自筆総譜は作曲者の友人の手に渡っており、彼の死後、とある教会に死蔵されたまま100年の眠りを経て、1991年に発見されたのである。

 これは重要な発見であった。単に「初期の習作」を発見した、と言うだけのことならば、ニュースにもならない。この作品は「初期の習作」には違い無いが、その中には、のちのベルリオーズの数多の作品の特徴が早くも顕れており、その作曲年代の早さから、これらが、この作曲家の本質であった、ということが改めて確認できたのである。具体的には、多様な楽想、管弦楽の色彩の豊かさ、活力に満ちたリズム、そしてムラの大きさである。全14楽章のうちには、のちに、そっくりそのまま別の作品に転用された程、完成度の高い音楽もあれば、全く箸にも棒にもかからない音楽もある。彼の生涯を通じての最高水準に近いメロディーもあれば、理解に苦しむほど凡庸なメロディーもある。

 1993年にガーディナーらによって復活蘇演されたこの作品は、翌年CD/LD化された。


1.序奏
 どうも存在意義のはっきりしない音楽である。ただの(ゆったりとした)音階練習にしか聴こえないのだが..[;^J^]
2.キリエ
 ..という凡曲のあとに、いきなりこれが出てくるあたりが凄いのである。のちの「レクイエム」の「オッフェルトリウム」そのもの。(ちなみに、作曲者自身が自ら最高傑作と認定した作品である「レクイエム」の全楽章中、シューマンが最高傑作と認定したのが、「オッフェルトリウム」なのである。)中間部の「クリステ・エレイソン」は、明らかに、のちの「ファウストの劫罰」の「妖精の踊り」のプロトタイプである。暗鬱なキリエが復帰した第三部が、次第に速度も音量も増し、長調に転じて輝かしく終わるのは、素晴らしいセンスである。「カルミナ・ブラーナ」の遥かなる先達と言えようか。
3.グローリア

 実に軽やかな音楽。重量感がなくはないが、それよりも浮遊感が印象的である。その「浮遊感」は、男声のスタッカートの上に、女声による「ローマの謝肉祭」の主旋律(つまり、「ベンヴェヌート・チェリーニ」でも用いられている)、

「ドーーーーーソーーーラシドレミファッミレミレラッレドシラソッラ」

が、軽やかに浮び上がることで醸し出されている。
4.グラーティアス
 幻想交響曲の「野の風景」合唱付き。実に素晴らしい音楽! これを聴いていて想いだしたのが、ベートーヴェンが、「第九」の「どこ」から声楽を入れようかと、苦心した話。第3楽章の第2主題に声楽を被せれば「実にしっくりくるだろう」(僕もそう思う)と、さんざん悩んだ末に、今ある形の様に、未練がましく声楽を引っ張りに引っ張って出し惜しみした、と。[;^J^] この曲は、その逡巡のベルリオーズ版という気がする。
5.クオニアム
 作曲者自身に「忌まわしいフーガ」と切って捨てられた、可哀想な音楽。[;^J^] ベルリオーズの真意は、宗教曲にありがちな、「生気のないフーガ」を、教科書どおりに書いてしまった、という悔やみではないだろうか?
6.クレド
 「荘厳ミサ曲」は、いくつかの、驚くほど凡庸な楽章を含んでいるが、これがそのひとつである。和声進行の単純さと芸の無さ、メロディーのつまらなさ。しかし、作曲を勉強し始めてから2年目の学生の作品としては、こんなものではあるまいか? むしろ、記憶するに値する、驚嘆すべき楽章が(少なくとも5つも)あるということが、只事ではないのである。
7.インカルナトゥス
 牧歌的な伸びやかさが印象的な音楽。上述したたどたどしさは、この曲にも認められる。
8.クルチフィクスス
 さほどの音楽ではないのだが、作曲者の初期の大傑作「クレオパトラの死」に通ずる、ほとんど新ウィーン派を想わせる表現が、どきっとさせる。
9.レスルレクシト
 ベルリオーズが、一旦は残した(が、最終的にはやはり焼却された)唯一の楽章であり、また実に内容が濃い。30秒目位からの音楽は、「テ・デウム」の「クリステ、レクス・グローリエ」だなと思っていると、いきなり、「レクイエム」の「トゥーバ・ミルム」が始まるのである! 無論、あれほどの物量は要求せず、合唱の替わりにバス独唱だったりするが、かえって効果的とまでは言わぬまでも、新鮮である。そして後半は、「ベンヴェヌート・チェリーニ」の白眉とも言うべき、第1幕フィナーレの素晴らしい広がりを持った音楽! これが元々は宗教音楽として構想されていたとは! この楽章は、(焼却される前に)改訂されている。主たる変更は、バス独唱を合唱にしたことと、トランペットとティンパニを増強したこと、及び、後半の合唱のメロディーを、より一層輝かしくしたことである。
10.奉納のモテト
 バロックオペラ(あるいはオラトリオ)風の、荘重な音楽。霊感は希薄であると言わざるを得ない。
11.サンクトゥス
 記憶すべきほどの音楽ではないのだが、活力に満ちていることは認めずばなるまい。
12.オー・サルターリス
 清澄な響きは心に染み透るが、やはり水準を越えているとは言いがたい。
13.アニュス・デイ
 全曲中、最も霊感に満ち溢れた音楽のひとつであり、のちに、ほとんどこのままの形で、「テ・デウム」の「テ・エルゴ・クェセムス」に転用された。これが作曲家(の卵)2年生の作品なのである。天才は生まれた時から天才である、ということを思い知らされる。
14.ドミネ・サルヴム
 慣例としての皇帝(国王)讃歌。位置付けとしては“軽い”楽章なのだが、気合の入った“祭礼”音楽である。これものちのベルリオーズの、同種の作品を想起させるところがある。

 全体としては傑作とは言えない。しかし、これを作曲したのは、右も左もわからぬ青二才なのである。よくもまぁこれだけの旋律を、リズムを、音色を、アイデアを思い付いたものだ。まさに天才の証明である。無論、多くの断片は、のちに、遥かに優れた傑作群(『幻想』『レクイエム』『ベンヴェヌート・チェリーニ』『テ・デウム』『クレオパトラの死』)で、大輪の花を咲かせたのだから、この作品が葬られたことは、トータルに見れば、望ましいことではあった。しかし、逆の(目一杯意地悪い)見方をすれば、ベルリオーズは、弱冠20歳で獲得したアイデアを、生涯かけてしゃぶりつくした(20歳の自分を超えられなかった)とも、言って言えなくは無いのである。


*データ

作曲年代
1824年
初  演
1825年7月10日:パリ
編  成
フルート2、ピッコロ1(省略可)、オーボエ2、クラリネット2、バスーン2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、オフィクレド、セルパン、ブッキーナ、ティンパニ、シンバル、タムタム、弦5部、ハープ(省略可)、ソプラノ独唱、テノール独唱、バス独唱、混声4部合唱。
構  成
全14楽章。詳細は略。本文参照のこと。
所要時間
約55分

*推薦CD/LD

* ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク/他
 (日本フォノグラム フィリップス PHCP−5227)
 (日本フォノグラム フィリップス PHLP−4815)(LD)
 CDもLDも、ライナーノートから収録図版に至るまで「ほとんど」全く同じ内容なのだが、唯一異なるのは、CDには「レスルレクシト」の初版と改訂版の両方が収録されていることであり、“画像付き”とのトレードオフになる。資料的にはCDのメリットは実に大きく、結局両方買う羽目に追い込まれてしまう。私自身は、LDを観る機会の方が圧倒的に多い。それは、この団体(ORR)がオリジナル楽器を使っているからでもあるが(といっても、「幻想交響曲」のLDほど派手にアピールはしていない。オフィクレドも控え目にしか写されていないし、セルパンはチューバで代用されている。ブッキーナ(ラッパの開口部が龍の頭になっている古式トロンボーン)が面白い)、このオケと合唱団(モンテヴェルディ合唱団)には美人が多くて、目に優しいからである。[^J^]


MASK 倉田わたるのミクロコスモスへの扉
Last Updated: Nov 21 2001 
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